後日談 王妃フラヴィアの妖精レシピ
その日、クラウスがフラヴィアの部屋に入ると、彼女はさっと本のようなものを後ろ手に隠した。頬が赤い。
クラウスはなんだか面白くなくて、彼女が隠したものを覗こうとし、彼女がまた隠し、ーーしばらく攻防を続けていたが、ふと口づけをしてみたら、フラヴィアが真っ赤になって手を離した。
コンソールデスクの上に、美しい装丁の本が落ちた。
「フラヴィア王妃の妖精レシピ……?」
本のタイトルには、そう書かれていた。
「ーーわたくしのものよ」
フラヴィアはぷりぷりと怒って、クラウスの手から本を取り上げた。
「その訳者の名前、ーー聞き覚えがあるな。そうだ、大陸から来た令嬢の名だ」
一年ほど前に、フラヴィアが突然妖精の森に入り、数人を連れて戻ってきたことがあった。
その中の一人、他国の公爵令嬢は魔力が欠乏し、危ない状態で、ーー確か、その娘がそのような名だったとクラウスは記憶している。
「そうか、彼女がそうだったのか……」
クラウスは頷く。フラヴィアはふいと首を横に向けた。
その頬には赤みが差していて、表情も豊かで、あの頃のことを思うと、安心する。
もともとあまり表情のなかったフラヴィアから、一切の感情が消えたかのようになってしまったあの時期。
それは、一人目の王子を産んで、しばらく経ったころのことだった。
「アリア? ーー入るよ」
クラウスは、続き部屋になっているフラヴィアの私室へと入った。
カーテンは閉ざされたままで、朝だというのに部屋の中はずいぶん暗い。フラヴィアは、薄い夜着のまま、ベッドに伏せていた。
シーツの上に、月の光のような淡い金髪が広がっている。華奢な体は小刻みに震えており、彼女は答えなかった。
勝ち気な女性だ。涙声を聞かれたくないのだろう。クラウスはそう悟り、そっと彼女の横に腰を下ろした。
フラヴィアの母であったチェリー、ーー妖精エカチェリナリアが死んだ。
妖精の森を出たことは、想像以上に彼女の寿命を削っていた。
つがいを失ってなお、少女のようにみずみずしかった肌は、ほんの数年の間に一気に皺が増え、長老妖精のように老いてしまった。
フラヴィアはチェリーの前ではいつも気丈に振る舞っていたが、夜になるとこうして突っ伏して、一人涙を落としていることを、クラウスは知っている。
ここ最近、チェリーはもうほとんど動くこともなく、その姿は枯れ木のようでさえあった。
そうして最後は、ぱっと灯りを消すように、何も残さずに消えてしまったのだった。
あのときのフラヴィアの表情を、クラウスは生涯忘れないだろうと思った。
傲慢で氷のような冷たさを持っていた彼女。勝ち気でいつも気丈な彼女。
でも、あの瞬間は、ーーなにも残らないなどと思いもしなかったのだろう、幼い子どものようにぽかんと口を開けて、自らの足場ががらがらと崩れていくような不安げな顔をしていた。
クラウスはもどかしかった。無骨で生真面目な彼には、気の利いた言葉など思いつかなかったのだ。
ただそばに居てやることしかできない。
それから三日ほど、フラヴィアは沈み込んでいたが、四日目の朝、いつもと寸分違わぬ表情で私室から出てきた。
それからは部屋にこもることも落ち込むこともなく、ただ、淡々と公務を続けていた。
いや、いつもより無理をして詰め込んでいるように思えた。
公務だけではない。クラウスがそろそろ寝ようと声をかけても、なにかに取り憑かれるかのようにずっとデスクに向かってなにかを書き付けていた。
そうして案の定、フラヴィアは倒れてしまった。
「君は、なんでも自分で背負い込みすぎるんだ」
クラウスは、青白い顔で横たわるフラヴィアの手を握った。
その手はしっとりと冷たく、まるで陶器のようで、クラウスまで不安になるような温度であった。
「ーーおい、アリア」
小さな少年の妖精が窓から入ってきたのは、フラヴィアがなにか言いかけたそのときだった。
「これを持ってきたんだ」
少年が差し出したのは、小さな宝珠。それはエカチェリナリアの瞳と同じ色をしていた。
「これは?」
「ーー妖精はふつう、死んだら一度、生まれた場所に還るんだ。細かい条件はいろいろあるが、寿命を全うするのが条件。それと誰かに想いを伝えたいようなとき、だったかな?
それでさ、妖精の森に、この実がなったから持ってきたんだよ。
チェリーの家族はあんただけだろう? 要するに、形見みたいなもんだ」
少年が出て行ったあと、フラヴィアは恐る恐る宝珠に触れた。
すると、それは蛍のように淡く発光し、ーーそれから、小さな蝶のようなものが飛び回りはじめた。
「フラヴィアリア、あたしのかわいい娘」
声は、光の蝶から聞こえた。フラヴィアははっとして口元を押さえる。
「ーーいつか、どんな形になるかはわからないけれど、あんたに会いに戻ってくるからね。そのときはちゃんと、あたしだって気がつくのよ?」
「チェリーだとわかっていたから、助けたのか?」
クラウスは尋ねた。
遠い異国の公爵令嬢は、第一王子とそう年の変わらぬ少女だった。他国に拐かされてきたが、仲間とともに逃げ出し、妖精の森に迷い込んだのだ。
フラヴィアは首を振る。
「なぜだかあの子を見ているとざわざわして……。
最初はむしろ、あの忌々しいモニカ・バルベリに似ているのかと思っていたのだけれど。ーー今でも確証はないのよ」
彼女は恥ずかしげに瞳を伏せた。
「チェリーから料理を教わっていた君が、今度は伝えている。不思議なめぐり合わせだな」
フラヴィアは頷き、遠い空を眺めた。
いつか彼女がまた会いに来てくれるといい。フラヴィアの表情を見たクラウスは、静かに祈りを捧げるのであった。
☆『はずれ王子の初恋』(完結済)とリンクしています。
☆新作色々書きました。




