第四十話 ふたつめの終わり
炎は雨のように降り注いだ。上からではなく、前方から。それを横っ飛びで避けた後、私は玉座の間の中へと駆け入った。
――ゴウン!!
大量の炎によって出入口の扉が破壊された音がした。
走る私の跡を炎の塊が追いかけてくる。それを右に左にと大きく振ってかわす。
ヒナと違い、魔神は大雑把な性格らしい。9つの炎を交互に放ってきたヒナと違い、魔神は一度に全部放ってくる。そのため一塊になった炎は人間大ほどの大きさがあるが、一度避ければ次までは少し間が空く。
炎を三回避けた後、魔神の攻撃は足元から迫ってきた。
魔神から私に向かって一直線に、透明な水のような輝きの光が這い寄ってくる。思わず避けた先で、それはガチガチに凍りついた。冷ややかな水気の多い空気が漂ってくる、が――なんだあれは?
『氷で、足下を凍りつかせてあげようと思ったのに』
魔神が残念そうに呟くが、意味が分からない。
――ビキビキビキビキビキ!!
透明な水のような固いそれ。エランでは作れない最上質の硝子のようなものが床と壁とを張りつかせる。冷ややかな空気が白く漂って見えるのが、なんとも気味が悪い。
それが合計三回。
続いて魔神から放たれたのは小さな竜巻だった。
炎や硝子もどきと違い、避けても避けても追ってくる。ひとたび肌に触れたらどうなるのか、想像がつくだけに恐ろしい。砂嵐に巻きこまれたように粉みじんになるのではないかと思いながら、硝子もどきの横を通り過ぎて避ける。
――ビシシシシシシシ!!!
「ひいぃいいいいいい!?」
竜巻によって砕かれた硝子もどきが周囲に飛び散る。一つ一つが鋭利な刃物のように見えるそれが、私ばかりか魔神にまで飛んでくる。まさかこれまで複数回くるかと魔神を見やるが、どうやらこれは一回だけの技らしい。
右に左に避けるのは自殺行為だ。どこまでも追ってくる竜巻に、右も左もない。
「えぇい!」
アラム先輩が落とした二本の棒を拾い上げ、私はそれを竜巻に向かって投げた。
利き手でなかったため狙いは外したが、目論見通り棒を粉みじんにしたところで竜巻は止んだ。
風の次は、――予想通りというべきか。『砂人形』だった。
『砂人形』は脆いと知っている。逃げてばかりだった私は、攻めに転じた。近づいてくる『砂人形』を拳で壊し、あるいは蹴りつける。ただ、壊れはするもののすぐに再生するのが『砂人形』の取り柄である。再生のたびに数を増やし、玉座の間はあっというまに『砂人形』だらけになった。私の周囲は完全に囲まれている。
『さあ、逃げられない。どうする?』
楽しそうな魔神の声がするが、私はまったく焦ってはいなかった。
『砂人形』は脆い。武器を持っていない『砂人形』など、不気味なだけでさほど害はない。
『砂人形』のせいで見えない魔神に対して、私は叫んだ。
「あなたは、何がしたいんですか、魔神!
百歩譲って、私をここから排除したいのは構いません。アラム先輩とダーラー様についても納得しましょう。ですが、せっかく見つけた主人は玉座に座ってるだけで意識がなく、4人の仲間は床で倒れてる。そんな……、誰とも話せない状況で、あなた本当に満足ですか!?」
『……』
魔神の返答は遅かった。
『……したいことなんて、ない』
「え」
『魔神は主人の言うことを叶えていれば良かった。それだけが存在意義で、それ以上のことは求められない。誰かの役に立てれば、それ以上何も望まなかった』
押し殺した声で魔神は答える。
「ま、待ってください。それじゃあ、――あなたのために願いをかけてくれる人を待っていた、っていうのは?あなたのためであれば良くて、現れた主人に対して望むことはないんですか?」
『もう黙って』
魔神は会話を拒絶するように言った。
『わたしと同じ顔で、わたしを責めないで』
次の瞬間、『砂人形』が倒壊した。
――ドドドドドドドドドドドドッッッッ…………
周囲を『砂人形』に囲まれていた、つい先ほどまで私がいた場所が砂で埋め尽くされた。
いかに脆い砂人形だからといって、10体以上が一度に砂と化したら逃げようがない。また、砂であるからして――、完全に埋もれてしまった場合、這い上がることはできないだろう。
魔神の視界から逃れた時点で、死角になる方向に抜け出していなければ、私の末路がそうなっていたことは想像に難くなかった。
魔神は驚いたようだった。
『どうして、無事?』
「そりゃ、『砂人形』に囲まれたら次はこうくるだろうと思ったからですよ。
魔神、あなたは強いかもしれないですけど戦い慣れてはいないんでしょう。だから攻撃が単純なんです」
『そう――。なら、次は……』
次は、複数属性の同時攻撃。そう直感しながら私が構えをとった時だった。
――ドスッ……。
『え……?』
魔神の背に宝剣が突き刺さっている。
戸惑った声を上げた魔神が、慌てたように振り返ろうとして、――できずに地面に倒れこんだ。
床に積もった砂の上に落ち、どさりと音を立てる。
「よくも、追い払ってくれたものだ。この王座は私の物だろうがッ……!」
怒りに震えた目で魔神を睨んでいるのはダーラー様だった。その手に宝剣はない。今しがた投げたのが彼だというのは間違いなかった。
「ああ、くそ、間に合わなかった!」
焦りを浮かべた顔で玉座の間に駆けこんできたアラム先輩が、取り出した縄でダーラー様を引っ掴む。
どこに隠していたのか知らないが、見慣れた捕縛用の縄だ。
武器を手放したダーラー様は、ジタバタと抵抗していたが、さすがに縄から逃げ出すことはできなかった。
□ ◆ □
説明を求める私の目に、アラム先輩が口早に答える。
「前庭に飛ばされただろ。こいつ、俺と戦うより魔神に八つ当たりしにすぐに走り出しちまって……!」
まっすぐ戻って来た結果、このタイミングだったということか。
それは理解した。――が。
背を宝剣に突き刺された人物を助ける手段など、私は知らない。
「……ロクサーナはまだ、いました?」
「いや。前庭にはもう誰の姿もなかった。……つーか、え!?ロクサーナも来てるのか!?」
そういやアラム先輩には誰が連れてこられたかの詳細までは話していなかった。レイリーがいるって知ったら驚いたはずだが、とりあえずそれは後回しだ。
『あ、あ、あ、ああ……!』
魔神は助けを求めるかのように手を伸ばした。何が起きているのかは、魔法に疎い私にも分かる。
宝剣に貫かれた背から、赤い光が漏れ出しているのだ。
それはすべて玉座に座るファルの元へと注がれている。
『だ、ダメ。ダメ。抜ける。抜けていく……!』
魔神から魔力が失われたら、どうなってしまうのだろう。一瞬脳裏を過ぎったのは消えてしまったルーズベフの姿だった。
「と、とにかく、これだけでもっ」
倒れた魔神に近寄って、背に刺さった宝剣を引き抜く。
見かけ通り重い曲刀だった。通常の曲刀よりも若干大振りの刃で、その鋭さも段違いだ。
だが赤い光は止まらない。
どんどん魔力が失われている様子の魔神に、かける言葉さえ浮かばない。
「ま、魔神!なんとかできないんですか!?傷口をふさぐなりなんなり、あなたは神なんでしょう!?」
『だ、だって。わたしは、誰かの願いでしか……』
「あなた自身の願い事にできるでしょう!こんなところで消滅して、いいんですか、本当に!」
悲鳴を上げる私自身、何が言いたいのかよく分からない。
魔神を助ける道理などないし、つい先ほどまで攻撃を受けていた相手に対して情をかける理由もないはずだ。
『どうして。どうして。どうして……?』
「そんな疑問は助かってからにしてください!」
宝剣を放り投げ、私は片腕の袖を裂いてから魔神の傷口に手を触れた。
別に傷を抉ろうとかトドメを刺そうとしたわけじゃない。包帯代わりになるものがなかったので、せめて布で巻いたらマシかと思ったのだ。ロクサーナと違い、私は治療師としての勉強はしていない。そのため、応急手当なんて偉そうに言えるものではない。その上片腕しか使えないため、布を巻くのは容易ではなかった。
だがそこまでせずとも布で覆った瞬間、光は止んだ。
魔神が気絶したのだ。
どさりと床に倒れこんだ魔神の顔色は真っ白で、血の気が引いた病人のようにしか見えない。
魔力が抜け出た今、自然治癒するものかどうかも分からない。事情を知っているかもしれないしもべたちもまた、玉座の周りで倒れている状況なのだ。
そんな中、魔神の魔力がどうなったのかの答えが目の前に現れた。
ゆっくりと玉座で顔を上げたのはファルだった。
その双眸は赤く、どこか焦点が合っていないようにも見える。
彼は頭痛を抑えるかのように両手で頭を抱え、小さな、小さな声でうめき声を上げた。
【あがっ……ぐぁあああああああっ……!!痛、あぁっ……!!】
声が、おかしい。
圧のある声は、ファルのものを何倍も迫力のあるものへと変えていた。
ビリビリと空気を震わせる振動は、魔神のそばにいた私の頭にまで響いてくる。
思わず頭を抱えて座りこんでしまった私に、さらに追い打ちがかかった。
【あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!】
聞いている方が、辛い。
胸をかきむしるような声で叫び、ファルは玉座の上でのけぞった。
赤い光が矢のように放たれた。四方に飛んで行った光が、あろうことかそのまま壁を突き抜けていく。
【あ……あぁあああああああああああああああああああああああああああッッ!】
再び発せられた叫び声と共に、放たれた赤い光の矢。それらは今度もまた壁を貫き――天井に穴を空けた。
ガラガラガラッッ……。
支えを失った壁の欠片が天井からパラパラガラガラと降ってくる。
玉座の間は中央にあったから、直接はぶつかってこなかったが、はるか高い位置にある天井が頭にでも当たれば即死である。
「どう、なって。ファル……?」
「暴走してやがる。おそらく、あれだ、魔神の魔力とやらだ。ファルはもともと魔力の扱い方なんて知らないからな。つーか、そんなもの知ってる人間はいるわけないが。そのあまりに多い魔力が流れこんできたせいでコントロール不能になってるんだ」
私の疑問に答えをくれたのはアラム先輩だった。もっとも彼はダーラー様を抑えるのに精一杯で、その場から逃げることもできずにいた。
「そんな。元に戻す方法は……」
「できそうなやつが、こぞって気絶してる」
チラッとアラム先輩は手元を見下ろした。縄でぐるぐる巻きにしたダーラー様を。
「もしかしたら……何かできるかもしれないがダーラー様はせっかく捕縛したんで不可だ!」
魔神は気絶してる。4人のしもべも意識が戻っていない。
だが迷う時間はなさそうだった。
【ああああああああああああああああああああああ!!!!!!!】
ひときわ大きな悲鳴を上げて、ファルが両手で頭を抱え込んだ。
放たれた赤い光が全面に広がるのを見て、私は魔神のそばに身を伏せる。
ファルが放った光はそのまま玉座の間の頭上にあるものをすべて吹き飛ばしてしまった。
ガラガラガラガラガラ…………
本宮殿の外壁は金でできている。金色の塗装なのか、あるいは金そのものなのかは不明だったが、今まさにそれが瓦礫のように崩れていくのが見えた。
玉座の間の壁を金色で埋めようとしているかのようにドサドサと降り積もる外壁。
また、瓦礫の落下が生み出した埃が舞い上がり、それ以上のものは目に入ってこなかった。
【――ここは、】
やがて埃が晴れていく中、玉座の上に座っている男が口を開いた。
その双眸は赤いまま、彼は立ち上がった。
【――オレは、――誰、だ】
赤い双眸のファルは、両手を見下ろしてわなわなと震えた。
【ここは――、どこ、だ――!!】
吼えた。その瞬間、赤い光が辺りを破壊していく。
何しろこの赤い光は矢のように放たれ、壁だろうとなんだろうと当たった物体を貫いてしまうのだ。
一か所程度ならば隙間風と思うことができるだろうが、二、三と増えれば話が違う。穴同士がつながり、間にヒビが入り、壁がガラガラと崩れていく。一度崩れたら連鎖がはじまる。瞬く間に玉座の間には外壁がなくなった。
破壊が行われている間、私は魔神を抱えて身を伏せていた。迂闊に光にぶつかってしまえば、どうなるか分からないのだから仕方がない。
アラム先輩もまた、ダーラー様を縄で抑えこんだまま床に伏せている。
玉座の周りに倒れている4人のしもべは元より倒れていたため無事だった。
【――ラーダ】
え。
名を呼ばれ、私は思わず顔を上げた。
【ラーダ……!!】
ファルが呼んでいる。自分の名前さえ忘れている様子だったのに、誰かを探すように周囲を見回して、私の名を呼んでいる。
力ある声に呼ばれ、私の身体がビクリと反応を見せているのが分かる。恐怖しているか、あるいは別の感情なのか、それはよく分からなかった。
【ラーダ、どこにいる――!】
天井が綺麗に開いてしまった玉座の間。崩れた壁にチラリと視線を向けてから、私は立ち上がることにした。
アラム先輩が非難するような声を囁くのが聞こえたが、聞こえなかったフリをした。
「ここにいます。……ファル」
赤い双眸が私を見つめた。
【あ……あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!】
ひときわ甲高い声と共に、ファルが頭を抱えるのが分かった。
全面に放射された赤い光が私を貫いた。
□ ◆ □
赤い光が私を貫く。
幾筋もの光によって串刺しになった私は、それでも歩みを止めなかった。
身体を貫いた光のせいだろうか、目の前の情景がおかしくなっていく。
赤い光が、何かを叫んでいる。
【壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ】
【願え願え願え】
【壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ】
【願え願え願え】
【壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ】
【願え願え】
【壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ】
【願え願え】
【壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ】
【願え願え】
【壊せ】
【願え】
【壊せ】
【願え】
「くうっ……」
身体の中身がごっそり持っていかれているような虚脱感。足元がふらついてバランスが保てない。
右腕から伝わる痛みのせいで、重石をつけているような気分だ。
ガクン、ガクンと引っ張られるような感覚が全身を襲う。
【――!】
ファルが声なき悲鳴を上げるたび、赤い光が漏れ出していく。
――ボコッ。ガラガラガラ……。ボコッボコッ。ガラガラガラ……。
玉座の間の床が抜ける。丸くくり抜いたかのように穴が開き、そこから瓦礫が落下していくのが分かった。
徐々に足場が小さくなっていく。
――ボコッ。ガラガラガラ……。
ヒッと声なき悲鳴を上げた。
足下の床がなくなったのだ。とっさにジャンプして免れたが、あやうく巻きこまれて落下するところだった。前転の要領で転がり、なんとか起き上がる。空いた穴から見えてしまった階下は、どこまでも遠い。
「――?」
違う。階下じゃないのだ。穴はそのまま突き抜けて、地面まで続いている。
黄金宮は今、上空に浮かび上がっているのだから、地上ははるか彼方にある。落下したら、……確実に死ぬ。
【壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ】
【願え願え願え】
再び赤い光が胸を貫き、気味の悪い叫び声が頭の中に響き渡った。
頭を抱えたくなるのを必死に抑えて、私は進んだ。
この声は目の前で苦しんでいるファルの頭の中に響いている声だ。誰のものとも分からない圧力のある響きで、ファルが何も考えられないようにしている。
赤い光と共に噴き出して、周囲にまで影響を与えているんだろう。
「ファル!」
赤い双眸は、焦点が合っているのか分からない。
だが近づいていく私に向けられているのは間違いなく、ファルが『ラーダ』を認識したのは確かだった。
「ファル、ご自分の状況が分かりますか?
あなたはおそらく、魔神の集めた魔力が注がれて……、いえ、逆流している状態。
通常であれば魔神に行くはずの魔力が、あなたに宿ってしまっているために、おかしくなっているんです」
【ラーダ……】
「そうです。私の名前はラーダ。あなたの友人です」
よろよろと近づいていく私に、玉座で立ち上がっていたファルは身構えた。武器もなしに戦おうとしたわけではないだろうから、本能的なものかもしれない。私を警戒しているのだ。
「覚えていませんか?」
ぴたりと足を止めて私は尋ねる。
「『魔法のランプ』を探して、あなたは王宮から港街に下りてきた」
ファルは両手で頭をかきむしり、服を引きちぎらんばかりに握りしめて、私の声を聞こうとしていたが。
【まほうの、ラン、プ……!】
そのフレーズを聞いたとたん、彼は再び悲鳴を上げた。
【あぐぅッ!あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!】
その赤い光はひときわ大きく広がった。
□ ◆ □
本宮殿が崩れ去った。
砂でできた宮殿が元の砂に戻るかのような呆気なさで、黄金でできた宮殿は崩れた。
赤い光に満たされたその場は、他の色が何一つなくなった。
地面に落下していく感覚は、思いのほか恐ろしくはなかった。
床が崩れるのと同時に、とっくの昔に落下しはじめていたのかもしれない。
衝撃はまったくといっていいほど、なかった。
空を飛んでいたはずの黄金の都はいつのまにか地面に落ちてしまっていたらしい。
見渡す限り砂ばかりということは、そういうことだろう。
空に広がるのは夕暮れの赤い輝き。砂を赤く照らす太陽だ。ファルが放った赤い光も、太陽までも壊すことはできなかったのだろう。
もうまもなく空は日暮れ色の紫色に染まり、やがて夜がやってくる。
私たちがいるのは玉座の間だった場所だ。
今は床と、中央に残る玉座だけで、壁も天井も屋根もない。そればかりか、前庭もそれを囲んでいた高い壁もなくなっていた。
砂ばかりが目につく場所で、ファルは頭を抱えたまま、その足下には4人のしもべが横になったまま。
私の他にはダーラー様を抑えこんで床に伏せていたアラム先輩がいたけれど、それ以外の生命は何一つなかった。
玉座の間にはあちこち穴が空いていて、そこからは砂が見えていた。
【来るな、ラーダ。……抑えきれない】
苦しげな声でファルが呟く。
「私のことが分かるんですね。あなた自身のことは、どうですか」
私の問いに、ファルは首を横に振る。
【記憶の混濁は、晴れている。……オレはファルザード。エランの王子。……ここは黄金宮、だったはずの場所】
ゆっくりと、ゆっくりと私は彼に近づいていく。
【ダメだと、言うのに!】
ファルの声は悲鳴だった。
再びあたりに広がった赤い光が、一本、二本と私の胸に突き刺さる。
ガクンと足元がもつれて倒れこむ。
【ラーダッ!!!】
ファルの悲鳴が、再び赤い光の矢となって降り注いだ。
床に手をつこうとして失敗し、私は顔から地面に落ちた。ずしゃりと砂の音がして、口の中に砂の味が広がる。
右腕が使い物にならないせいだ。使い慣れていない左腕は、身体を支えるほど力強くなかった。
パッパッと顔についた砂だけを払い、私は床に膝をついて起き上がる。
「大丈夫です。……あなたの症状は魔力が暴走しているため。ならば、それを吐き出してしまった方がきっといい。抑えるのではなく、方向を変えて――」
目の前が暗くなってきた。言葉を紡ぎながら、私はのろのろと歩きはじめる。
あと少しで、玉座だ。
【止め……。止めろ、ラーダ。歩くな、動くな!床に伏せていてくれ……っ!!】
じゃり、じゃりと砂が音を立てる。
【アラム!彼女を止めろっ!このままじゃ何が起こるか……っ!】
悲鳴が聞こえるが、ファルの姿はもう見えなかった。
右腕の痛みが身体を侵していく。重石をつけているようなもので、まっすぐ進むこともできずにいた。目の前が暗くなっていくのは、血の気が失せているからだと思うのだが、なぜだろう。私は火傷を負っただけで、失血したわけではないのに。
「焦らなくて、いいです」
ようやくたどり着いた先で、私はどさりと身体を預けた。
本当は両腕を広げて抱きしめてあげたかったんだけど、そこまではできなかった。動かない右腕をぶらんとさせて、暗い視界の中にぼんやりとした人影を映す。棒立ちになっているファルを左手だけで抱きしめる。
ポン、ポンと左手でファルの背を撫で、私は彼の耳元に伝える。
「あなたは頼りない王子なんかじゃない。最初に抱いた願いを忘れないで――……」
美しい月夜の晩に、彼は言った。
――エランの国が乱れるのは嫌なんだ。……おかしいと思うか?
なんと当たり前のことを言うのだろうと、私とアラム先輩は笑ったものだ。
「あなたはエランを背負っている。その責任はこの先もずっと回避できない。
私の存在はあなたの時代のためにある。今なら分かります。私が生まれたのは、たぶん、あなたがいたからなんです」
私の言葉に、ファルがびくりと震えるのが分かった。
かつて魔神は言った。
――『はるか昔、姫がわたしに望んだから。新しい世の中を見せて欲しいと。その時が来たら生まれるようにとしておいた。』
――『あなたはただの人間だから、特別な力は何一つない。』
国王陛下の御代では、女性の社会進出は限定的なものだった。
彼は変革を望んではいたが、彼自身は後宮に多くの女性を囲っていたし、国軍に採用される女性はごく少数に限られる。
王宮の女官たちと違い、私やロクサーナには実は婚姻の自由がない。婚姻を望むのは、同時に国軍を退職するのと同義なのだ。
結婚しても働き続けることのできる女官たちとはそこが違う。
未来に現れるはずの多くの女性たちのため、私やロクサーナは、生涯独身の覚悟で仕事をしている。
だが、ファルが王位につく時代になったら変わるだろうという希望があった。
一夫一妻制度の世の中に合わせるため、エランの王族でありながら複数の妻を得ることさえ放棄している王子。
女性進出に熱心なペテルセアから、王妃を娶るかもしれない王子。彼が王となるころには、女性に選択肢を与えるということが普通の世の中になるだろうという期待だ。
魔神の言うように、私が”新しい時代”を見届けるために生まれたのであれば。その時はもう、すぐそこにある。
【ラーダっ!ラーダァアっ!!】
左手の感覚が消えていく。ファルの背を撫でていた手から力が抜けた。
どさりと床に倒れる音が聞こえる。
倒れたのが私自身だということを、もちろん私は知っていた。




