幕間 ~ミリーナお姉様~
エミカが大陸東部を目指し旅立ったほぼ同時刻。
旧都の中心地へと続く長大な大理石の橋上を、一台の馬車が走り抜けようとしていた。
欄干の外側は人工湖が広がっており、領主が住まう城に向かうにはこの長い橋梁を渡る以外に方法はない。
それは砦として堅牢さに特化したハインケル城とは対照的に防御面を外構に求めた結果でもあるが、言い換えれば代々の旧都領主たちが歴史ある居城の壮麗さにこだわりを持ち続けた結実でもあった。
(なんと、これは見事な……)
夜が明けて間もない、まだまだ薄暗い濃紺色の空の下。
先に馬車を降り、優麗に聳えるその幾つもの尖塔を見上げたコロナ・ファンダインは、旧態依然とした価値観に縋ることの愚かさを理解しつつも、心のうちから湧き上がる感嘆を抑えることができなかった。
バートペシュ城――
さすがは〝世界一美しい海辺の城郭〟と呼ばれるだけのことはある。
それでも、護衛の身としていつまでも見惚れているわけにもいかない。コロナは入念に周囲の安全を確認したあと馬車の中に残っていたミリーナ女王に目配せで降車の合図を送った。
「すでに旧都の中です。そこまで気を張らずとも……」
「陛下、お言葉ではありますが」
小声で会話しながら終着地点にある城門へと向かう。
他の同行者たちは衛兵の指示によって橋の入口であるもう一方の袂で入城を留保された。用意された馬車を降りた今、君主の傍に付くは自分一人。いくら旧都のど真ん中とはいえ、万一の出来事に備えるのはコロナにとって至極当然の行動だった。
「王都に帰還するまで何があるかわかりませんので」
「私の身よりもあなたが心配なのです。王都を出立してたからというもの、あなたがまともに寝ているところを一度だって見ていません。無理をする必要のないときにまで無理をすることはないでしょう。城に入って落ち着き次第、あなたは構わず先に休息をとって頂戴」
「誠もったいなきお言葉。感謝いたします。しかし陛下、これも諜者の使命にて。どうかご心配なきよう」
「コロナ……」
ミリーナ女王に諭されたとおり適度に休んで体調を維持するのも任務の一つ。それは重々承知の上。
だが、王都を出発してからというものどうも言い知れぬ予感が日に日に高まりつつあり、それが彼女の心の弦をずっと張り詰めたままにしていた。
本来であればそんな超常的な第六感の冴えというものは、前諜者であった長姉のオハコである。どちらかといえばそういった感に疎いコロナにとって、抑える方法もない虫の知らせというものはどうにも任務の歯車を狂わせる要因にしかならなかった。
姉上であれば引き返していただろうか。
いや、そんなことは考えても無駄だ。
自ら道を判断しないで何が諜者か。
しかし、正しい道とは……。
無事に目的地に辿り着いたにもかかわらず安堵とは一切無縁のまま、君主に仕える諜者の戸惑いは、なぜかより一層と大きくなりつつあった。
「ご事情はすべて伺っております。公爵様が城内でお待ちですので、どうぞこちらへ」
巨大な石造りの城門前では数人の限られた衛兵とともに、バートペシュ家の関係者と思われる緑色の貴族服に身を包んだ初老の男が立っていた。
一つ前の街で先行した早馬隊が役目を忠実に果たしたこともあり、夜明け前に旧都に到着して以降、女王一行の足取りを阻むものはなかった。無論それは入城してからも同様のこと。そのまま二人は領主が待つ私室まで案内された。
「公爵様、大切なお客様がお越しになりました」
「ミリーナお姉様!」
初老の男がノックし、私室の扉を開けた途端のこと。奥の窓辺にいた金髪の女が纏うドレスを翻しながら一目散に駆け寄ってきた。
透きとおる白い肌に不似合いな目の下の黒ずみ。眼球は生まれつき鈍く陰り、顔を合わせた者にひどく病的な印象を与える。
そんな眼差しを携えた金髪の女はミリーナ女王に抱きつくように身体を密着させた途端、息を荒くした。
「ご命令していただければこちらから王都まで出向きましたものを! なぜこのような無茶をなさったのです!」
「メアリ……まずは非常識な時分にもかかわらず我々を受け入れてくれたこと。心より感謝を」
「そんなの当たり前ですっ、私とミリーナお姉様の仲ではありませんか! それより王都より遥々の長旅、さぞお疲れのこと……あ、そうです! 何かお望みがあれば今すぐ仰ってください! お食事にお部屋に湯浴み、なんであろうと直ちに用意いたします!!」
「突然の来訪にもかかわらず本当にありがとう、メアリ。ならば、その……まずは少し離れてくれると嬉しいのですが」
「はっ!? 私としたことが思わず我を忘れてました!」
掴んでいた君主の両手を解放し密着させていた小柄な体躯を離すと、旧都バートペシュポートの領主であるメアリ・ド・バートペシュは咳払いを一つ挟んだあとで場を取り繕った。
「コホン……すでに使者から話は聞いております。辺境北方を平定するのに海路を使用するのですね」
「はい、本日はその件でバートペシュ家の助力を願うためやってきました。王国のため世界最強とも名高いバートペシュ家の船団兵力、その力を今こそ借り受けたいのです」
「どうか借りるなどと他人行儀なことを仰らないでください。元よりバートペシュ家が保有する物は小石から宝玉まで、すべて君主たるミリーナお姉様の私物も同然。ですが形式上、誓いが必要とあれば」
メアリは膝をつき首を垂れると、その場で最大限の忠誠を示した。
「バートペシュ家――並びにバートペシュ領の全総力を持ちまして、この度の進攻計画に尽力することをお約束いたします。必ずや輝かしい栄光と勝利、その両方をミリーナお姉様の御手に献上いたしましょう」
「あなたの王国への忠誠、そして何よりもその友情に今日ほど感謝した日はありません。いつも女王である私を支えてくれて本当にありがとう、メアリ」
快い承諾にミリーナ女王の胸中はこれ以上ないほどの安堵で満たされていた。
(なぜだ、すべては計画のとおり上手く運んでいるではないか……)
だが正反対にも、二人のやり取りを背後から見ていた諜者の心はこれ以上ないほどに揺らいでいた。
正式に王室付きになって五年弱。
バートペシュ家ほど王室と親密な分家はなく、コロナもメアリとはこれが初対面というわけではなかった。ミリーナ女王と顔を会わせる度に彼女は幾度となく率先して忠誠を示し、東の最大領主として君主の責任ある地位と立場を支えていた。
そのためこれまでメアリ・ド・バートペシュという一人の人間に不審を抱いたことは一度だってない。
だが、コロナは今日初めて明確な違和感を覚えた結果、不意に閃くようにその原因の在りかに至った。
(これまで公爵殿下が、陛下を〝女王様〟と呼んだことが一度としてあっただろうか……)
あるだけの記憶を呼び起こすも、そんな場面は知る限り皆無。
彼女は徹底して陛下のことを〝ミリーナお姉様〟と呼び続けている。
果たして、それは絶対的な親しみからくるものか。
それとも――
「ミリーナお姉様、しばらくはこちらに滞在されますよね」
「ええ、いきなり押しかけて大変心苦しいのですが、今後の進攻計画の打ち合わせのためにも数日は厄介になるつもりです」
「数日なんて言わず、どうか心ゆくまでお身体をお休めになってください。残念ですが密会とあれば盛大にとは参りませんが、それでも城の主として精一杯のおもてなしはさせていただきますので」
真っ黒な隈の上の、輝きのない双眸。
まるで凍った指先で心臓をそっと撫でられたかのようだった。伏せていた顏を上げ微笑みを浮かべるメアリを見て、コロナは一人そんな肌寒さを覚えた。











