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春麗のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 春麗のミステリーツアー参加者一同
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「般若観音寺の犯罪 1」 Kan 【ミステリー】

 群馬県の山奥にある仏教寺院、補陀落山(ふだらくさん)般若観音寺(はんにゃかんのんじ)。ここは元々、天台宗の密教寺院であったが、第二次大戦後に独立し、単立宗派となった。

 ここには創建以来の仏像群が祀られているが、その中でももっとも貴重な平安時代の木彫仏、聖観音(しょうかんのん)立像は秘仏のため、長年、公開されていなかった。

 今、その封印が解かれようとしている……。



 四月のある昼すぎだった。般若観音寺へと通じる山中の車道に、赤い路線バスの姿があった。そのバスの正面には隣町の市立病院の名前が掲げられている。そこがこのバスの終点なのである。

 般若観音寺にゆくには、途中のバス停で下車し、山道を小一時間も歩かなくてはならない。

 バスの車内には、埃にまみれたような色の窓ガラスが並び、座席のシートも色あせていて、その印象は、古めかしかった。その車内にはわずかな人影しかなく、最後尾の座席に座ったふたりの人物の話し声がやたら響いている。


「羽黒さん、これから貴重な仏像を拝むのですぞ。覚悟はできておりますかな」

 と言ったのは、顎を白い髭で囲んでいる、丸眼鏡をかけた妖怪博士、ともいうべき胡麻零二博士である。彼は茶色いスーツ姿で、柄にもなく、山高帽などを被っている。

 彼は隣に座っている美男子に、興奮気味に声をかけたのだった。

「覚悟、と言われましても……」

 とその美男子は苦笑いを浮かべた。彼は三十歳手前、流れるような黒髪、爽やかで優しい瞳がどことなく物憂げである。彼はなんと答えるべきか悩みつつ、胡麻博士をそっと見返した。


「そもそも僕は、仏像にあまり興味がないので……」

 という彼の心中には、不安がわだかまっている。興味がないにもかかわらず、彼は仏像がらみの依頼を受けてしまったのだ。

「羽黒さん。駄目ですよ、そういう態度では。これからお寺で住職に会って、困りますぞ」

「ええ。たしかに……」

「私たちは、秘仏が盗まれるのではないか、と心配する住職に直々に仏像の警備をお願いされたのですからな」

 羽黒さん、と呼ばれたこの美男子は、そもそもなんでこんな仕事を引き受けたのか、今さらながらよく分からなくなっていた。

 今回、般若観音寺の中川住職が、貴重な秘仏を開帳するにあたって、盗難の心配を危惧し、彼の務める羽黒探偵事務所に警備の依頼をしてきたのだ。


 ちなみに羽黒探偵事務所とは、東京の池袋にある私立探偵事務所で、所長はこの、羽黒さん、と呼ばれた羽黒祐介(はぐろゆうすけ)である。彼は人類史上最高の美男子だった。


「そもそも、僕は、あまり気が進まなかったんです。だって、僕は警備員じゃないし、事件はまだ何も起こっていないのですからね」

「まあ、それはいいのですよ。依頼のことはね、どうでも。それよりも大事なのは仏像です。これから貴重な仏像を拝もうという時に興味がないなんて言ってはいかんですな。それはいけない。実にもったいないことですよ」


 という胡麻博士は、東京にある天正院大学の民俗学教授なのである。祐介からしてみたら、そりゃ、あなたは仏像に興味があるだろ、と言いたくなる。祐介は、仏像がらみの依頼ということだったので、自分の力ではどうしようもなくなり、知り合いである胡麻博士に協力を依頼したのだ。


 胡麻博士は、車窓に流れる景色を見つめて鼻歌を歌うと、微笑ましげに仏像について語り始めた。

「これから私たちが拝むであろう、平安時代の木彫仏は、なんでも観音菩薩立像らしい。伝承によればあの仏師定朝(じょうちょう)の一派がつくったものらしく、歴史的価値はきわめて高いと想像されているのですよ」

「あの、その定朝って、誰ですか……」

「ああ、そんなこともご存知ないとは。なんと、憐れな。それでも日本人ですか……。定朝は平安時代の高名な仏師で、優美で円満な仏像をつくり、それこそ一世を風靡した方ですよ。現存する彼の代表作は、宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像です。参拝したことがあるのじゃないですかな」

「へえ、まあ」

 といいつつも、祐介はその阿弥陀如来坐像を思い出すことができなかった。


「それがだいたい西暦千年代ですな。藤原道長とか、源氏物語とか、そういう時代ですよ。仏師定朝のスタイルはその後、全国的に大流行して、当時の仏師たちはとにかく定朝スタイルに近づけることを目指しました。その後は、定朝様(じょうちょうよう)の時代が続きます」

 祐介は頷いた。天才が現れて、誰もがその人のスタイルの真似をした。そして、その人のスタイルでなくては駄目だ、という風潮があったのだろう。


「なるほど、なるほど。そうなのですね。それで、その定朝さんがつくった仏像が、これからゆくお寺にあるというのですね?」

 祐介は仏像の歴史の話があまり広がらないうちに、話を現在に戻しつつ言った。

「あるとされているのです。もちろん、長いこと秘仏でしたが、江戸時代までは、ずっと祀られていたもので、その存在が確認されておるのです。今は厨子の中に隠されたままになっておるそうです。それが明日、晴れて厨子(ずし)が開かれ、早ければ、来月から一般公開を開始するそうなのですな」

「でも、どうして、中川和尚は突然、仏像を開帳する気になったのでしょうね?」

「それは本人に聞いてみないと分かりませんな」

 胡麻博士はそう言うと、ペットボトルのキャップをくるくる回して開け、ちょっと愉快な鼻歌を歌いながら、中身のほうじ茶をぐいと飲んだ。


 バスは「般若観音寺道」というバス停で停車した。ふたりが降りると、あたりは杉の木ばかりで何もない。祐介と胡麻博士は、そこから延々と登り坂の山道を歩いた。一時間は坂道を登らないといけないのだ。そう思うと祐介はすぐに心が疲れて、ため息をついた。

 杉の大木があたりを包み込んでいるようである。雨でも降り出しそうな湿気。それを吹き飛ばすように、冷たい風が体のまわりを流れていた。

 名前の知らない鳥が鳴いた。そして、その鳥が何者であったか、もう知ることはないのだろうと祐介は思った。


 しばらく歩くと、

「ああ、喉が渇いた……。ほうじ茶を、半分くらい残しておけばよかった……」

 と胡麻博士が喉を震わせて言った。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ですか、だと? 大丈夫なわけがない。羽黒さん。申し訳ないが、飲み物を少し分けてくれないか」

「すみません。持っていません」

「持っていない……。なんという不運。神も仏もないとはこのことか」

「大袈裟ですね」

「笑いごとではない……」


 しばらく歩くと、森は絶えて、視界が開けた。岩がごつごつと剥き出しになった崖があって、眼下には川が流れていた。かなりの急流である。ごうごうと音が鳴り、飛沫が立っている。胡麻博士はぼんやりと下を眺めて、

「おお、こんなところに水が……」

 と言った。

「飛び込まないでくださいよ」

 と祐介は笑った。


 眼下の川は折れ曲がっていて、突き当たりの岩場に色々なものが打ち上げられていた。折れた木の枝、枯れた草、それに桜の花びらが川の曲がったところにたまって、花筏(はないかだ)のようになっている。この上流には桜の花が咲いているのだろうと思わせた。

 祐介は、近くに「般若観音寺」の案内板を見つけた。

「この先に般若観音寺があるようですね。胡麻博士、もう少しの辛抱ですよ」

「もう少しなのですな。ああ、良かった」

 と胡麻博士は言って、低いうなり声を上げた。


 しばらく川に沿って歩くと、川を越えることのできる赤い橋がかかっていた。その先に、荘厳な雰囲気の山門が建っている。両側には怒った顔の仁王像。ふたりは橋を渡りながら、あまりの疲労に言葉もない。祐介はちょっと五色村の寺を思い出した。(「五色村の悲劇」を参照されたし)


「ようやく着いた。これが般若観音寺なのだな」

 と胡麻博士は苦しげにそう言って、よろよろとした足取りで、山門をくぐった。


 山門をくぐるとそこは無数の桜が咲き誇る庭園のようになっていた。あたり一面の桜に祐介は息を呑んだ。時々、すでに散ってしまった梅や桃の木も見つかる。それもまた趣きがあった。レジャーシートでも敷いて、花見をしたい気持ちになる。胡麻博士は鼻息荒く、その中をぐんぐんと突き進んだ。

 祐介は胡麻博士の後ろを歩きながら、ぼんやりと桜の花を眺めていた。


(日本の桜は美しい)

 と祐介は心の底から思った。

 その花は可憐に風にそよいでいる。

 たとえば、アメリカに住んで、FBI犯罪科学研究所爆発物課にでも勤めたら、こんな美しい桜はもう見れなくなってしまうことだろう。

 祐介が、

(日本に生まれて良かった)

 と思うのはこんな時である。

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