別離(フィア)
サーカスの日の夜。フィアの部屋の奥にあるテーブルの上には手紙があった。
手紙の内容はフィアのことを思ってくれているものだった。何度も読んだ。そして、読む度に文字が滲んでいく。手紙は大きく編み直してくれた毛糸の帽子と、マフラー、そして、おそろいの手袋と一緒に置かれてあった。今年の冬から使えるようにと。お暇をいただくことになりましたと。元気でと。
サーカスの日に結ってくれた髪に挿してくれたのは、庭に咲くリリカの花。冬以外はずっとどこかに咲いているような、そんな何の変哲もない野の花だ。
赤色の小さな花が束になって咲く、あの中庭にも咲いていたもの。
マルバラみたいに豪華なものじゃなく、とても小さな花の塊。
「オズにも会うの? じゃあ、これを……ベルナンド様にも伝えたかったけれど」
ヒルダは誰にも挨拶をせずに旅立とうとしていた。だけど、きっと、この花はメッセージだったのだ。
「かわいいわ。よく似合う」
優しい笑顔。だけど、どこか寂しい声。
リリカの花の花言葉は『大切なあなた』
「二人によろしくね。フィアは私のもう一人のかわいい妹だから」
ふわりと抱きしめられたのが、最期。
ティリカ城から下らされて、この一年。オズワルトは月に一度のペースでフィアの様子を見に来てくれていた。オズワルトだって悲しいはずなのに。忙しいはずなのに。初めのうちは、三日に一度。不自由はないか?と尋ねてくる。日持ちする食べ物を置いていく。食べていないと、怒られた。
不自由はなかった。
ポチもいるし、森には木の実もあるし。畑だってある。薬を売れば、パンも手に入る。
だけど、最初の一か月のフィアは、ただぼんやりとベッドに座っているしかできなかったのだ。
ヒルダが死んだのは、ずっと前なのに。今頃になって、ここに戻ってきて、誰もいないことに気づいた。
だから、オズワルトが気にしてくれているんだと思っていた。だけど、それも少し違ったらしい。たぶん、無意識に零れた言葉で。
「ベルが心配するから」と。
追い出したのは、ベルのくせに。
そう思うと、立ち上がって森に向かっていた。泉のある場所へ。
春の泉は輝いていた。フィアが蒸発させてしまったことなどすっかり忘れてしまったかのように、昏々と湧き出でて、太陽の光を反射させ、きらきらと、空へと光を返していた。
泉の周りには短い草花が息吹を上げていて、その中にリリカも咲いていた。
小さな赤色の花が、細い茎の先に花束のようにして、あちらこちらに咲いている。
ヒルダの思いを伝えなくちゃならないと、思った。
『大切なあなた』だったのよ、と。
ヒルダがサーカスと共にヒェスネビに行こうとしていたことは、後から聞いた。だけど、ヒルダは病死。きっと、聞こえが悪いからそう言われているんだと、うがった見方すらしてしまっていた。
中庭の奥にお墓を造ることになった。小さな箱に入った小さなヒルダ。荼毘に付されたヒルダには、ヒルダを感じられなかった。
ヒルダが死んだんだって、ちゃんと見たわけじゃないから。
だけど白い石にはヒルダの名前。だけど、大人のお墓よりもずっと小さい。中庭のお花を集めて、その石を飾ると、涙があふれて止まらなくなった。どうして、みんな悲しくないの?とふたりを責めてしまった。
ふたりのうちのどちらかが、ヒルダの命を奪ったからだ。だから、泣かないんだ、と思っていた。
だけど、ふたりにとってもヒルダは『大切なあなた』だったはず。そんな大切なあなたなのに、それよりも大切なことなんて、フィアには思いつかなかった。
あの後すぐに、あのキメラの竜のお腹から十八名の『竜の巫女』たちが出てきた。みんな酩酊状態だった。あの時、あの一瞬でもベルナンドは二日魘されたのだ。彼らはもっと深く暗示にかけられていて当然だった。
フィアは必死になってソフィアを真似た。
初めてティリカリカを歩いた時に、ソフィアがフィアにしたことは、フィアがフィアであることを思い出させることだった。
竜の巫女であることを認識させられているのだから、その逆を辿ればいい。
一生懸命な時は、大丈夫だったのだ。動けていたのだ。
リリカを二つ、小さな氷の中に閉じ込めた。ポチと一緒で、フィアにしか壊せない氷の中へ。
ひとつはオズワルトに。もうひとつは、ベルナンドに。
「オズとベルに」
目を瞠ったオズワルトに微笑んで、フィアは続けた。ヒルダからだとは、言わなかった。言わなくても、伝わっていたと思えるようになっていたし、フィアにとっても大切なふたりなのだ。もう、勝手に壊されたくなかった。
「あのね、私、ここを出て行くことにする。だから、手紙も最後」
どこへ行くのかとは、訊かれなかった。
使わないものには布をかけておいた。薬草の瓶は必要なものだけ持って、後は処分した。
ベッドの上にはライオンのぬいぐるみと、ヒルダがくれた編み物と手鏡と、もう読めなくなってしまった手紙。
そして、大切なものを閉じ込めておくようにして、その小屋に鍵をかけた。
第二章
『忍び寄る戦火と竜の巫女と』了














