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#3 父親

作品に登場する人物、施設、内容は全てフィクションです。明るい話とは言えないので読んでいて「うわ…」と思ったら読むのを止めてください。

「こんにちは」


 驚く僕にマオは目尻を下げて、にっこり笑った。

(き、聞かれていた……?!)

 動揺が隠しきれなかった僕は、ガサガサと記録用紙を集めて慌てて席に着いた。

「き、気づきませんでした。いつ入ったんですか」

「えっと……、電話中? ノックしても返事がなかったので」


 さも当たり前のように答えるマオに、僕は床に記録用紙を叩きつけたくなった。

(そんなわけないだろう。普通、ノックをして返事がなかったら入らないだろう? 前回だって僕が出るまで待っていたじゃないかっ……!)

 彼女の行動の背景にあるのは社会性の未熟さだろうか。それとも彼女の病理がそうさせるのだろうか。きっと両者だ。

 ただその時はそんなことを考える余裕もなく、カッとなった僕の口からは言葉が飛び出していた。


「返事がなかったら入らずに待っていてください!」

 あ、と思った時にはすでに遅く、幾分強めの口調になってしまっていた。

(まずい、言ってしまった……)

 機嫌を損ねてしまうだろうか。僕の言葉と同時にパッと目を伏せ、黙ってしまったマオの様子に緊張が高まる。しかし、彼女はごそごそとリュックに手を突っ込んで何かを探しているようだった。

(は? 探し物? このタイミングで?)

 僕の緊張は何だったのかとがっかりしながら、そういえば初回はバッグを持っていなかったなとマオの様子を見ていると、ようやく目当てのものが見つかったのか彼女が顔を上げた。

 彼女の手には濃い緑色のメモ帳が握られていた。


「先生、あの……」

 マオはメモ帳を開きながら口を開いた。

「私、この前のカウンセリングの後、いろいろ考えていて……」

 自分の話したい事をメモにまとめてくる学生はよくいる。しかし僕はマオに関しては意外だった。あの申し込み用紙の文字が脳裏に浮かぶ。あの様子では話したい事を書くのも一苦労だったのではないかと考えると、マオがこのカウンセリングに期待をしているんだろうということが想像できた。


 僕はそんなことを考えながらも、何となく落ち着かない気分でソファの上でモゾっと座り位置を直した。指にまだ整いきっていない記録用紙が触り、僕は気が付けば手元で用紙の端を整え始めていた。

「私、お母さんの話をしようと思っていたんです」

「お母さんのこと……」

 彼女の言葉を繰り返しながら、僕は彼女が母とか母親でもなく「お母さん」と呼ぶことが気になった。僕にはそのマオの語る「お母さん」という言葉にぺったりと母に寄り添い、まだまだ母の柔らかさを堪能していたい子タヌキのイメージが湧いた。


 そういえば、僕は母親に抱きしめられたことがあったのだろうか。物心ついてからというもの、感情の起伏の激しい母親しか記憶にない。高齢で僕を産んだ母親は、今思えば更年期に差し掛かっていたのだろう。……ただどんな理由があったとしても、子どもに自身の感情をぶつけて良い理由にはならない。


「――っつ……。」

 突然指先を襲った鋭い痛みに視線を向けると、ピッと真っ直ぐに切り傷ができていた。整えようとしていた記録用紙の端で切れてしまったのだろう。

「わっ、大丈夫ですか?」

「すみません、続けてください。どんなお母さんだったんですか?」

 マオは僕の様子に気づき声をかけて来たが、僕は何となくきまり悪く、机上のティッシュを一枚抜き取り指に当てながら努めて冷静に話を促した。


「あ、えーっと、……まあ他から見たら普通のお母さんだった思うんですけど、とにかく厳しいんです」

 話を促されたマオは一瞬気圧されたように言いよどんだが、すぐに自分の調子で話を始めた。


「お母さんとの思い出って、私が怒られてるのくらいしかなくて。すぐ『あんたはだらしない』とか『ちゃんとしないと車に轢かれるよ』とか言うし。大丈夫だからって私が言い返すと『立派に独り立ちしないといけないんだから』ってさらに怒るんですよね」


 マオが母に怒られている様子は容易に想像ができた。マオに似た顔のマオの母親が目を吊り上げてプリプリ怒っている。その母親にマオは正面切って反抗するのだろう。そして段々とヒートアップしていくのだ。

 だがその感情のぶつかり合いで傷はついても致命傷にはならないだろう。僕の知っている足元から全て崩されるような恐怖はそこには存在しないはずだ。もしそうなら、相談になんか来れないはずだから。


「もしかして、私めちゃくちゃお母さんに嫌われてるんじゃないかと思うんです。そうだとしたら、私の悪いところってどんなところなんだろうって、そういうこと相談したいんだなってことに行きついて……」

 なるほど、マオは幼い頃から母親に注意されがちであったが、最近になって特に口うるさく感じている。しかし母にネガティブな感情を抱くことで罪悪感が呼び起こされた、その結果、現在彼女は自己否定的になっているのだろう。


 ただし……、と僕は気を引き締めた。彼女が妄想を呈する精神状態である以上、どこまでが現実なのかを慎重に検討していかなければならない。


「自分自身への理解を深めたい、という事でしょうか」

「そうそうっ! 大きくまとめるとそんな感じです」

 あまり深入りしないように大まかに伝えると、彼女はそれに同意してくれた。僕は妙な疲労感を感じながら記録用紙に「自己理解、母子分離」と書き込んだ。そしてチラッと彼女の姿を上目遣いに見る。今日のマオの話はとても現実的だ。前回の自分はタヌキだという妄想のような現実離れした話は出て来なかった。肩先で揺れる茶色の髪の毛はしっとりと束感が見られる。オイル系の整髪料を使っているのだろう。


(今日は調子がいいのか? 彼女は自分の症状についておかしいと認識していないけれど、彼女の素直さなら僕の話を聞いて病院を受診してくれそうな気もする……)

 そんなことを思いながら、医療機関の受診を勧めようと僕は口を開いた。


「あの、マオさん……」

「あ、そういえば私のお父さんって優しかったんですよ」

 僕の話を遮るかのようにマオが再び話し始めたせいで、僕は一旦言葉を飲み込むしかなくなった。


「――っと、お父さんですか」

「うん。私たちのお父さん。とっても優しかったんですけど」

「けど?」

「うーん、けど最近思うのは……、うーんと……」


 そこでマオは言葉を区切り、珍しく言いづらそうに黙ってしまった。僕はひとまず彼女の言葉を待った。

 僕の父も優しかった。大学生の頃に他界した父はいつも僕の味方だったから、きっと彼女の父親もそうなんだろうと思ったのだ。しかし出てきた彼女の言葉は予想外で、僕はショックを受けることになった。


「お父さんは……、お父さんは本当は私たちに興味がないだけだったんじゃないかな、って」

「興味がない……」

「怒られてても別にかばってくれるわけじゃないんですよ。お母さんがイライラし出すといつの間にかいなくなって、ほとぼりが冷めた頃にひょっこり戻ってくるんです」


 マオは仕方ないという風に口では笑っていたが、その丸い目の奥は笑っていなかった。そこに存在したのは明らかな怒りだった。

 それよりも気を取られていたのは彼女の表情で、それは大学生でも中学生でもなく大人の女性の表情だった。僕はそのマオの表情に彼女の母親像がより鮮明になった気がした。きっと今のマオと同じように、心の奥で夫への怒りを隠しながらすごしていたのだろう。


「多分、面倒くさかったんだろうな。きょうだいのことも、みんなお母さんに丸投げだし。そりゃイライラもするだろうなと思うんですよ。だからお母さんは本当はかわいそうな人なのかもしれないな、とも思って」

「かわいそうな人……」

 そういいながらマオは憎々し気に、しかし寂しそうに笑った。その表情にも見覚えがあった。


『パパは優しいふりしているだけなのよ。ママ、これまで何度も裏切られてるんだから。あんたらがいなかったらあの人も帰って来なくていいのに、かわいそうね』

 そう言って笑いながら母親は父の皿に盛られた食事をザっとゴミ箱に捨てた。父の好物だらけのゴミ箱を憎々し気に睨む母親の姿を、小学生だった僕と姉は何も言えずに見つめていた。その後食べた父の誕生日祝いの食事の味は覚えていない。


(でも、それでもあの人は優しかったんだ……)

 僕は唐突に思い出した記憶と、マオの言葉で受けた二つのショックを打ち消そうとしていた。そもそもマオの父親に「優しい父親であって欲しい」と期待してしまっていたことが間違いだった。すっかり彼女のペースに巻き込まれてしまっていたせいで、自分の理想通りであってほしいと期待していたのだろう。


「先生、何か言いたいことありますか?」

「え」


 気がつくと不安に揺れる子どものマオが僕の姿を捉えていた。先ほどまでの夫に怒りを呈していた妻の様子はみじんも感じられない。相槌を忘れ、黙ってしまった僕を見るマオは親の顔色を伺う子どもそのものだった。

「困ったなぁって顔してます。もしかして私、変な話しちゃいましたか? 家族の話はしない方が良かったですか?」


 止めてくれ。

 僕は思った。


 家族の話なんかして欲しいわけないじゃないか。

 ようやく僕はカウンセラーとして認められてここにいるんだ。

 子どもになんか戻りたくないんだ。


 ズキン、と指先が傷んだ。

 それはきっと瞬き一回分の僅かな時間だった。きつく握られた傷口の痛みが、体中を駆け巡った動揺から僕を現実に引き戻した。


 いや、そうじゃない。これは僕の話じゃない。マオの話なんだ。

 そうだ、院生の時刑部(おさかべ)先生が言っていたじゃないか。こういうときこそ冷静にと。

 記憶の中の柔らかな声が僕の口を操るように動かした。


「そ、それは、あなたがそう感じているからじゃないですか」

 そう、これは彼女自身の気持ちを僕に投影しているからだ。僕の気持ちではない。

「本当はあなた自身が思っている事だけど、『相手がそう思っている』ということにしてしまう。そうすると自分は守られるんです。傷つかずに済むんです。つまり……、もしかしたら、あなたはあまり家族の話をしたくないなと感じていた、とか……」


 そう言いながら自分の声に耳が痛かった。唐突に彼女の問題に踏み込んでしまった事にも後悔が押し寄せる。


 「偉そうに!」と僕の中の僕が叫ぶ。

 「お前は何様だ」「お前こそ目を逸らしているだろう」と僕の中で暴れ出した気持ちを払いのけるように、マオは一瞬ぽかんとした後、丸い目をさらに丸くして興奮したように声を上げた。


「そうかも! 本当は話すとモヤモヤしてきちゃうからなんかな~、って思ってたんですけど、話さなきゃいけないような気がして。でも、言ったら言ったで、先生にどう思われるんだろうとか、呆れられるかなとか、『わがまま言うな!』って怒られるかなとか、とにかく心配になったんです、……多分。だから先生が何か思っているんだなっていうことにしておいた方が楽だったのかなぁ……」


 なるほどぉ、と素直に感心しているマオに気づかれないよう僕は深く息をついた。さりげなく時計を見ると、もうすぐ終了時間だった。ホッとして僕はマオに尋ねた。


「もう少しで時間ですが、聞いておきたいことはありますか」

「え、早ーい。うーん、聞きたいこと?」

 マオは腕組みをして、少し考えるような様子を見せた後、口を開いた。

「今は特にないです」

 考えるしぐさを見せたから、もしかして何か質問が来るかもしれないと構えていた僕はその答えになんだか突き放されたような気がした。完璧に振り回されている。

「あ、まだ時間あります?」

「……あと五分です」

 どっと押し寄せた疲労感を隠しもせず答えると、マオはまたもやバッグをごそごそと探り出し、ペットボトルを引っ張り出した。


「お茶飲んでいいですか?」


 いい加減にしてくれ。無断で入室したり、今度は飲み物とか……。僕はこれまで社会性を身に着けさせてこなかったマオの母親に怒りを感じた。


「ごめんなさい。相談室は飲食禁止です」

 半ば呆れたように告げた僕を、マオは今度は真面目な顔でじぃっと見つめ、パッと笑顔になった。

「あっはは! そうなんですね。まだまだ人間のルールがわからないなぁ。お部屋に入って待ってたらだめとか、飲食はだめとか。やっぱり聞かないとわからないことたくさんありますね」

「え、あ、はい……」


 手にしたペットボトルと一緒にメモ帳をバッグにしまい、マオはソファにモゾモゾと座りなおした。そしておもむろに「先生」と呼びかけてきた。

「先生、もうすぐ夏ですねえ」

「え、ああ、そうですね」

「また、来週もお願いします」


 そう言って笑顔を見せるマオの前髪の隙間から覗く額には、ぷっくりと二つ、汗の玉が浮いていた。



 僕は父親が好きだった。

 生前父は汗かきで、いつもタオルを手にしていた。少し強引で、少し頓珍漢で、そしてとても優しい。


『おまえの好きなようにしたらいいさ』

 父はいつも応援してくれた。


『そんな勉強しても食べていけないでしょ! お姉ちゃんみたいに使える資格取れないなら高い学費払って大学行く必要ないでしょう!』

『子どもの心配するのは当然でしょ』

『あんたにまともに育ってもらわないと恥ずかしいんだから』


 母親の、あの人の言うことは正論だった。

 だからあの人の前で「つらい」とは絶対に言わなかった。勉強の合間にバイトを詰め込み、大学院への進学費用を作った。

 大学進学は周囲への見栄で認めてくれた母親も、大学院の進学には理解を示すことはなかった。ただその時には父親の死で滅入っていたのか、母親が僕に真っ向から反論するだけの気力はなかったようだ。


『恥ずかしいことしないでちょうだい』

 それだけだった。


『いつもお前が怒られてばかりでごめんなぁ』


 そういえば、父親は母親の言うことを否定することはなかった。いつも謝るばかりだった。

 気づいてしまうとようやくの思いで括り付けていた思いが離れていきそうになる。


 僕は恥ずかしい子どもだったのだろうか。

 恥ずかしい僕は生きていていいのだろうか。


 脇の下をつぅ……、と汗が流れていった。


「あっつ……」

 急に暑さを感じた僕は、ドア近くにあるエアコンの操作盤に近づいた。

「えっ……と、冷房、冷房」

 エアコンの起動ボタンに伸ばした指に巻き付けたティッシュが音もなく落ちた。ティッシュは手汗で濡れて、ボロボロになっていた。落ちたティッシュに構うことなくボタンを押すと、傷口がピリッと痛んだ。


 ブゥゥゥン……

 天井据え付けのエアコンは低い音を立てて動き出した。途端、吹き出し口からホコリがぶわっと舞い落ち、黴の臭いが部屋に充満する。

「うっわ! くさっ! なんだこれっ!?」


 僕は慌てて窓を開けた。

 部屋に立ち込めた黴臭さが消えると、開け放った窓から湿った雨の匂いがした。


「あ、そういえば……」

 マオに医療機関の受診を勧める話はまたできなかった。

 だが、また彼女は来る気がした。今度はきちんとドアの外で待っているはずだ。

お読みいただきありがとうございました。次話は短い夢の話です。一時間後に予約投稿しています。

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