7-10 宝物
「……176、……177、……」
セツナの額には汗が一筋流れた。
左腕がフルフルと震えそうになりながらも体を突き上げるように持ち上げる。
俗に言う、片手腕立て伏せと言うやつだ。
「……182、……183、……」
トレーニングはあの戦うと決めた日以来の日課ではあるのだが、最近はオーバーワーク気味になっていた。
理由は言わずもがな、である。
「……191、……192、……」
トレーニングをやりたいからやる、必要だからやる、であったら周りも幾分理解しやすかっただろう。
落ち着かないのだ。
幾らやっても、充たされない。
「……198、……199、……200ッ」
セツナはドッとそのまま地面に突っ伏す。
中庭の芝生と土の匂いが肺を満たした。
仰向けに寝返りをうつと青い絵の具を垂らしたような空が広がっている。
背中に伝わるひんやりとした感覚と対照的に真夏の太陽は容赦無くジリジリと肌を焼く。
「ーー強く、もっと……か」
セツナは左腕の筋を伸ばす。
何の他愛も無い行動であったがセツナはすり抜ける虚空を掴む心地がした。
あれから4日が過ぎた。
ブレイセリオンが起こした爆発はフロアごと全てを焼き尽くした。
後に残ったのは僅かな鉄骨とコンクリート、何かの機材の破片、そしてドロドロに溶けたガラスだけであった。
セツナたちもあの氷の壁が無ければひとたまりもなかっただろう。
もし、壁が無かったらと考えるとゾッとする。
ただし例えそれがあっても音と衝撃は避けようもなく暫し気を失っていた。
次の目覚めでは周りは廃墟と化して、セツナとバーディ以外は周りに誰もいなかった。
すぐさま彼の捜索をしたが、無駄であった。
姿形はいないのはもちろんのこと、この世にいた痕跡すら見つからなかった。
白昼夢でも見ていたとでも言うのだろうか。
ただ1つ見つかったのは燃えるように赤い羽根だけであった。
恐らく、バオグライフの羽根であろう。
それを見つけた時、セツナは憤りを感じた。
何故、奴の名残だけはあってアイツはいないんだ、と。
一旦、彼の捜索を打ち切って帰宅したものの、また何度かその廃墟に赴いている。
結果は何時も同じだった。
笑いたければ笑えばいい。
そうすることでしか、この焦燥感を拭い去る事はできなかったのだ。
「セツナくんっ、ダメじゃないっ。 怪我してるんだから寝てないと!」
セツナの顔に影がかかる。
夏らしい白いワンピースに麦わら帽子がセツナを覗き込んでいた。
ナユタだ。
彼女にしては珍しく、口調も強く形の良い眉が10時10分を指している。
全く、こいつも同じことを言う。
「そうだ。 ナユタ、厳しく言ってやってくれ! ーーあとできれば助けてくれ」
「え、バーディちゃん!?」
声の先にはバーディがロープで縛られていた。
蓑虫かと思うほどグルグル巻きだ。
セツナは舌打ちをする。
彼女の存在は1人で打ち拉がれなくても良いと言う点では助かったのだが、焦燥感を紛らわせる為に身体を動かすと言う点では邪魔だった。
ナユタがいも虫バーディのもとに駆け寄り、ロープに手を掛ける。
「今解くね! ……うわ、すごい固結びっ」
彼女はあの戦いの後すぐに、地下室で気を失っていたところを見つけた。
ナユタも、ついでにレキも傷1つなくいたところを見るに本当に誘き寄せる為だけにさらっていたのだろう。
怪我はないとはいえ、彼女らをそのままにしておけない為に連れて帰宅した。
それも捜索を打ち切った1つの理由だ。
「……た、助かった……」
バーディがふぅと息を吐く。
ナユタがズンズンとこちらに歩いてくる。
手を腰に当てている、相当おかんむりのようだ。
「セツナくんっ、いくらわたしでも怒るよ?」
「む、そうは言っても落ち着かないんだよ」
セツナが困ったように眉をひそめて言う。
プンスカ怒る姿は正直怖くない。
むしろ微笑ましい。
がしかし、怒られている手前そんな感情を表情に出せないのが辛いところだ。
「ーーせっかくわたしがお料理作ったから看病ついでにおすそ分けしようと思ったのにーー」
嘘はいけない。
正確には〈わたしが〉ではなく〈わたしのお母さんが〉である。
彼女は料理下手なのだ。
不器用的な意味でなく、料理本通りに作る事ができないタイプの料理下手だ。
言い換えるならば料理を勢いで済まそうとする為、全ての料理が大味なのだ。
「ーー看病しようと思って部屋に行ったらどこにもいないし、なんか筋トレやってるし、……あ、わたしゴリマッチョって苦手なんだよ……、なんかバーディちゃんで怪しい事してるし……」
「ナユタ、もうその辺で……」
バーディでさえも彼女をなだめようとしている。
暴走するナユタはある意味相当厄介なのだ。
恐らく突っ込まない限り、お説教は永遠終わりそうもない。
セツナは小さくため息をつき、気になっていることを聞くことにした。
「ーーところでナユタ、言ってもいいか?」
「ん、なに?」
「言いにくいんだが、見えてんだけど」
ちょっと手を伸ばせば届きそうな場所にある。
そよ風に揺れる白いカーテン、その奥に見え隠れする白い布。
正直、目の毒だ、危険過ぎる、非核三原則だ。
「ーーうにゃぁっ!」
ナユタは顔を真っ赤にしてズザッと跳び退く。
両手でワンピースの裾を掴んでプルプル震えていた。
その存在自体は双子の妹のクオンので見慣れている。
なんせ彼女は風呂上がりにはバスタオルとそれだけで家を歩き回る事が往々にしてある。
兄妹であれば軽くあしらって終わりだが、他人ともなれば勝手が違う。
冷静に取り繕うのも一苦労だ。
見ようとしていたワケではない、見えてしまっていたのだ。
そこのところは勘違いしないでほしい。
「……い、いつから見えてたの……」
「さっきから、っと」
ひょいと腹筋だけで跳ね起きる。
顔が真っ赤なまま、俯き涙目でプルプル震えている彼女を見て、少しだけ良心が痛む。
無論、此方がある意味被害者なのだが。
そんなに恥ずかしいならば、きっちりガードすべきで無いだろうか。
セツナはぽりぽりと頭をかく。
「白昼堂々ナユをオカズにしようと言うのかね、少年!」
こんなことを言う人物など知れている。
向かずに反射的に即答する。
「人聞きの悪いこと言うなよ」
やはりそうだ、レキだ。
彼女はベランダの一角でコーンのアイスクリンを頬張り立っていた。
Tシャツにハーフパンツ、そして野球帽と随分ボーイッシュな格好だ。
隣のガラス戸はまだあの日のまま、ダンボールで補修こそしているが割れたままだ。
明日には業者が来て直してくれるはずだ。
「えぇ、ほんとでござるか〜?」
ニヤニヤと煽るレキに軽くイラついた。
今殴ったとしても罪とはならないだろう。
彼女のボーイッシュな格好が罪の意識を薄くさせて行く気がする。
「どこまでも一緒だっての」
グッと堪え、飽きれつつ言う。
面白く無いとでも思っているのだろう、あの表情は。
レキはアイスクリンを頬張りつつモゴモゴ喋る。
「そう言うことにしておこう。ーーそんな悪い子には冷たいのあげよう」
「それ、ウチのだろうが」
真夏の日光でテラテラと反射するアイスクリン。
レキの手には4本、うち1本は彼女が頬張っている。
そのアイスクリンは昨日スーパーマーケットでお徳用8本入りで安かったものだ。
「ほれ、ナユもバー子も遠慮無く食べるがいい」
「わぁ、ありがと〜」
「だからウチのだってつうの」
アイスクリンを見て、ナユタは恥ずかしがっていたのも忘れたかのようにはしゃぎ受け取る。
ワンピースではしゃぐものだから、ーーいい加減、自分の破壊力と言うものを理解して欲しい。
セツナは頭を抱えた。
周りの男どもからそんな風に見られてると思うと無性に腹が立った。
「はれ? セツナくん、食べないの?」
ナユタがレキから受け取った溶けかけのアイスクリンをジッと見ていた。
彼女の目は何か期待に満ち、輝いている。
食べていながらまだ求めるか、このいやしんぼめーーセツナは無慈悲に自分のアイスクリンを食べ始める。
「食べないでくださ〜いっ」
「食べな……食べるよ!」
そもそもこれはセツナ自身が買ったものだ。
あげるあげないの決定権は元々セツナに在るべきであろう。
無論、これ以上あげるつもりはない。
あまりお腹を冷やされては困る的な意味で。
殆ど意地で、食べる速度を上げる。
ジッと見つめられると食べにくいが、無視して食べ進める。
もっとも、彼女が見つめていたのはアイスクリンだが。
どちらにせよ、味は感じなかった。
最後の一口、コーンをパリっと頬張ると急にきた。
「……あ、アイスクリーム頭痛が……」
キーンとした痛みはなかなかに耐えがたい。
外からの痛みなら何とか我慢は出来るものの、中からは我慢しがたいのだ。
「一気に食べるからだよ〜」
「そうさせたのはどこのどいつだ」
キッチン借りるよ、とナユタは履いていたサンダルを蹴るように脱ぎリビングに上がる。
彼女はリビングの奥に向かって行く。
「お姉ちゃんがあったかいお茶淹れて来ましょう」
トトっと小走りでカウンターキッチンの向こうに消える。
アイスクリーム頭痛の原因は、一気に下がった体温を上げるために血管が膨張した事による脳の血管の炎症とも、冷たい感覚を脳の痛みと錯覚してしまうために引き起こされるとも言われている。
故に暖かくする事でその頭痛は和らぐ。
彼女がその詳しいメカニズムを有しているかどうかは少しばかり疑問ではあるが、適切な対応は彼女の祖母の知恵袋の賜物であろう。
……少しばかり対応が遅い気がしないでもないが。
「バーディちゃん、お茶っ葉と急須どこ?」
「ん、ちょっと待ってくれ」
ひょこっとキッチンから顔だけ出してバーディを呼んでいる。
バーディは腰を上げてキッチンに向かう。
実は殆どもう頭痛は治まっているのだが、彼女の言葉に甘えよう。
ふう、と一息をつく。
それにしてもいい天気である。
「少年もナユの扱い雑だねぇ」
そうだ、まだ天敵がいた。
どうせなら彼女も連れて行ってくれたなら良かったのに。
セツナは不機嫌に答える。
「僕の勝手だろう」
セツナの答えにニヤリとほくそ笑むレキ。
何か面白い事でも言っただろうか?
「ほほぅ、ナユは既に少年の所有しているからどう扱おうと構わないと?」
正直、まるで意味が分からない。
何故そうなるのだ。
困惑するセツナを尻目にレキは更に続ける。
「ナユには少しばかり同情しないでもないが、これが君らの愛の形なのだな」
「何故そこで愛ッ!?」
セツナの渾身のツッコミをレキはそよ風のように受け流す。
更にレキの攻撃は続く。
「あれれ〜? 少年はナユの事が好きーー」
「ーーそれ以上言ったら命に関わるパンチするぞ」
「それは認めると同じさね。 ほら、愛しのナユが少年を見ているぞ?」
ナユタが不思議そうにこっちを見ていた。
そのキョトンとした表情を見る限り、会話はそこまで聞こえていないのだろう。
「どうしたの?」
「何でもないぞ〜。 戯れてるだけだからナユは心配しなくていいぞ」
ナユタは少し考えて、何か閃いたかのようにドヤ顔と共にサムズアップで返す。
一体、何を考えたと言うのだろうか。
多分、ロクでもない事だ。
「そんで、先輩はどうなんだよ」
このままでは彼女のペースだ。
話題を変えなければ。
しかし、話題の振り方を間違えていた。
「あいつがいなくなって大丈夫なのかよ」
レキの顔が少し曇る。
しまった、と思うのが遅過ぎた。
あいつとは無論ギンロウの事である。
ギンロウは姿形見せない、詰まる所そう言う事なのだ。
「ゴメン、先輩。 湿っぽい話をするつもり無かったんだ」
だが、レキはーー。
「ま、いなくなった奴の事ばかり考えてもね」
と、フッと笑う。
「ドライ過ぎやしないか?」
無理してるのでは、とセツナは悪く思っていたが、彼女はあっけらかんと言い放つ。
「信じてるって言った方が近いな」
便りが無いのは良い便り。
即ち何も遺さなかったのでは無く、何も残さなかったのだ。
この2つは似てるようで大きく違う。
痕跡を残さなかったから生存を信じると言う事だ。
「大体、簡単にあいつがくたばるものかよ」
軽口だが、なんと希望に満ちた言葉なのだろう。
セツナは彼女の強さを羨ましく思った。
無限に信じるならば、それはきっと叶う。
「ま、あいつが帰ってくるまでは少年がヒーローでも我慢するとしよう」
「先輩、お前もか!」
まったりと極秘事項を言うレキに思わず力が抜ける。
隠しているつもりであったのだが、一体、どれだけバレバレなのだろう。
とりあえずその事項は何処まで広がっているんだろうか?
「私は偶然知ってたけど。 少年は分かりやすいからな、自力でそれに辿り着く人とかいるんじゃないか?」
それにはもう一人の先輩の顔にピンとくる。
前回の戦いの後、もう一人の先輩であるケイには体は正体ついて知っている様子であったため口を噤んで貰う事を了解してもらっていた。
ナユタは言動はアレだが、彼女は彼女で素直なので案外信用は出来る。
以上の点によりナユタとケイは言いふらす心配は無いと言えるだろうが、目の前の人物はどうだろう。
彼女は本来、セツナの天敵とも言える鬼畜眼鏡先輩だ。
「黙って欲しくばーーさぁ、ここで私と取り引きだよ」
「素直に尊敬さえさせてくれんのか、この鬼畜眼鏡めが!」
「それはそれ、これはこれなのだよ、少年!」
一瞬でも彼女を羨ましく思った自分がバカだった。
普通の先輩後輩の関係では気持ち悪い。
火花がバチリと弾ける関係が丁度いいのかもしれない。
「お茶の準備出来たよ?」
いつの間にか近くにいたナユタは御盆を近くに置き、バーディと共にテキパキお茶と一口羊羹を配る。
羊羹について、セツナくんへの差し入れだったの、と語っているが、そも最初の趣旨から大きく離れているような気がしないでもない。
彼女の乱入はある意味助かった。
乱入されなければレキのペースにまんまと乗せられていただろう。
そうして被害を受けるのはこちら側だ。
「ねねっ、何話してたの?」
ナユタはちょこんと座りながらもズズッとセツナに詰め寄る。
何か面白い話をしてると思ったのだろう。
その証拠に目がキラキラしている。
セツナはため息1つで答える。
「ナユタが面白がるような話は無いさ。 な、先輩?」
ナユタが知っている話であるため、隠し立てする必要はないが、セツナは説明が面倒に思ったのだ。
セツナがレキに視線を送る。
彼女はお茶を一口すすり答える。
「そうだな、少年。 ーー後で大人の話と洒落込もうじゃないか?」
「お、おとなの……!?」
ナユタがボンっと音を立てるように顔を真っ赤にして黙る。
一体何を想像したのだ、とセツナがジトりとナユタ見る。
彼女は小さく震えていた。
「セ、セツナくんには……まだ早いのっ!」
グイッと掴まれ引っ張られる。
まさに声をあげる間さえなく、彼女の両腕と身体の間に挟まれる。
丁度、小さな子供がお気に入りの人形を両手一杯で大事そうに抱きかかえるような形だ。
「い、息がッ……!」
セツナは慌てて逃れようともがくが無理だった。
単純に判断が遅かったのだ。
押さえつける力と柔らかさは最強の暴力だ。
もがけばもがくほどに力が込められる。
「セツナくんはまだ慌てなくていーの!」
彼の顔は気恥ずかしくてなのか、照れなのか、はたまた単純に締まっているだけなのか、ともかく真っ赤であった。
意識が段々遠のく。
「……ふ、ふざけ…まえ……はな、せ」
「わたしと一緒にゆっくりと大人の階段登っていこ?」
かなり大胆な事を言っている筈なのだが、2人とも正確に理解できてないだろう。
かたや天然記念物の娘、かたや意識薄弱の少年。
色んな意味で危険だ。
「ナ、ナユタ、そこまでにしてくれないだろうか」
バーディがナユタの肩を叩く。
「ーーハッ、一体わたしは何を……」
我に返ると同時に両手の力が緩まる。
ゴトっと音を立て、重いものが滑り落ちた。
おそるおそる下を見る。
「キャア、セツナくんっ!?」
「衛生兵! 衛生兵っ!」
お約束通りセツナが気を失って倒れていた。
息が出来なくて気を失ったのか、痛みで気を失ったのか、気恥ずかしさ爆発で気を失ったのか、それは何にせよ分からない。
だが1つだけ言えるのは、彼の名誉のためにそれを明らかにしないでほしい、と言うことだけだ。
「はい、御馳走様」
終始、蚊帳の外から見れたのはレキだけだ。
ニヨニヨしながら顔を背ける。
全くもってこの2人はからかい甲斐ある。
寂しい気持ちにすらさせる暇さえ与えてくれない。
ーー私は心に宝物を貰った。
この宝物は一輪の花のように簡単に消えやしない。
生き続ける限り萌え盛る花束だ。
ある日突然、宝物が我楽多に変わることがあるかもしれない。
けど、心に宿った宝物に嘘はない。
だから、どうかここにいない宝物の分まで笑っていよう。
何処かにいる彼のために。
「ーーだから、早く来てもいいんだぞ」
レキは希望に似た祈りを胸に青い空を仰ぎ見た。
夏はまだ長い。




