15.狂おしいほど愛おしい
「夜会はお嫌いですの?」
ロゼッタは、王宮で開催される大規模な舞踏会や茶会は苦手だった。
人見知りが激しく、大勢の着飾った男女に圧倒されて、人に酔ってしまうのだ。
まだ個人の屋敷で、友人だけの交流であれば比較的出席しやすい。
私室へ戻ったロゼッタは、腕に抱いていたカイルを何気に窺った。
「群れるのは好まん。……そなた、夜会に出るのは構わぬが、他の男に色目をつかうなよ。……目を合わせてもならぬ。口も利くな」
「そ、そんな、無理ですわ。皆わたくしとの別れを惜しんで集まってくださるわけですから。失礼になって……」
前足を浮かせたかと思うと、トンと胸を押される。
一見軽く見えたそれは、思わぬ強さで、ロゼッタを背後の寝台へ押し倒した。
胸の上を首元へと歩く超小型犬。
暗緑色に光るツヴェルク・リッツの双眸に熱が宿る。
「そなたが欲しくて、欲しくて堪らぬのだ。我を煽るな、ロゼッタ」
迫ってくる犬の鼻が、瞬きした次の瞬間にはロゼッタを覆う影となっていた。
唇に落ちてきたのは、柔らかな人の唇。
顔の横に流れる長い闇色の髪、ふわりと漂う甘い花のような香り。
シーツの隙に逞しい腕が差し入れられて、ぎゅっと抱きしめられる。ロゼッタの全身に緊張が走った。
唇の感触も漂う香り、逞しさ、温もり、それらは全て夢の中で何度も何度も受けてきたものと同じもの。
現実では王宮で求婚された時以来なのに、少しも久しいとは思えない。
昨夜も夢で抱きしめられて、深く口づけられた。
抱きすくめて、唇の隙にさも当然のように舌を差し入れてくる。
漂う彼の痺れるような甘い芳香が、濃密な口づけが思考を奪っていく。
深く絡めとられてしまうことを恐れて、ロゼッタはカイルの胸を押した。
彼は無理強いすることなく唇を解き、少しばかり身体を離した。
「抱かぬ。接吻ぐらい許せ」
その言葉で、ロゼッタは確信し、悔しさと情けなさに涙が零れる。
「ふっ、うっ、うっ」
嗚咽するロゼッタに、カイルが困ったように吐息をついて、涙を指で拭った。
「ロゼッタ、そなたを狂おしいほど愛しているのだ。あと一月、我が城へ迎えるまではそなたとの約束はたがえぬ」
だからキスをなさったの?
わたくしに正体を隠し続けられたように。
「ならば、誤魔化すようなことはおやめください。わたくしの知らないところで、勝手にされるのは嫌ですっ!」
「そなたが寝ている間に接吻していたことを怒っておるのか?」
やはり!
カイルは悪びれもしない。ロゼッタは裏切られた悔しさでいっぱいだ。
「ええ、そうです。貴方様ばかり、わたくしの恥ずかしいところをご覧になるなんて卑怯ですわっ」
カイルの怯んだ口調に、ロゼッタは勢いづいていつになく責めた。
上体を起こして更にわだかまっていたことまでぶちまける。
「竜の谷からこちらに送ってもらうときもそうですわっ。わたくしが怖がりだからと、何のご説明もくださらないまま魔力を使われるなんて酷すぎます。お世話になった侍女やバトラーさん、お食事を作ってくださった方々に、一言もお礼を言えなかったではありませんかっ」
「そなたは我が寵妃、礼などいらぬ。それに、あやつらも中身はそなたが恐れる竜ぞ」
「それでもわたくしに良くしてくださったことは事実です。お礼を言うかどうかまで制限なさらないでくださいませ」
「……そなたの気持ちも考えず、悪かった。次からは事前に教えればよいのだな」
ご理解下さいますの?
こんな無礼なわたくしを許して下さいますの?
ロゼッタはカイルのどこまでも深い漆黒の瞳を真っ直ぐ見つめた。
絶対強者でありながら、はるかに弱者であるロゼッタに寛容な竜王陛下。
カイル様、あなた様にならわたくしはどこまでもついていけそうな気がします。
「はい、ちゃんとご説明くだされば、わたくしも安心して、カイル様にお任せできます」
大きな手が頬に宛てられ熱く見つめ返される。
「口づけは? 起きているときなら許してくれるのか?」
大きな手が、顎下に滑り、親指の先で唇に触れてくる。
一瞬で漂う男の色香に、ドクンと鼓動が跳ねて熱が昇る。
湯気が出そうなほど顔を上気させて、羞恥から逃れようと視線を逸らした。
「あ、あの……その……だ、誰もいないところでしたら」
わ、わたくしったら、わたくしったらっ。
「承知した」
腕を掴まれ、腰を浚われる。
犬から人に化した素っ裸の竜王の胸に引寄せられる。
ひぃーーーーーーっ。
恥ずかしさに内心で悲鳴を上げる間に、身体が宙に浮いて胡坐をかいた膝上に横抱きにされた。
「愛してる、ロゼッタ」
耳元から注がれる甘い囁きが、ロゼッタを鼓膜から脳へと痺れさせる。
なんとも言えず、耳から頬へと唇が降りてきて、優しく振り向かされて唇が重なる。
鼓動は最高潮に高鳴り、恥ずかしさと混乱の中、唇がちゅっと音を立てて吸われ更なる羞恥に悶えた。
「カ、カイル様、お待ちになってっ」
「なんだ?」
就寝時間になり、ロゼッタと犬のカイルはいつものように寝台にあがった。
腕の中で小さな鼓動を響かせる柔らかな毛を撫でて眠る体勢に入ると、突然彼が人へと姿を変えて体格差が逆転した。
日中、フィリップが帰った後、私室でカイルから延々とキスを受けた。その後彼は何事もなかったように犬に戻り、これまでと変わらずロゼッタと過ごしている。
入浴は竜の谷から戻って以降は、一緒に入っていない。侍女の目もあり、ロゼッタが否といえば侍女達はそれに従い、正体を隠すカイルも、強引に乱入してくることはなかった。
だが夜は、愛らしい犬の姿にすっかり騙されて、ロゼッタは淑女でありながら、あろうことか何の疑問も抱かず添い寝を続けていたのだ。
とうに成竜であるカイルに対して、婦人たるロゼッタが無防備すぎたのだ。ロゼッタ自身にも大いに問題があり、彼ばかりを責められたことではない。
いかんせん、どうにも貴族として父に守られ大事に育てられたロゼッタは、警戒心の薄いお嬢様だった。
カイルに犬の姿でいられると、その愛くるしいふわふわのもこもこに和まされ、癒されて、彼の正体を失念してしまうらしい。
毛布の中で、裸男性のカイルに抱きしめられて、ようやく貞操の危機に慌てる始末だ。
反面、これほど愛されることに、ロゼッタは困惑しながらも、心のどこかでこのまま抱かれてもいいと思うようになっている自分がいることに驚かされる。
いつの間にか警戒を解き、心を許せるようになっていた。
それでも、乙女の矜持を守らずにはいられず、真っ赤になって恥じ入りながら、必死で思考を巡らせた。
「じ、侍女に貴方様の寝衣を用意させます」
「人界では、まだ婚約中の竜王と寝ていることを知らせるか?」
意地の悪い笑みと魅惑的な声。
うっかりすると聞き流しそうになりながらも、距離をとり、視線を逸らして辛うじてかわす。
口角を上げた秀麗な顔は、必死になるロゼッタを上から眺めて愉しんでいた。
いたぶられている自覚はあるものの、そんな戯れでさえ嫌な気がしない。
「知らせません。無論お部屋は用意させます」
妙な隠し立てをせずに父や屋敷の者達に隠さず、谷から戻った時点で全て打ち明けておけば良かったのだ。
一緒になって陰で睦会うなど人の道に逸れるようで、ただ口づけるだけでも淫靡で後ろめたい。
後悔しつつも、何もしないよりはいい。
カイルの手が、ロゼッタの首から提げた菱形の鱗片に触れる。
「つれないことを申すな。そなたと我はもう番なのだ。離れては休めぬ。そなたとて、今更一人寝など寂しゅうてできまい」
「わ、わたくしは寂しくなど……ありません」
ロゼッタは幼い頃から人一倍寂しがりだ。リリアンヌとして、傍にいてくれる温もりを失えば、寂しさに襲われることは自覚していた。自信のなさは、声を小さくする。
「強がりを申すな、仕方のない雌だ。これなら良いか」
すっと、カイルはツヴェルク・リッツの姿に戻った。
ロゼッタは少しばかり申し訳なくなって、コクリと頷く。




