第三十八話 戦いのはじまり
本宮殿の外壁に張りついて、私たちは息をひそめていた。
砂が積もっていたことが原因だと思うのだが、本宮殿の内側ではなく外側に出てしまったのだ。
その結果ダーラー様と魔神、そしてキルスのやりとりを目撃することができたのだから、何が幸いするか分からない。
ダーラー様が美味しそうな食事を食べている間もずっと、我々は様子をうかがっていた。
もちろんその間に、交代でロープ代わりになるものがないかを探しに行ったりもしていた。
遠回りをして一度前庭に戻れば、確実に中には入れる。だが、その間にダーラー様の姿を見失った場合、今度こそどうしようもなかったからだ。
結論として、ロープのようなものは見つからなかった。だが、レイリーから受け取っていた棒を使い、アラム先輩が活路を見出した。外壁にはいくつか突起のような場所があるので、そこまで棒を下ろし、誰かが上で支え、他の者がそれを伝って降りるのである。もちろん、最後の人物が降りる時には下にいる二人が棒を支えるので、ちょっと面倒だったけど。
支えもなく外壁を下りようとした場合、二度と目覚めないことになりかねないので仕方がない。
外壁を辿って下りるのは思った以上に気疲れするものだった。吹きすさぶ風によってあやうく落下しそうにもなる。
ようやく床に辿りついた時、魔神とキルスの契約は果たされた。
□ ◆ □
トン、とようやく私たちが床にたどり着いたのはその時だった。
ファルとアラム先輩はすぐさま王座の間に駆けこんでいったが、玉座の間の光景を見ていた私は少し遅れた。
【魔神、無駄話はほどほどにしたまえ。――邪魔者が来たぞ】
玉座から立ち上がりかけていたダーラー様は機嫌が悪かった。
黄金宮が浮上している様を見ようと興奮していたのを、魔神とキルスによるやりとりで邪魔されたからだろう。
【排除したまえ】
ダーラー様がそう告げた瞬間、魔神が光を放った。
駆けこんでいたファルとアラム先輩とが、ピタリと動きを止める。全力で走り寄ろうとしたところをまるで金縛りを受けているかのように拘束された。
港街の王宮でダーラー様が王となった時、取り押さえようとした軍人たちは無力化された、というようなことを説明されていた。それがこの現象だろうと容易に想像つく。
「ダーラー……!」
「く、ぐ……」
身動きできずにいるファルが、レイリーから渡された棒を手にしたアラム先輩が、拘束を解こうともがいている。
苦しげな表情を見ているのは心苦しかったが、私はそこに割りこんだりはしなかった。
【誰かと思えばファルザード殿下ではないか。たった二人で黄金宮に乗りこんできたとでも?
――これは滑稽だ!ふぁっはっはっはははは!】
ダーラー様は耐えきれなくなったように笑い出した。
【いいだろう、歓迎しよう。おまえたちは我が宮殿を訪れた最初の客だ。私に逆らった者がどうなるのか、エランの民に教えてやろうではないか。血を流すのは本意ではないが、首を落として旧王宮に届けようか?それとも最初はやはり指かね。徐々に部位を増やして恐怖を煽る方が美しかろう】
物陰に隠れて耳をふさぐ。ダーラー様の力は、その声だ。聞こえなければ影響を受けないかどうかを確認していたのである。耳をふさいだだけでは声を完全に止められないようで、今もビリビリと圧のある響きが私の中に食い込んでこようとしている。
無血のクーデターを成功させた男とも思えない言葉で、ダーラー様は笑った。
【他に隠れている者はいるかね?】
ぎくり。
心臓が激しく跳ねた。ダーラー様が一言「出てこい」と言えば、それで終わりなのだ。強制的に身体が従ってしまう。
私よりも動揺を見せたのはファルだった。
「何を言っている!殺すならば私から殺せ、ダーラー!」
「おーいー。そういうことを言うんじゃない、そこはしれっとシラを切るとこだろーが!真面目はいいが、もう少し腹芸もできるようになれ、ファル!」
アラム先輩が拘束されたままツッコミを入れた。
口が動くのか。それに、これまで魔神によって排除された者たちとは違い、二人は動きを止められているだけだ。亜空間とやらに放り入れられたりもしていない。
【魔神、しもべに調べさせろ。おそらくこいつらは囮だ、本隊は後ろに隠れているはず】
『承知した。――キルス』
魔神の言葉にキルスは不本意な表情を浮かべたが、文句を言いながらも玉座のそばを離れた。カツカツと足音を立てながら玉座の間の入り口へと近づいてくる。
この場所の出入り口は一つしかないから、隠れる者がいるとすれば、扉の向こうだと考えたのだろう。
……あれ?
私はそこではじめて、ダーラー様が港街の王宮にいた時との違いに気づいた。
腰に豪奢な宝剣を身に着けているため、そちらに目を奪われて気づかなかったのだ。
食事をしていた時に気づいていても良かったはずなのに。
彼、ランプを持っていない。
キルスはファルとアラム先輩の横を素通りしなかった。身動きできない二人を見比べた後、振り返って魔神に告げた。
「どっちがいいんだ?
見たところ、どっちも条件には合致してるぜ。過去にランプに触ったことがあり、独身の男だ」
【……は……?】
ダーラー様は何を言われているのか分からない、といった表情を浮かべた。
代わりに返答したのは魔神である。
『欲のある方がいい。余りある欲求を満たされずにいる者がいい。胸を焦がすほどの熱を秘めている男がいい。
魔神に声をかけられて、すぐさま願い事を言えるように、自分の願いを自覚していることが望ましい。
魔神を見て、願わずにはいられない者がいい。
相手を魔性と知りながら、神聖なる存在ではないと気づきながら、悪魔と契約するものだと思いながら、それでも道を踏み外すような男が望ましい』
「だ、そうだぜ。王子さん、アラム隊長。どっちでもいい、魔神の主人になる気はあるかい」
するりとキルスは懐からランプを取り出した。
「魔神のしもべは、魔神からランプを受け取っている。こいつは魔神としもべの間で連絡をとるための道具だが、これを使えるってことは、挑戦者がしもべと会ったことがあるってことになる。しもべが認めた者を、魔神は選んできたんだ」
楽しげな笑みをキルスは浮かべた。
「俺の場合は『水』だった。あの王様の場合、しもべは選んじゃいなかったが『土』の奴に会ったことがあったんで条件クリアだ。
旧都にいたバアさんが、どんなに願っても主人になれなかったのはそのせいさ。ランプだけ大事にしてたって無駄なんだ」
……チリッ、チリッ……
魔神が目を上げていた。その瞳が一瞬赤く染まってみえる。
「あんたら二人は、どっちも条件をクリアしてる」
「それじゃあ、まずはこの金縛りを解いてくれないかな?」
キルスの言葉に先に応えたのはアラム先輩だった。身動きできずにいるため、達者な口だけが言葉を放つ。
「あんたが主人になるかい?」
「……そうだな、条件しだいだ。願い事は3つだろう?そいつを叶えたら、次は俺たちのもう一人を選ぶんだろうから」
「察しがいいじゃねえか。その通りだ。ここに条件が揃ったのが二人もいるんだから、当然そうなる」
「なら単純に、順番の問題だろ?――ファル、悪いが先に使わせてもらうぞ」
「アラム……!?」
「分かってる」
短く言って、アラム先輩は魔神へと意識を向けた。
「どうだ、魔神のお嬢さん。俺では不足か?」
『不足などない。あなたのことはヒナが認めている。彼女のランプはもうないから、ヒナが選ぶ主人候補はあなたが最後』
魔神はそう言うと、赤い双眸で微笑んだ。
『願い事は3つ。さあ、どうぞ』
「それじゃあ、さっそく一つ目だ――」
【ふ、ふざけるな!私を無視して話を進める気か!?魔神の主人は私だろう!?】
金切り声を上げたのはダーラー様である。
あたりまえだ、つい先ほどまで圧倒的優位に笑っていたのに、目の前で新しい主人の話などはじめられては堪ったものではないだろう。
額に青筋を浮かべながら、ダーラー様は玉座から立ち上がったまま声を発した。
【痴れ者共が!私をあまり怒らせない方がいいぞ!
血を流したくないと思っていたが、それももう終いだ。新しい主人になど、なられてたまるものか。エランの玉座は私の物だ!】
腹の内から湧き上がるものを声に込めて、ダーラー様は叫んだ。美しい宝剣を抜き放ち、ファルに対して憎悪を向ける。
【王子!私は、貴様が大嫌いだ……!10年以上も彼女は……バハールは貴様の婚約者だった!それがどれほど忌まわしいことだったか、貴様に分かるか!?いつ貴様に盗られるかと震えながら何もできずにいた月日が、その絶望が!バハールの微笑みが貴様に向けられるたび、腸が煮えくり返る気分だった!貴様が唯一の王子でなかったら、直接手にかけてやったところだ……!!】
【サンジャルもサンジャルだ。バハールの心を惑わしながら、さりとて王子から奪おうとはしない。散々邪魔してやったが、バハールが楽しそうに笑うたび、どれほど悔しい思いだったか!それを、そばで見続けなくてはいけなかった私が、どれほど苦痛を味わってきたか!】
【死ね、王子!自害しろ!死んで私に詫びろ!その亡骸をバハールに見せてやろう!】
宝剣の切っ先をファルに向けて、ダーラー様は叫んだ。
彼としては当然、声の力によってファルが自害をはじめるはずだと考えたのだろう。
だがその瞬間は来なかった。
ファルが魔神の魔力によって金縛りにあっているからだ、と気付いたダーラーはそれを解かせようと魔神を見やった。
……チリッ……
魔神の瞳が赤い。彼女はまっすぐにアラムを見つめていた。
『その願い、聞き入れた』
ニヤリとアラム先輩は笑った。ダーラー様が叫び狂っている間、彼は願い事を口にしていたのだ。
一つ、ダーラー様の声を元に戻すこと。二つ、連れさらわれた女性たちを元の場所に返すこと。三つ、魔神による彼らの拘束を解くこと。
三つ目の願い事が叶った瞬間、ファルとアラム先輩は拘束を解かれて自由になった。
「ようやく再開だな、ダーラー様」
縄を解かれた証に片手をひらひら振った後、アラム先輩はダーラー様に向かって棒を構えた。
「俺は国家治安維持部隊港湾課、アラム隊隊長、アラム。貴殿を国家反逆罪の罪で、拘束する」
そこで終わっていれば、どれほど話は綺麗だったろう。
だが玉座の間の入り口で身を隠していた私は、それでは話が済まないことに気づいていた。
私がまだいるのだ。アラム先輩の二つ目の願いは叶っていない。
じゃりっと背後から聞こえた足音に、私は腰飾りを手に振り返った。
□ ◆ □
実は、ダーラー様の声が元に戻るまで姿を見せるなと指示されていた。『砂人形』のような伏兵に備えろと。
おそらくファルとアラム先輩は、あの声によって私が人質にとられることを恐れたんだろう。だったら王子であるファルも同様じゃないかと訴えてみたのだが、腕に覚えのある二人と私とでは、戦力差が大きい。
事務官である私は、鍛えていたってたかが知れている。ダーラー様は文武両道の方なので、国でも有数の戦士であるらしい。
玉座の間では、ダーラー様に飛び掛かったアラム先輩と、逆方向から踏み入ったファル、その双方を受け止めるダーラー様との間で戦闘がはじまっていた。
アラム先輩の武器は棒。そのリーチは剣よりも長い。振り回して打ち据えるだけではなく、突き出して槍のようにも振るう。動きはレイリーよりもはるかに速く、目で追うのがやっとだ。
ダーラー様はそれを、宝剣でうまく受け流している。反撃に転じることはできていないが、リーチで劣るのにまったく負けている様子はなかった。
一方のファルは、曲刀を使っていた。エランではもっともポピュラーな武器の一つだ。大きさは宝剣と同程度だが、装飾がほとんどない実用メインの物を持ち出してくるあたり彼らしい。懐に入りこんで切っ先を振り上げる。かと思えば足元を斬りつけ、ダーラー様を翻弄する。彼の戦い方は、アラム先輩のフォローのようだった。
「この程度か?ファルザード殿下、剣の腕を磨くのは怠けたと見える!」
ダーラー様が笑った。
次の瞬間、剣戟の音が強くなった。ダーラー様の剣が攻勢に回ったのだ。受け止めるアラム先輩がジリジリと後退するのが見える。ファルの攻撃に至っては、軽く弾かれてしまっている。
「女にうつつを抜かしてるわりに、腕は鈍ってませんね!」
アラム先輩が軽口を叩いたが、表情は固かった。口元に笑みを浮かべる余裕はないらしい。
「はっ!女ごときで腕を鈍らせるような者が、王になれるか!」
グンッと圧力が増した。
「ぐはっ」
ダーラー様が放った回し蹴りがファルにめりこみ、壁側まで一気に蹴り飛ばされた。追撃をさせまいと盾になったアラム先輩の棒が、真っ二つに切り落とされる。
「――げっ……」
短くなった二本の棒を両手に構え、先輩が慌てて構えを取り直す。
ダーラー様はそのまま宝剣の切っ先を彼の頭上に振り落とした。
□ ◆ □
「ファル、アラム先輩。……どうかお気をつけて」
声が届かないと分かっていながら、私は呟いた。
目の前に現れた脅威を退けなくてはいけないのは、私も一緒だ。
抜き放った腰飾りを構えて、対峙したのは見覚えのある小さな姿。――ヒナだった。
「私たちが戦う必要はないと思うけど。違う?」
赤い服を身に着けたヒナは、私の言葉にゆっくりとかぶりを振った。
『しゅじんがしらべろといった。そのとおりへいたいがいたのだから、はいじょするのがしごと』
ヒナの周囲には炎の塊が浮かんでいた。合計、9つ。
一つ一つは拳ほどの大きさだが、燃え上がる様子からして、ただ美しいだけではあるまい。
――ひゅん!
ひゅんひゅんと宙で動いたそれが、私の胸元目掛けて飛んでくる。とっさに腰飾りの先で撃ち落としたが、これが悪手であることは分かっていた。
――ひゅ、ひゅん!
次は二撃。狙いは頭と足だ。これも腰飾りを使って撃ち落とす。錘がついているとはいえ、布の先である。振り回す動きがロスになり、切り返しは遅い。とっさに後退して直撃を防いでいなかったら、間に合わなかった。
――ひゅ、ひゅ、ひゅ、……
「ま、待って。アラム先輩も主人になった、ってことを考慮してくれる気は?彼は私への危害は望まないはず」
『……』
ヒナはわずかに考えたようだった。周囲を飛び交う炎の塊は残り6つ。
『めいれいは、さきのしゅじんからでてる』
炎の塊が再び9つになった。
「じゃあ、ほら、ヒナと私が戦うなんてアラム先輩は絶対悲しむ、とかそういう方向は……」
自分で言っていて、空しくなった。
「……無理か。そうですよね、ヒナだってそもそも戦いたくてこの場にいるわけじゃないでしょうし」
命令だと自分で言っていたではないか。
魔神のしもべにとって、魔神の主人から出る命令にどれほどの拘束力があるのかは不明だ。
だが、ヒナに向けられた命令というのは、魔神の言う『承知した。――キルス』という、あれのことだ。魔神は、主人のためにしもべに命令を出した。しもべとしては魔神から出た命令だから従わざるを得ない。
――ひゅん、ひゅん、ひゅんっ!
――ガッ……。
三つまでは落とせた。だが四つ目に向けて振り回した腰飾りは耐えられなかった。ボロボロに燃え落ちたそれが手元から地面へと舞い落ちる前に、放たれた四つ目が私の肩に直撃する。
「く、うっ……」
痛みのあまり、一瞬目の前が暗くなった。
右手が上がらない。左手で右の肩を抑えながら、私はヒナから距離をとる。
『つぎは、どこがいい?』
ヒナの表情はまったく変化がなかった。




