戦記35.最後の空
五感は意味を持たず。
戦闘が開始された直後から知覚できたのは圧倒的な気配のみ。
目にも留まらぬ速さで打ち出される突きか蹴りかもわからない連撃の嵐を、ラッダは最大の防御を構築しティシャーナの攻撃を辛うじて耐え忍んでいた。
耳を劈く風切り音。
周囲の空間を揺るがすほどの鈍く重い衝撃。
それらが絶え間なく続き、そして遂には己が鋼鉄の身体が限界を迎える直前のこと。奇妙にも状況に反し、ラッダは自身の感覚が極限まで研ぎ澄まされていくのを感じた。
(これは、なんと摩訶不思議な――)
異常事態。
時が停止したのか、降りし切る無数の雨粒一つ一つ。それらすべてが空中にとどまっている。
線ではなく世にも奇妙な〝点〟の雨である。
だが、世界は完全に動きを止めたわけでもないらしい。証拠として眼前の最強の敵から突き出された拳は触れた雨粒を消失させ、今、この瞬間にも降り注ぐ雫よりも速く自身に迫りつつあった。
(恐ろしいまでに遅々。しかし森羅万象、決して時は止まらず。なるほど、つまりこれは話に聞く――)
武芸者ということもあり、極限状態におけるこのような現象を耳にしたことはあった。
それでも実際に直面するのはこれが初のこと。
ラッダは自分でも意外なほど冷静に事態のすべてを受け入れ、目の前に広がる不思議な光景をじっくりと観察した。
(似ている。今日の空は、あの日の空に――)
世界がさらに緩やかに流れゆく中、相反するように記憶は目まぐるしく呼び起こされていく。
これまでの二十年に及ぶ人生、その歳月。
過去、生まれた東方の島国で故郷の滅びに直面した。
守らねばならぬ主君も姫も救えず、おめおめと生き残った、あの日の自分。
すべてを失った力なき哀れな童。
その頭上を覆う曇天。
やがて、雨が、ぽつりぽつり。
焼け落ちた城。
焦げ臭い。
人も町も、黒々と何もかもが炭化している。
永遠に失われた帰るべき場所。
(嗚呼。もっと自分に力があれば――)
だから力を欲し、求め、大陸に渡り彷徨った。
やがて幸運にも同じ定めをもった仲間たちと出会い、集った意志にこの鋼鉄の身を捧げようと決めた。
すべては己が力を示すため。
(だが、今思えばそれも――)
故郷を失ったあの日、本来あった自身の魂は死に絶えた。
そして、そこからはただの器である空っぽで頑丈な肉体のみが一人歩きをしていたに過ぎないのはないか……。
(ならばいっそのこと、このまま硬質化を解き、素直に死を享受すべきか――)
逡巡。
目まぐるしく流れていた過去の景色が止まる。
空白。
空を見上げていた眼球、その視線を下ろす。
目の前には自らを屠るため、ゆっくりと進む拳。
しかし現実には降り注ぐ雨よりも速く迫る拳。
あと何発、これに耐えられるか。
神の業にも等しい、悪魔の所業にも等しい、破壊の権化たる存在が示す本物の力。
抵抗は無駄である。
偽物に過ぎない自身の拳は決して届かない。
届くはずもない。
だが――
(それでも――)
鬼気として迫る気配。
もうそれはすでにティシャーナの背後を取っている。
(あらん限り、足掻けッ――!)
血だらけの満身創痍ながらそこにいる仲間の姿を視認し、ラッダは生涯最後の決断を下す。
答えは、集った者と共に。
そして、鋼鉄の意志のもとに。
未だ景色は鈍重。
拳が迫る中、あえて防御を解く。
そしてラッダは自身の存在の要である破壊神をも解く。
やがて〝走馬灯〟の終わり――
世界は加速し、ティシャーナの拳はラッダの肉体を貫いた。
刹那、放たれたティシャーナの腕を捉え、ラッダは両手で鷲掴みにする。
同時に彼は己が天賦技能を再度発動させる。
「――レオリドス! 拙僧もろとも殺れッ!!」
もはや最後の気力を振り絞っての突貫。瞬時に上腕のみを獣化させたレオリドスは挟み討つ形で虎獅子の巨大な爪を伸ばす。
四足獣が持つ俊敏性。それが可能とする神速の突き。
あらゆる予測と能力をも超え、今、尖れた爪は最強のもとへ。
次の瞬間、周囲の雨に交じり舞う赤。
給仕服の白い布を染める赤。
ティシャーナの腹部から流れていく赤い赤い人の血。
斯くして犠牲を払い放たれた偽物たちの決死の一手。
それは本物にも届いた。
だが、それでも――
「――言ったはずです。結果は変わらないと」
切り裂いたのはティシャーナの腹部、その表皮のみ。
致命傷には至らず。
「終わりです」
そこからはもうティシャーナは最後の言葉を求める猶予すら与えなかった。深々とラッダの胸元に突き刺さっている右腕はそのままに、半身を捩じりながら手刀にした左手を水平に振るう。直後、ばきりと骨の砕ける音。
レオリドスの首は半ば刈り取られるようにへし折られ、その命は呆気なく摘み取られた。
(結果など意に介す必要なし。故に素晴らしき一撃であった)
帰るべき場所を持たぬ獣人族の男。
同じ境遇の仲間の死を前に、自らの命運を悟ったラッダは両膝を突き、天を仰いだ。
(嗚呼。やはり、あのときの空か)
すべては道半ば。だが、不思議と心残りはない。それは何人かの仲間と同様、自分もまた死に場所を求めていただけに過ぎないからなのだろう。そもそも紆余曲折はあったが初めから目的はそれだった。ラッダはそう考え、最後に腑に落ちた。
(我が主君よ。我が姫よ)
流れゆく雲。
断続的に降る雨。
音は、もう何も聞こえない。
(拙僧も今、そちらへ参ります――)
あとは受け入れた命運どおり、それがラッダが見た最後の光景となった。











