237.救われない
邪悪で歪んだ何かが人を襲ってる。
その光景を見た瞬間、考えるよりも早く身体は動いてた。
――ドゴゴッ!
通路の床から飛び出した杭は相対してた二人を遮断。その片方がティシャさんだと気づいたときにはもう青白い光が瞬いて、奥にあった複数の影は一瞬で姿を消した。
不意に訪れた静寂が辺りを包む中、ゆっくりと振り向くティシャさん。うさぎのように赤く充血した目が私を射貫く。
驚き。怒り。困惑。敵意。
複数の感情が入り混じった視線に凍りつくしかなかった。
結果として目的は達したのかもしれない。だけど、話し合うよりも先に行動してしまったことはもう言いわけのしようがない。
「………………」
「………………」
長い。永遠とも思える静寂。
「っ……」
それでもティシャさんが不意にがくりと膝を突いたことで、私たちのあいだにできた空白は突如として途切れた。
「姉上っ!」
「だ、大丈夫ですか!? ひどい傷……早く塞がないと……!」
杭にもたれかかってるティシャさんに急いで駆け寄る。見るからに深手を負ってるのは明らかだった。
私は急いで治癒のスクロールを取り出して治療を試みる。だけども介抱しようと伸ばした手はその場で遮られた。
「エミカ様……一体、どういうつもりですか?」
「傷の手当てをするだけです」
「私が訊いているのは、先ほどの行動についてです」
「そ、それは……」
威圧のこもった問いに思わず息を呑んでしまう。返答次第では許さない。攻撃を遮られたことに、目的を妨害されたことに、ティシャさんは明確に怒りをむき出しにしてた。
正直、あの一瞬では判断らしい判断なんてできてなかった。ただ、ここまで来るあいだ目にしたいくつもの惨状。あれと同じ光景なんてもう見たくなかった。そのせいで思わず反射的に身体が動いた。紛れもない事実を話すならそういうことになる。
でも、それを伝えてもティシャさんはきっと納得なんてしてくれない。
それに私が話したいのはそんな言い訳じみたことじゃない。
もっと伝えるべき大切なこと。
それがある。
それがあるのに……。
まるで声の発し方すら忘れてしまったように、私はただ黙る他なかった。
「エミカ」
説明を求められてるのに一切の言葉を紡げない。
そんな苦境の最中だった。不意に私の肩にぽんと手が置かれる。
「コロナさん、私……」
「ああ、わかってる。だが、今は少し代わろう」
コロナさんは私の隣に並び立つと、そのままティシャさんに向けて堂々と言葉を口にした。
「もう十分です。姉上」
「……何が、十分だというのですか」
「この〝虐殺〟がです」
「虐殺……? 葬れたのは、たった敵主力三名のみ。件の純エルフの姿すら確認できていないというのにですか……」
「姉上、自分は今回のことで多くのことを考えさせられました。王国のより良き未来のため、そして世界の平和と安寧のため、これからは武力一辺倒に頼るのではなく別の方法を模索していくべきです」
「何を言うかと思えば、戯言を……。コロナ、貴女が生きていて何よりです。ですが貴女には心底失望しました」
膝を突いてたティシャさんは立ち上がると、眩暈がするのか一度大きくぐらりと揺れてからまた背後の杭に寄りかかった。片手でぎゅっと押さえているお腹の辺りからは止めどなくだらだらと鮮血が滴る。
なぜか妙に血が黒っぽく見えて花の香りが漂ってるように感じるのは、きっと何かの気のせいだろう。
「ティシャさん、やっぱり先に手当てを……」
「結構です。それよりエミカ様、先ほどの問いについてまだお答えをもらえていません。どうして、私の邪魔をしたのですか」
「………………」
今度は怒気のこもってない冷静な問いかけだった。威圧がないぶんさっきよりも答えやすい状況に、私はなんとか言葉を絞り出すことができた。
「その前に……訊いてもいいですか?」
「私が答えられることであれば」
「どうしてティシャさんは、あんなにたくさんの人を……そ、その……、容赦なく、殺したんですか……?」
「それが何よりも確実な方法だからです。彼らは王国に対し攻撃をしかけました。それを直ちに停止させ罰するには殺害する他ありません」
「なんで攻めて来たのかとか、まずは理由を訊くべきなんじゃ?」
「無駄です。無法者の考えなど身勝手で利己的。理解の及ぶ範疇にありません」
「それでも……話をしたら何かの誤解だったり、お互いわかり合えたり譲り合えたりすることだってあるかもしれない……」
「エミカ様、もう事態は話し合いで解決できる段階にありません。すでに戦いの幕は切って落とされ我々も多くの清算を強いられました」
「……なら、もう相手を一人残らず倒すまで、この戦いは終わらないってことですか?」
「はい、そのとおりです。守るべき世界のためすべての敵を排除する。その目的を達するまで何を犠牲にしようとも、私は、この手を緩めるつもりはありません」
「………………」
何を犠牲にしようとも――
言葉が、あまりにも重く圧しかかる。
実際、この戦いで一番の代償を強いられているのは……、そんなことは考えるまでもないことだ。最前線で身を削り、心を削って、最後に残るものなんて……。
言ってることは正しくて、反論の余地なんてない。
それでもたった一つだけ、私にも確実に指摘できることがある。
はっきりと〝守るべき世界〟とティシャさんは口にした。
最初からその中に彼女自身が含まれていないのはおかしなことだし、誰かが犠牲になる前提で守られる世界なんてもっとおかしい。
だから、そのやり方はダメだ。
だって……、そんなんじゃティシャさん、あなたが……
「救われない」
「………………」
ぽつりと、こぼれ落ちるように小さく発せられた言霊。
それに対してティシャさんは長い無言の空白を挟んだあと、やがて怪訝な面持ちで答えた。
「いいえ。敵さえ排除すれば王国は救われます」
「ダメなんです。王国が救われたって、それだけじゃ足りない」
「エミカ様……、仰っていることがわかり兼ねます。我々の住むべき世界の平和と安寧が守られる。それ以外に貴女は何が必要だというのですか」
「だってそれだと、ティシャさんが」
「私が? 私が、なんだというのですか……?」
最悪、侮辱として受け取られるかもしれない。
だけど、直接もう本人に伝えるしかなかった。
声が震えないように一つ息を吐く。直後、私はできるだけはっきりと思いを口にした。
「そんなんじゃティシャさんが救われないって言ってるんです」
「っ……」
その異様なまでの強さから今まで一度だって誰からも心配されたことなんてなかったのかもしれない。
閉口するティシャさん。予想してなかった回答に今度は彼女が固まるのを見て、私は戯言を承知で続けた。
「もう誰にも傷ついてほしくない。敵の人も、それに巻きこまれる無関係な人も。そして何より、誰よりも犠牲になろうとしてる、ティシャさんにも」
「……私が、傷つく?」
「はい。反射的な行動でしたけど、邪魔をしたそもそもの理由はそれなんです。それが、私の答えです」
「………………」
言葉が呑みこめず理解も納得もできない。唖然としたティシャさんの表情は言わずともそれを物語ってた。
「愚かです、あまりにも……。エミカ様、貴女はそんなことで私の邪魔をしたというのですか……」
「そんなことじゃないですよ。コロナさんだってパメラだって、あと他の妹さんたちだって、ティシャさんが傷つくのを良しと思う人なんていない。傷ついたティシャさんの姿なんて、誰も見たくなんかないです」
必要なのは意思を示して行動すること。喋りながら、そして語気を強めながら、私は祈るような気持ちで爪のある手を差し伸べた。
「みんなで力を合わせれば、夢みたいなことだってきっと叶えられます。だから一緒に帰りましょう、ティシャさん」
「………………」
差し出された手に、じっと向けられる視線。
あまりに物悲しくて、空虚な目。
こっちまで空っぽになってしまいそうなくらい、ティシャさんの空いた心が伝わってくる。
返事を聞くまでもなかった。
その双眸は言葉よりも強く訴えてた。
「――私が傷ついている。そのような身勝手な憶測はやめてください」
毅然とした態度だった。ティシャさんは手を取ることなく拒絶すると、寄りかかっていた杭から離れて歩き出した。
その足取りにふらつきはない。まるで一切傷なんて負ってない様子で、私とコロナさんのあいだを平然と通り過ぎていく。
すれ違い、やがてしばらくして、ぴたりと止まる足。
そのまま背中を向けたまま振り返ることなくだった。ティシャさんは別れ際に言葉を向けた。
「一応の確認のために問います。コロナ、貴女はどうするのです」
「無論、エミカと共に行きます。たとえそれがどんな困難な道であろうとも」
「わかりました……。では、当主代行として貴女にはファンダイン家からの義絶を命じます。ただし、その特異性から諜者としての務めはこれまでどおり任期が尽きるまで全うするように」
「はっ。これまで大変お世話になりました、姉上」
「え? ぎ、義絶って、そんなっ……!」
家族の縁を切る。
その宣言を撤回してもらうため、私は駆け寄ろうとティシャさんの背中を追いかける。だけど、三歩ほど足を踏み出したところでだった。突如として現れた異様な何かが私の行動を阻んだ。
「なっ……」
殺気とか殺意とかの類いじゃない。もっとはっきりと危険な何か。それが、今すぐ目の前で蠢くように発せられてる。
そこに踏みこめばただじゃ済まないことは、勘の鈍い私ですら嫌でもわかった。
「エミカ様。最後に一つ、重要なことを申し上げます。今日、この一度限りです。一度限りは私も目を瞑ります」
「ティシャさん……」
「なのでどうか、もう同じ過ちは繰り返しませんように」
次、邪魔をするなら容赦はしない。警告を残して振り返ることなく通路を進んでいくティシャさん。遠ざかる、その背中。
何も変わらない。
このままじゃダメだ。
追いかけなきゃ。
でも、私にこれ以上できることなんてあるんだろうか。
差し出した手は拒絶されて、かけるべき言葉も枯れて、床に貼りついたように足は動かない。
私に、もっと力があれば。
世界中の誰であろうと例外なく救えるような、そんな力が――
「………………」
たとえ望む世界が絵空事だとしても、この気持ちに嘘はない。
それでも、時が止まったままの私を置き去りにして、無情にも追うべき背中は通路の奥に消えた。











