氷の魔法使い
碧き竜が空からやってきたのはたった半時前だそう。確かにそのくらい前に、竜の姿を見たから追いかけたのだ。しかし、既にそこにはたくさんの死傷者がいて、うめき声が聞こえていて、一歩も進めない兵達がこらえきれずに飛ばされていて……。
全てを呑み込む風の中だった。
その音が咽び泣くような、竜の泣き声なのだと思えるようになったのもこの一年。
風竜の恐ろしさは誰よりも知っている。
フィアはその風の中にある町に、髪ひとつ揺らさずに突き進む。風の防壁を作ったのだ。もう、あの時のソフィアを無意味に不思議がったりはしない。
「心配しないで」
その言葉は人々へ。
もう、暴走もしない。この一年、結構な数の討伐を飛び入りで手伝ってきたから、自信にもなっている。はじめは後方支援を買って出ていたけれど、ひとりの方がやりやすいことにも気付いた。
だけど、極力風の魔法には触らないようにする。使うのは必要最低限。そして、踏み込む。風竜がフィアを見つけたのだ。突風に吹かれる前に走り出す。
大きな爪が大地を削る。
ソフィアのようにはいかない。
空に光を一つ。
「ご馳走をあげるから」
極上の練りに練った魔力の塊であるコォノミ。もう一つ即座に空に上げる。フィアはその間に風を操り、その竜へと近づく。近づかなくちゃ、遠距離で何とかなる相手ではない。
相手は竜。秘めたる魔力はあちらが上なのだ。
時間はかけられない。一瞬が運命を左右する。竜にとって陽光の魔力持ちのフィアはご馳走だから。
彼らはただ空腹なのだ。その欲望には勝てない。だから、ひとりの方がやりやすい。
竜がフィアの上げたコォノミの一つ目を咀嚼する。もう一つ。わずかに隙のできた竜の足元へ、風を纏わせた体を滑り込ませる。竜の下腹部がちょうどフィアの頭上に広がった。ここは風が起きない場所。
風の魔法を解いたフィアは、すぐに『氷』を練り始め、大地に掌を載せて、イメージをリンクさせる。今度はコォノミじゃなくて別のもの。
大地から突きあがる遥か昔から大地の底にあるような、強情な氷のイメージ。大地の中にある水をかき集め、永久凍土を探り充てる。
そう、それが良い。
「突き抜けろ」
静かに声を発するのは、強度を間違わないため。
ガリっという音。
彼か彼女が最後のコォノミをほおばったのと、氷がその竜の一番柔らかい体表を突き破ったのは同時だった。
視線を上げた竜の腹の下から、氷の刃が突き上がったのだ。
竜の中に流れる体液がその傷口から漏れ始めたのを確かめて、氷を燃やす。
塞いでいた氷が溶けて、滝のように流れるものは、先ほどまであった命の源だ。その牙がフィアを狙うが、もうすでに遅かった。
竜はそのまま自分の頭の重さに耐えきれず、粉塵に顔を埋め、それでも起き上がろうともがき始める。だけど、二度とその瞳と目を合わすことはなかった。その体液から研ぎ澄まされた赤い氷の刃を作ったフィアが、その首を落としたのだ。刃に岩山ほどの重みをかけて、二度と動くことのないように。
そして、おそらく最後は資源として解体される。
ここの復興のために使われるのだ。
フィアは動かなくなったその体表に触れてから、そっと離れる。
私は、人間だから……。
竜との闘いは、いつも悲しい。どうして?と言われているような、あの瞳は苦手。
フィアの得意分野の攻撃は水であり氷。
たぶん、火と風は恐ろしいイメージに繋がりやすいからだろう。氷は、たぶん恐ろしいではなく、悲しい。
だから、フィアは氷の魔法使いとも呼ばれている。
積まれていく瓦礫の中にほつれた赤毛の人形を見つけた。だけど、持ち主を探す気にはなれない。
「ボン」
フィアはわざと声に出し、火を熾す。あっという間に火柱が立ち上り、そして、払った手により消し去られた。見る人が見れば、その様子は『魔法使い』ではなく『魔女』だと思ったかもしれない所作だった。魔法使いは、共通のイメージを持ち、そのイメージを後世に伝えていく。こうすれば、炎が出るのだ、そういうイメージを固めていくのだ。
だから、呪文と術式を大切にする。これはティリカ城にいた頃に、フィアも覚えた。だから、暴走させない理屈にもなっている。
しかし、魔女は違う。
自分自身のイメージだけを、自分の中で完結させて、魔法に変える。誰かの真似はしない。
残ったのは、炭の跡。また町が一つ竜によって壊された。
フィアのいるここからは、まったく戦の気配は感じられない。しかし、戦の足音は、竜の被害を受ける村や町の様子でよく分かった。竜の被害に対するここの部隊が良い例だ。
「国指定の魔法使い様でほんとうに助かりました」
竜討伐の兵の一人がフィアに頭を下げている。たぶん、フィアよりも若い男の子だ。十三歳くらいだろうか。以前はこんなに若い子が討伐に加わることはなかった。そして、若くなければ、きっとフィアがどうして国から派遣されないのかに気づいただろう。
「皆さん、もう大丈夫そうですか?」
「えぇ」
しかし、一時に比べれば竜の暴走は抑えられつつある気がする。原因は分からない。もしかしたら、ヒェスネビが、竜の巫女を戦の方へ回しているのかもしれないし、自然発生している陽鉱石の供給が、少しずつ間に合ってきているのかもしれないし。
しかし、それでも、兵の手が全く足りていない。討伐へ向かった兵が全滅してしまう、そんなことも増えてきていると、彼は言った。
フィアが竜の気配を感じてその村にたどり着いた時、町はほぼ竜に蹂躙された後だった。それでも、竜は収まらない。空腹が治まらないのだ。
ソフィアみたいに一瞬で。
そんな芸当はできないが、満足させて、そのまま屠ることはフィアにもできた。魔力量があれば、これが一番安全な倒し方。
満足した竜は多少大人しくなるから。陽光の魔力は、竜にとってごちそうだから。
だけど、味を占めた竜は、空腹になれば同じことを繰り返す。
だから、あの時、ソフィアは一瞬で竜を満足させて、一瞬で屠ったのだ。
「回復魔法も使えると良かったのですが……」
若い兵士は「とんでもない」と包帯を巻いたかぶりを振るが、ほんの少し残念そうにも見えた。
「膏薬や塗り薬をいただけただけで」
正直な彼にフィアは微笑む。そして、尋ねるのだ。
「あの、どこかで、私と同じ髪色で緑の瞳をした魔女を見たや聞いたなどありませんか?」
そんな風に訊くのは、竜に襲われている町を巡り始めて、「緑の瞳の白き乙女様が、助けてくださった」と聞くことが多くなったからだ。彼は一瞬眉を寄せて、口を尖らせた後「少し待っててください」と走っていった。
傷を縫ったわけじゃないから、すぐに開いてしまいそうで思わず「あっ」と叫んでしまったのだが、彼は気に留めることなく、そのまま走って行ってしまった。
あんまり走ると、頭の傷が……。
フィアのいる場所は、ティリカリカにあった峠を二つ越えた四番目の町だ。空を飛ぶことのできないフィアは一年かけて、回り道しつつ、村や集落に寄りつつ、ソフィアと白き乙女の足取りを確かめつつ、町を襲う竜に出会えば討伐しつつ、やっとここまでたどり着いたのだ。
そして、また竜がいた。物資補充は諦めた方がよさそうだった。
しかし、こんなところにまで竜が迫って来るのに、魔法使いが絶対的に足りていない。今も、魔法使いの気配がほとんどしない。とても弱い回復魔法を使うくらいの、そんな魔法使いがいるだけ。物理攻撃だけであの竜を倒そうとすれば、間違いなく全滅しか考えられない。
ヒェスネビとの開戦から二年と少し経っていた。戦況はフィアにはよく分からないが、今は小康状態というところのようだ。フィアがキメラの竜の出どころを探していると言うと、兵士が共に教えてくれた。
キメラの竜はヒェスネビが造っている。そして、その竜を戦に使おうとしているのではないか、とのことだった。
ではないか?
ということは、まだそれは叶っていないということだ。それよりも、キメラの竜に遭遇すること自体少なくなってきている。
足音が戻ってきた。
「申し訳ありません。皆に聞いてみたのですが、そのような髪色の魔女には会ったことはないと」
「分かりました。ありがとうございます」
お辞儀をしたフィアに兵士が続ける。
「本当におひとりで進まれるのですか?」
「はい。皆さんは一度ティリカリカに戻るのでしょう?」
「えぇ……」
フィアの進む先には国境がある。きっと、彼はそれを心配しているのだろう。だけど、何もできなくなるティリカリカには帰りたくない。
「あ、それなら、これを」
兵士は自分の鞄から、赤いものが詰まった瓶を取り出した。花びらの砂糖漬けだ。ティリカリカのお城でよく食べられる、高級なお菓子。
「母ちゃんが無理して持たせてくれたんですけど、恥ずかしくて鞄から出せないんですよ。お礼です。ここに配属した時にもらった物だから、新しくはないですが……食べられると思います」
『食べられるものだから、心配ないよ』
似てもいない兵士の顔が幼いベルナンドに重なった。
「ありがとう……みなさんにひとつ助言を……。魔法使いなしで竜と戦おうとするのなら、陽鉱石を餌として使ってください。ほんの一瞬ですが、わずかな隙ができるはずです」
ぽかんとする彼が、「はいっ」と返事をするまでに、フィアはその砂糖漬けから意識を今へ戻していた。
ほんとうに、わずかな時間だが、確率は上がる。
彼らが生き残るための確率だ。














