戦記37.雨止まず
中層、東塔外縁部。
城の土台部分までを凹状に深く刳り貫かれた敷地は広大な庭園となっている。
昇降のため四方の壁に巡らされた階段。視界の悪い雨空の下、そこを駆け下りていく大小二つの影。そのまま花壇を突っ切り目的の場所まで一気に直進したアロンとゴルディロックスは互いに息を切らしながら雨に濡れた石像を見上げた。
「ここで間違いないの。後ろに地下への入口があるはずなの」
「よし、任せろ!」
アロンは石像の裏側に回り込み台座に触れた。軽く叩くと空洞音が。巧妙に隠されていた取っ掛かりをみつけ両手で台座の石板をスライドさせるとだった。ゴルディロックスが言ったとおり地下へと伸びる階段が現れた。
「下に光石の明かりが見える。階段を踏み外す心配はなさそうだ。だが……」
身体を屈め中を覗き危険がないことを確認したあと、アロンはゴルディロックスを逃がすため入口から退いた。
「さあ、行くんだ」
「囚人さんは?」
「俺は扉を閉めるためここに残りゃなならん。どうやら入口専用らしい。中からは開閉できない仕組みのようだ」
「な、なの……」
「心配するな。閉めたらすぐここを離れて囮になる。君はそのあいだ仲間のもとに急ぐんだ」
「………………」
「ん? どうした、早くしないと」
「囚人さん――」
フリルやレースがふんだんにあしらわれた黒いドレスが雨風に揺れている。ゴルディロックスは伏し目がちだった顔を上げると真っすぐ相手を見据えながら短く、けれど最大の気持ちを込めて言った。
「ありがとうなの」
「………………」
怯えの色は消えて、表情には微笑が。初めて見る明るい顏と思いがけない謝意に、アロンは思わず状況を忘れた。しばし彼女に見入る。
「お、おう。どう致しましてだ」
「もしも人間が囚人さんみたいな人ばっかりだったら、きっとゴルディーは……、ううん、きっとみんな違ってたはずなの」
「みんな?」
「なの。これからすぐ会えるの。紹介するの」
「……紹介って、俺をか?」
「当たり前なの。囚人さんしかいないの。だからゴルディーと一緒に行くの」
華奢な腕を目一杯に伸ばし、小さな手を差し出すゴルディロックス。正式な仲間として認められたアロンは戸惑う反面、同時に彼女が心を開いてくれたことに素直に喜びを感じてもいた。
ただ、与えられた選択は重く、これからの自分の運命を大きく左右するものでもある。
(この子の手を取れば、晴れて正真正銘の叛逆者ってわけか――)
外から隠し扉を閉めさえすれば逃走は成功したも同然。相手の安全も踏まえ普通に考えればここで別れるべきだろう。そもそも己と彼女たちとでは生きてきた世界が違いすぎる。共にやっていけるはずがない。
脳裏に巡るは論理的な思考に則った冷静な判断。
それでも最後に全てを書き換えアロンを突き動かしたのは、一つの純粋な感情だった。
(俺に、できること――)
「そうだな……いや、しかし、弟たちになんて申し開きしたら……」
「なの? 囚人さん?」
「ああ、クソ……ええい、もう面倒だっ! どうせ乗りかかった船だしな! よし、決めた! 一緒に行くかっ!!」
「なのー!!」
きゃっきゃと嬉しさに溢れる声。決断し、アロンが差し出された手を握ろうとゆっくり腕を動かす。二人の手が触れ合う間際。異変は、その刹那に。そしてあまりに唐突に起きた。
現れる不条理な影。音もなく異常な速さでやってきたそれは音もなく着地すると、音もなくゴルディロックスの白く細い首筋を掴んだ。――グギッ。次の瞬間、まるで白昼夢でも見ているかのような感覚の中、アロンは骨が砕ける音を聞いた。
「あっ……」
絶望的な光景に詰まる息。
首があらぬ方向に折れ曲がり空中に掲げられた少女。
それを鷲掴みにしている背後の影は次の瞬間、手刀を突き刺すと同時、心臓を握り潰す。
雨と共に降る返り血。
まともに鮮血を浴びるアロン。
眼球に入った血は視界を赤一色に染める。
閉じたくとも見開いた瞼を閉じることはできない。
血に塗れた身体とフリルのドレス。
その目に、もう生者の輝きはなかった。
――ドシャッ。
僅かな静寂のあと襲撃者の手により死者は無感情に打ち捨てられる。同時に呪縛から解き放たれたアロンは半ば転がるように遺体の傍へ駆け寄った。
「良いタイミングで追いつけました。残るは、この先ですか」
「あ、あっ……、なぜだ……どうして、こんなっ……」
死したゴルディロックスを抱き寄せ、声を震わせるアロン。襲撃したティシャーナはその姿を一瞥したあと一切の感情なくただ忠告だけを口にした。
「忘れなさい。もしこれ以上の邪魔をするならば容赦はしません」
直後、隠し通路に進みティシャーナはその姿を消した。刻々と温もりを失っていくゴルディロックス。冷たくなっていく彼女を無言で抱えること以外、もうアロンにできることはなかった。
見上げれば暗い空。
未だ、雨止まず。











