ものさし②
ずぶ濡れになったフィアを見つけたのは、アリアだった。納屋まであともう少しだった。それなのに、足が止まってしまっていたのだ。
「人間の魔法使いのフィア、何してるの?」
いつものフィアなら笑えそうな変な呼びかけに、笑う余裕すらなかった。
「どこに行ってたの?」
フィアの声は不機嫌だった。だけど、アリアの表情はまっすぐなまま。黄金の瞳が静かにまっすぐ注がれる。
フィアは、世界線の違うことを同じことのように考えてしまったのだ。
アリアたち魔女の感覚の方が間違っていないんじゃないだろうか。人間を一瞬でぺらぺらにして、それを壁に貼り付けて楽しむ。
魔女なのだもの。魔女の方が、異常じゃない。それが魔女なんだもの。
どこか狂ってきている人々に、いつも狂っている魔女を重ねる。魔女は揺るがない。正常なのだ。
もちろん、フィアにも分かるところはある。竜の被害は少なくなってきているが、皆無ではないのだから。それなのに、人出は全然足りない。全然手が回っていない。
それに加え、物資は戦場優先になっている。明らかに、皆が飢えてきている。娯楽どころか、食べ物でさえ。
さらに、人手がないから兵にとられる。そして、人手がないから、竜の被害に兵が死ぬ。働き手がまたひとり、またひとり、といなくなる町。
戦が悪い。その戦でもまた殺される。でも、悪いのは、キメラを使って人を攫っていたヒェスネビ皇国。
戦を仕掛けたヒェスネビが悪い。
なんのために頑張っているのか、そんなことも分からなくなる。
あいつらが悪いんだ、そう思ってしまう気持ちも分かる。怒りをぶつけたくなる気持ちも分かる。だけど、さっきの流れ着いた彼が、悪だとは思えなかった。
「人間って本っ当に面倒くさい」
アリアがソフィアと同じ言葉を言い放つ。ドキッとしてしまった。だけど、今のフィアはその言葉に反応して反発する。幼いフィアではないから。その意味を勝手に掘り下げてしまうから。
「なによっ! なんにも分かってないくせにっ」
言葉を乱暴に放ったフィアの目に、アリアが真っ直ぐに映り込んだ。不思議なほど、真っ直ぐに。
「知られたくないって言いながら隠してしまう癖に、分かってほしいって言う。都合のいい時だけ、魔女を使って納得しようとする。……はい」
突き出されたものは花びらの砂糖漬けの瓶だった。そして、ゆるゆると手を伸ばしたフィアの手のひらに、ぽんと載せる。その時に、頭上の雨が遮られていることに気づいた。
「初めの質問の答え。ティリカリカのお菓子屋さんに行ってたの。全部食べちゃって悪いことしたなぁって思ったから。大切な思い出の食べ物って、後から知ったから」
当たり前のようにしてフィアの記憶や感情を読んでいたアリアは、それからフィアの手を繋ぐ。温かい風が巻き起こると、それが一瞬にしてフィアを乾かした。
「あったかい食べ物は宿屋の女が持ってきてる。鍋に入ってあるから、また温めればいいの」
フィアの手が引っ張られる。自ずとフィアの足も一歩ずつ進んでいく。
「あんたの言うふかふかのベッドがどんなのかは分からないけど、納屋の藁は結構ふかふかよ」
……あとは……
続けようとするアリアをフィアはふわりと包み込んでいた。ふわっとした髪はなんだか本当に猫みたい。それに体を猫みたいにくねらせる。
「さっきはごめんね、アリア」
「なによ、なによ。急に抱っこされても困るんだから。人間がプロポーズ以外のことをするなんておかしいわ。どうしてあげればいいのか、分かんないじゃない」
そのよく分からない愛情表現に、フィアは思っていたことを口にした。
「アリアのプロポーズって攻撃することなの?」
「そうよ。プロポーズってとってもドキドキするものなのでしょう? ドキドキはびっくりする時にするものよ。びっくりして最大限に怖いってことでしょう? いつも急にプロポーズされて、困っているのよ。でも、可愛いあたしと一緒にいたいってことでしょう? だから、怖くないように、何にもできないように、飾っておいてあげるのよ。プロポーズって変な愛情表現よね、ほんと、人間って分かんない」
『猫』と『犬』と『キツネ』と『人間』
『魔女』と『竜』と『魔物』と『使い魔の魔法使い』の変な仲間たち。
「私は、アリアがよく分かんないわ」
そのまま小さなアリアを抱きあげると、ふわっと甘いにおいがする。きっと、ティリカリカでも花びらの砂糖漬けをたくさん食べてきた後なのだろう。
戸惑う声のアリアは、だけど、大人しくなって、やっぱり猫みたいにふわっとフィアの胸に頬を寄せてきた。
「なによ、なによぉ。あたしは、フィアよりお姉さんなのよぉっ」
「だけど、人間のことはよく分かんないんでしょ?」
あの人たちを庇う気にもなれないし、攻撃する気はもちろんない。
私があの人たちに同調すれば、異なれば、どちらにしても町ひとつくらい飛んでしまうんだから。
分かるから。分かってしまうから。だから、辛くて、苦しくなるのだろう。
そんな気持ち、私は、分かりたくない。
だけど、そんな沼に入ってしまったフィアを、アリアが救ってくれたように思えたのだ。フィアはちっぽけな魔法使いなのだから。全部は守れない。
「嫌だったら言って。でも、こうやって抱きしめるのも、愛情表現のひとつ。びっくりしても、怖くないでしょう? 人間は、そんな表現をたくさん持ってるの。だけど、相手が嫌だと思うことはしない。だから、私からも一つお礼に教えてあげるわ。他の人たちは分からないけど、あの森で骨抜きになったふたりは、たぶんアリアの言うプロポーズはしていないつもりよ。気が向いたら戻してあげて。アリアも、アリアのことを好きでもない者は飾りたくないでしょう?」
アリアとフィアが違うように、ベルナンドとオズワルトも、フィアとはきっと違う。
彼らは彼らで、彼らの理由があって。
そう、知りたいと思う。だけど、たとえ、あの骨抜きふたりがヒェスネビの者であったとしても、助けられる者は助けたい。
フィアが助けたいのは、フィアの手の中に入るだけの人たち。他のことはよく分からない。分からないけど、考えてしまう。手の届かないところまで、考えてしまう。
フィアが守りたいものは、……
アリア然り、ポチ然り。ディケもオズも然り。
そして、ベルも。
負ければベルナンドは確実に殺される。逃げ道のないベルナンドを護らなくちゃならない。
はじめは竜を抑えないと、と思っていた。キメラの竜が集めた竜の巫女の先にある真実は、きっと、竜を操ることだろうから。そんなことされれば、ティリカなどひとたまりもない。
だから、陽光の力をあんなに持っていたソフィアを探した。ソフィアなら竜を大人しくできるんじゃないかと思っていたのだ。
だけど、戦場へも向かおうと思うようにもなってきていた。
戦が終われば、オズの心配もベルの心配もなくなる。それに、あの人たちもきっと。
フィアの力は他人に比べれば大きい。ソフィアのおかげではあるのだろうが、人間と戦ったことなんてないから、よく分からないけれど、力になれると思っていた。
フィアの手の中には温かいスープの器。
納屋の中には温かい食べ物と甘い花びらの砂糖菓子。そして、甘い匂いとコォノミをかじる音。とても平和で穏やかで。
鏡の魔法に、毛糸の帽子。
憎まれ口と。
笑い声。
もう、リリカの花が散ることのないそんな未来。
それなのに、真っ直ぐに進めない。どこか、怖い。終わらせたい……のに。
たぶん、拒絶されることが、……。目の前で、またみんないなくなることが……。
「私の守りたいものは、大切なあなたたち」
フィアはもう一度、自分の中に押し込むようにして、二度と壊されないように、温かい器で掌を温めていた。
第三章
『竜の被害と白き乙女』了














