戦記27.襲撃者と襲撃者
囚人棟から看守棟へ。
中央詰所に続く薄暗い一本道ではローズファリド家の次男であるベンジャミンが抵抗するコロナを引っ張り、通路の奥へと導こうとしていた。
「くっ、止めろ……、放せ!」
「まったくあなたも強情ですね! ここに残っていたら危険だとさっきから何度も言ってるでしょう!」
「ベン兄、乱暴は駄目だよ!」
掴み合う二人の傍らでは三男のクレムが魔槍を胸に抱きかかえ心配そうに様子を窺っていた。
昏睡から目覚めて一週間以上経過したとはいえ未だ傷は癒えず満身創痍。相手はそんな女性一人である。自分も加勢すれば無理やり連れて行くことは容易だろう。しかし見た目以上に重い得物がクレムの自由を阻んでいた。
遡り少し前のこと。
身の危険を知らせ逃走しようと説得するも拒絶され、問答している暇はないと考えたベンジャミンが強制的にコロナを牢獄から連れ出したところでだった。空になった独房内の壁に立てかけられていた漆黒の槍にふと目が留まり、どうしてもそれを無視することができなかったのだ。
代わりに「嫌がられても二人がかりで連れて行け」という長男のアロンの指示を無視することになってしまったが、クレムにはこの武器が彼女にとって命にも等しい大事な物に違いないという直感があった。
まるでその価値を証明するかのような、ずっしりとした重み。長兄のアロンとは違い細身で小柄なクレムは先ほどから両腕が痺れはじめていた。
この人は、普段からこんな大きな槍を振るって……。
保護され治療されたにも関わらず命を狙われているという女性。
一体、何者なのか。
考えてみれば自分はまだこの人の名前すら知らない。
拒絶されてまでそんな相手を助けようだなんて我ながらなんて物好きだとも思う。それでもまったく性格の違う二人の兄たちと同様、クレムにも確かな信念があった。
絶望の淵にいる者を救うこと。
たとえ、どのような人生を歩んで来た人物であったとしても。
僕は、苦しみ悲しんでいるこの人を、何があっても助けたい――
純真な心のもと成された決意はすでに確固たるものになっていた。
そして、クレムが自らの意思を再認識していた最中。
「――いい加減にしてくれ!!」
唐突に目の前で行われていた掴み合いに終止符が打たれた。
「うぐっ!」
身体を押され尻餅をつくベンジャミン。直後、解放されたコロナは息も絶え絶えに怒号を飛ばした。
「はぁはぁ! わ、私は……、貴殿らに……哀れみを抱かれていいような人間ではない! それどころか死んで当然の人間なんだ!」
決壊する堰の如く。それまで耐えて耐え忍んでいたものがついにそこで崩壊した。
「私などもう放っておいてくれっ!!」
「………………」
ギリギリのところで踏み止まっていた中にも感じられた、騎士のような毅然とした立ち居振る舞い。だが、もうその表層も完全に剥がれ落ちていた。
最初に会話したときは大人びて見えた。
自分とそう齢の変わらない相手。
しかしクレムには目の前に立つ同世代のコロナが、今や小さな子供に思えてならなかった。
そう、子供。
この人の内面は、泣いている小さな子供だ……。
ずっとつらい思いをして。
そして、それを誰にも言えず今日まで生きてきた。
ならばと自分がすべきことを改めて思考する。
コロナの心の叫びが響く中で深く思案する。
それでも、クレムの結論は徹頭徹尾において変わらなかった。
信念を貫こう。
それが唯一、僕ができることだ。
「――死んで当然の人間なんて、いませんよ」
強く反論するのではなく、自然と語りかけるように。
そして、穏和な心の内側を表すかのように。
クレムはコロナに向かって手を差し伸べた。
「だから一緒に行きましょう、僕らと」
「ち、違う……。私は、救われていいような人間じゃない……。貴殿らは知らないだけで……わ、私は……、貴殿らの……!」
目を見開き、愕然とした表情を浮かべ、その場からじりじりと後ずさるコロナ。しかしその手を逃さず、クレムはそっと掴んだ。
片手で魔槍を抱きつつ、あとは何も言わず相手の目を見つめる。
「……済まない」
それから静寂が続き、しばしのこと。
やがて伝わって来ていた震えが止まり、その表情にも勇士然とした面影が幾ばくか戻るとだった。冷静さを取り戻したコロナは己の未熟さを恥じ謝罪した。
「私としたことが、酷く取り乱した……」
「大丈夫。僕たちは何があっても貴女の味方です」
「ふぅー、やれやれ。まさか弟に女たらしの才があるとは。これでは兄の面目が丸潰れですね」
「ベン兄」
「冗談です」
鋭く睨んでくる弟から即座に目を逸らすと、ベンジャミンは尻餅をついていた床から立ち上がった。そのままコロナの目前へと再び近付いていく。
しかし、今度はその腕を無理に掴むことはしなかった。
クレム同様、兄である彼もまたそっと手を差し伸べる。
「押して駄目だったのでここは弟に倣って引いてみることにしましょう。ダンスの誘いのようなものです。ここを舞踏会だと思ってそんな重く捉えず、どうか我々と共に少しのあいだ踊って頂けませんか、マイレディ」
「ベン兄のほうがよっぽどすけこましの才能があるよね」
「貴殿らは本当に……、私を……」
誠実で真っすぐなローズファリド家の二人にコロナの心は揺れていた。
今ここで二人の手を取りすべてを打ち明けたい。罪人が己の犯した罪を告白し、心を軽くするように。
私が彼らから奪ったものは戻って来ない。
その衝動が自己満足でしかないことは理解している。
だがもうこれ以上、過去と向き合わずにはいられない。
そして、自分を救おうとしてくれている彼らには真実を知っていてほしい。
振り子が一度揺れてしまえば驚くほど躊躇はなかった。
結果がどうなろうと諜者としての禁忌を犯そうと構わない。
後悔と懺悔。
罪と報い。
気付けば想いは口を衝いた。
「私の名は、コロナ・ファンダイン……。貴殿らにはどうしてもこの場にて打ち明けなければならないことがある。私の過去の話だ。私は、貴殿らの――」
ゆらり。
しかし、コロナがすべてを告白しようとしたそのときだった。
囚人棟に続く通路の奥の薄闇。
その場所が突如として煙のように揺らいだ。
「――っ! 伏せろ!!」
クレムが抱いていた魔槍を奪うとコロナは二人を押し退けた。
直後、闇に煌めく一筋の光と重い衝撃。
不利な体勢で受けたコロナは不意打ちを受け流すことは叶わず。そのまま兄弟諸共ばらばらに後方へ吹き飛ばされた。
「ふふ、やっぱりいた♥」
両膝を突きつつもすぐさま起き上がるコロナ。
その視線の先には邪悪な闇そのものが姿を現していた。
「……ダリア」
放逐され除名された四番目の姉。
その名を呼ぶと隠されていない口元が、にやりと邪悪に緩んだ。
「ついこないだ振りね、コロナ♪ 傷付くから今度はいきなり逃げたりしないでよねぇ~。なんたって生き別れの姉妹その感動の再会なんだから、ねぇ?」
左右の壁側にそれぞれ飛ばされ床に転がっているベンジャミンとクレム。不意にダリアが意見を求め、彼らへ交互に視線を向けた瞬間だった。
これまでの人生において感じ取ったことのない異質で悍ましい悪意。
本能が伝えてくる恐怖に兄弟の背筋は瞬時に凍り付いた。
身の毛がよだつ思いを味わった二人は即座にダリアの危険性を悟るも、あまりに突然のことに未だその場から立つことすらできずにいた。
「可愛い子羊ちゃんたちを連れているのね。それとも今は生まれたての子鹿かしらー? ま、そんなことはさておき、どっちからにしましょうか」
ぽつりと呟き、しばし逡巡する素振りを見せたあとだった。ダリアは突如として弟のクレムのほうにすっと歩みを進めると、流れるような動きで大鎌を高く掲げた。
「やめろ!」
強い殺意に反応し、コロナは瞬時に床を蹴って駆け出す。
――ガキ”ンッ!!
直後、当然の如く振るわれる暴虐と共に耳を劈くほどの激しい金属音が轟いた。
「く”ぅっ……!」
垂直に打ち下ろされた大鎌の刃に対し、咄嗟に魔槍を真横に構え斬撃を十字に受けたコロナだったが、衝撃は傷付いた肉体の至る場所に重く響いた。
「……これは、なんのつもりだ!?」
「はい? 随分と可笑しなことを訊くのね。もちろん殺すつもりに決まってるでしょ? 感動の再会はやっぱり水入らずじゃないとね」
「二人ともここから逃げろ!!」
「駄目よ。誰も逃がさない」
断言すると同時、両腕に更なる力を込めるダリア。
コロナは大鎌を支え切れずたちまち体勢を崩して片膝を突く。
傍らで殺気に当てられたクレムは二人の攻防をただ傍観する他なく。唯一まだ動ける可能性のあったベンジャミンも恐怖に支配されたままだった。弟と同じく壁際でただ状況を見つめるばかり。
「ほらほら、もっと踏ん張らないと。ぐちゃぐちゃに潰されちゃうわよ」
「く、ぐぐっ……!」
「あら? あらあら? あー……、これはもう時間の問題ね。残念よ、コロナ。貴女がこんな呆気なく詰むなんて。本音を言うとね、ここまであっさりなのは想定外というか、興醒めもいいところよ。これじゃ前回のときみたく逃げ回ってくれてたほうがまだ愉しめたかもね。本当に残念だわ。特に貴女に関しては甚振って甚振って甚振り尽くして恐怖のどん底で終わらせてあげたかったのに」
「ダ、ダリアっ……」
「でも、仕方がないわよねー。よりにもよってウチの首領様に貴女が目を付けられたんじゃ、こんなチャンスはもう二度とないかもしれないもの。うん、というわけでいつまでこうしてても仕方がないし、そろそろお別れといきましょうか♪」
依然、ベンジャミンとクレムが為す術なく見守る中だった。圧倒的優勢を保ったダリアは、コロナの頭上から死神なりの贐の言葉を綴った。
「大丈夫、何も寂しいことはないわ。失われるのは貴女だけじゃない。だって例外なくこれからも私は続けるもの。世界で唯一、呪いに祝福された存在。私たちの頂点に君臨するあの姉が大事にしているものは何もかも、私が、壊す」
「……っ!」
「父親、妹、友人、知人、民、女王、王子、国、安寧、平和、均衡、幸福、居場所……。すべて、私が壊し続けるわ。なぜなら、それこそが私の――」
最後の単語が死神の口から吐き出されようとしている。
そして同時にギリギリのところで釣り合いを保っていた大鎌と槍の力比べが決しようとした、まさに、その間際だった。
――いる。
この場に存在しないはずの五人目の気配。
もはや第六感ともいえる超常的な感覚でその襲来を事前察知したダリアは、止めを刺そうとした手を緩めてまですべての意識を警戒に注ぐ。
咄嗟に目が向いたのは周囲の床。
なぜ、足元なのか?
行動から遅れること数瞬。
論理的な理由は後付けで導かれる。
前回のバートペシュ城でもコロナを助けるため援軍は地下からやってきた。
今回も同様、その劇的な事象は繰り返されるに違いない。
いいわ。
来なさい。
現れた瞬間、真っ先に首を刎ねてあげる――
ダリア・ファンダイン。
人知を超えた察知能力と予言にも近い鋭い勘を備えていたからこそだった。
その一瞬の隙は生まれた。
――ボコッ。
何かが小気味よく削られる音。
しかし、ダリアが注視する足元の床に変化はない。
「っ!」
否、違う。
確実に異変は起こっていた。
仄かに照らされる周囲。
窓の無い通路に曇天の微かな明かりが射し込んでいた。
上っ、頭上――
予測に確かな自信があったからこそ虚を衝かれたダリアは見上げるよりも先にコロナを押し潰そうとしていた大鎌を引き上げた。
しかし、その時点で致命的なまでの初動の遅れ。
このまま新手を迎え撃てばダメージを負うのは自分。
完全なる劣勢はダリアの全神経を急遽「回避」へと向けさせる。
「――うりゃあ!!」
舞い降りる赤髪の少女。
覇気と共に振り下ろされる土竜の爪。
互いの切っ先が接触し交差すると同時だった。大鎌の刃がへし折られるでも粉砕されるでもなく、跡形もなく消失するのをダリアは目の当たりにした。
しかし、その表情に一切の驚きはなく、死神は事象のすべてを冷静に受け止めていた。
現実は再び予測の範疇へ。
問題はなかった。
大鎌が使い物にならなくなったとしても、距離さえ取ってしまえばいくらでもこの場は切り抜けられる。
すでに窮地は脱したも同然である。
自ずと足は滑るように背後へ飛ぶ。
刹那、ダリアは声を聞いた。
「――避けると思ってたぜ」
振り向き様の視界。
見えたのは神々しい光と、それを手にし直進してくる最愛の妹の姿。
ダリアは予測した。あの質量を持たない大剣が数瞬後にも振るわれ、自身を真っ二つにすることを。
ああ、私としたことが、この子の存在を失念するなんて。
さっきの赤髪の子とは一緒にいてほしくない。
そんな嫉妬からくる希望的観測が邪魔をした?
それとも私の第六感もこの程度だったってことかしら。
どっちにしろやらかしたことに変わりはないわね。
なんとなく違和感は少し前からあったというのに。
でも、まあいいか。
それほど悪くないわ。
パメラに、壊されるなら。
「観念しやがれ!」
正しさの奴隷である最愛の妹は、この瞬間のことを生涯忘れることなく引き摺るだろう。
それは自分がこの世に齎す最後の苦しみであり、呪いだ。
そしてダリアはもう避けられない窮地の中で不適当にも思った。
ならば死こそが、魔法ね――
これより自分という存在は更なる高みに昇華する。
死を完全に享受したダリアはもう抗うことなく構えすら解いて脱力した。
ほんの一瞬、その奇行にパメラの殺意が乱れるも手にした大剣は燦然と輝いたまま。目前にいる血の繋がった姉を屠る一撃は、確実に放たれようとしていた。
「――パメラ、やっぱ駄目っー!!」
だが、次の刹那。
まさかの二度目の誤算。
ダリアは困惑する他なかった。
何よりも理解不能だったのは、最愛の妹の意志を挫き自分を殺す覚悟を鈍らせたのが、その味方である赤髪の少女であったことだった。
「ぐっ……!」
意味がわからない。
愚か過ぎて吐き気がする。
本当に甘いなんてレベルじゃない。
「馬鹿ね」
一度は死を享受したダリアだったが、鈍った剣戟に屠られるほど優しい姉でも死にたがりでもなかった。
光の一閃は彼女の額を掠めたものの一切の傷は与えず、その目元を隠していた黒いベールを剥ぎ取るだけにとどまった。











