第二十六話 不死鳥のヒナ
ベフルーズ商会からの帰り道は複雑な心境だった。
収穫はあったと思う。スーリさんからはルーズベフの悪行について聞くことができ、また、ベフルーズさんからはルーズベフという人物について情報が得られた。
恋のため道を踏み外したというのは気の毒ではあるが、犯罪者であることは変わりなく、また、レイリーの顔を使うような輩は迷惑でしかない。よって、私の対応が何か変わることはないだろう。
――ただ。
『魔神のしもべ』だという存在が、ますます分からなくなった。
夕暮れの帰り道を進む私の鼻をくすぐる香り。
『砂漠の薔薇』だと感づいた私の肌がざわつく。
ルーズベフかと周囲を見回した私の視線に映ったのは意外な人物だった。
「ロクサーナ!」
声を上げた私に気づいてか、彼女は不思議そうにキョロキョロと辺りを見回した。
仕事着ではない。ということは今日の業務はもう終わったんだろうか。
「ラーダさん。てっきり港に缶詰めになっているかと思いました」
「そっちこそ。治療師も同じじゃないの?」
「港街の治療師は普段通りですよ。調査団の治療に駆り出されている者はおりますが、怪我人や病人がいない限り仕事が増えたりするわけではありませんし……。おかげさまでわたしは休暇をいただいておりました」
「ええー。珍しい」
仕事中毒の気があるロクサーナとしては滅多にないことだ。そう思いながら私が話を振ると、ロクサーナは目を細めた。
「ナスタラーン姫が帰国される前に『砂漠の薔薇』の香水をお渡ししたいと思いまして。バザールで探してきたんです」
「そういや、そんなことを言ってたけど……」
あれ?
ふと、言葉を切って私はロクサーナの顔を凝視した。
「ど、どうしました、ラーダさん?」
「旧都からやってきた商人が売ってるって言ってたよね。それって、何人もいる?」
ロクサーナは不思議そうに首をかしげ、微笑みながら答えた。
「おりませんよ。旧都の名産とは言っても、もともとの数が少ない商品ですから。香水の中でも『砂漠の薔薇』を取り扱っている人なんて何人もいるわけではありませんし……。わたしが知っているのも、先日と本日購入した商人一人だけです。幸い、本日もバザールに店を広げておりましたので」
「そそそそそ、それって、名前は?!」
「名前ですか……?さあ……。バザールの商人にいちいち名前を確認したりはしませんしね」
ロクサーナは首をかしげながら、簡単に特徴を上げてくれた。
だが、商人ならばそうだろうという姿かたちや服装だけで、まったく参考にならない。
「ロクサーナ、よく思い出して。それって、こんな男じゃなかった?」
私が口早に”彼”の特徴を上げると、ロクサーナは頼りない様子ながらうなずいた。
「そう言われればそんな気も……。でも、あの商人がどうかしましたか?いずれにせよ今日はもう、バザールにはいないと思いますよ?」
「ロクサーナ、バザールの店の場所を教えて」
明日、明け方前から見張る。心の中でそう決めて、私ははやる気持ちを抑えこんだ。
ルーズベフだ。おそらく間違いない。
本当はすぐにアラム先輩に報告にいこうと考えた。
だが、夕暮れ時ながら一人歩きしているロクサーナをそのまま行かせるのは心苦しく、ついつい大使館まで彼女を送ってしまった。
ナスタラーン姫は帰国準備に追われているらしかったが、ロクサーナの来訪を聞くとすぐさま部屋を用意させたらしい。
「それじゃあ、気をつけてね?なんなら、後で迎えにくるけど」
「心配しすぎですよ、ラーダさん。そちらこそ、アラム先輩によろしくお願いします」
にこりと笑って送られ、私は港湾課の事務所へと歩き出した。
□ ◆ □
港湾課の事務所は無人だった。全員港に詰めているのだろう。手伝いに向かおうかと悩んだが、すれ違いになることを恐れて、私は事務所でアラム先輩を待つことにした。
診療所の方にはさすがに人がいるのだろうが、事務所入り口からは分からない。
甘い香りがする。おそらく果物だ。事務所の誰かが休憩用に買ってきて、食べずに現場に出向いたとかだろう。飲食禁止ではないにしろ、置きっぱなしだと痛むだろうなと思う。
「ここが完全に無人ってのも、不用心だけど」
仕方がないとはいえ、と思いながら床の上に散っている書類を片づける。
相変わらず、汚い文字だ。アラム先輩の報告書に違いない。
「あれ、でもこの書類は……」
アラム先輩のことだ、一日の報告書は最後に作成することが多い。不在ということはまだ帰っていないのだろうから、山になっている報告書は昨日以前のものということになる。マジか。ちゃんと書き終わってるんだろうな?
ついつい疑わしく思いながら報告書に視線を落としていた私は、入り口から静かに入ってきた気配に気づくのが遅れた。
ボッと、報告書が燃えた。
「!?」
あまりのことに驚いて、慌てて報告書から手を離す。
一瞬のうちに炎は消えて灰になり、報告書だったものは消えてしまった。火傷したかと手の先を見やるが、幸いにして傷一つない。
「コラ、ここは火気厳禁だからな!?」
出入口から聞こえてきた声は、聞き覚えがあった。
「アラム先輩。今の報告書は書き直しでお願いします」
そう言いながら振り返った先、出入口にはアラム先輩と、女の子がいた。
「うあー。今の、俺の報告書かよ……」
がっくりと肩を落とすアラム先輩が連れているのは夕焼け色をした女の子だった。
深いオレンジ色をした髪は肩くらいまでしかなく、小さな身体は五歳前後ではないかと思われる。
赤い服を着ていた。どこかで見覚えのあるデザインだと思った私は、思わず目を剥いた。
サイズは違うが、ナクシェ村で囮役を務めた時に身に着けた赤い衣装とそっくりだったのだ。
不思議なことに、女の子の姿を見たとたん、周囲の温度が何度か上がったような気がする。
ジリジリと肌を焼く感覚は慣れ親しんだものに近い。太陽のそれだ。
「……熱い?」
「あー、分かっちゃうか。ずいぶん熱量抑えてくれてるんだけどな。けど、こんくらいなら室内は燃えないだろ」
なんでもない風にアラム先輩が言う。ついさっき報告書が燃えた件については指摘したらいけないのだろう。
と、いうことは……。
女の子は周囲に熱気を振り撒きながら、赤い双眸を私に向けた。
『――まじんは、どこ?』
聞き覚えのある発音。ナクシェ村で会った”影”と、シンドバッドのそれと同じものだ。
人外。魔神。……いや、もしかするとこの娘もまた、魔神のしもべというやつだろうか。そばにいるだけで熱くなってくるというのは、そもそも普通じゃない。
私は問うような視線をアラム先輩に向けた。
「この子、どちらの娘さんですか?まさかアラム先輩の新しい恋人ではありませんよね?」
「いくら結婚相手を探してるったって、この見かけの子を連れて来たら犯罪だろう」
「いやいやいや、分かりませんよ?本命はこの子のお母さんということもありえます。……先輩、人妻に手を出すような方ではないと思っていたのですが」
「誤解を生むから止めてくれ。俺はフリーの子にしか興味持たないぞ」
「はい、すみません」
冗談はさておき、問題はこの女の子である。
『ねえ。まじんは、どこ?』
赤い双眸で同じ質問を繰り返した。
「ここには、いませんよ。キルスが連れているそうですから」
私が答えると、少女はようやく私の顔を認め、不思議そうに首をかしげた後、周囲を見回した。
『まじんのぬけがらがいるのに、まじんはいない。ふしぎ』
ぬ、ぬけがらって……。
顔が似ていると指摘を受けることは多くあったが、抜け殻とまで言われたのははじめてだ。
『ランプのけはいがする。ここに、あったはず』
女の子の双眸がキッと睨んでくる。だがそれも、姿が幼い子供だと思えばさほど怖くはなかった。
「私は国家治安維持部隊港湾課、アラム隊のラーダです。あなたは、何者ですか?」
『魔神のランプ』は国の宝物庫にあるはずだ。それを教えることはできたが、案内しろと言われてもできないので、ここは知らぬふりをした方が良いだろう。話をそらそうとした私に、赤い子供は首を振った。
『アラム』
「ああ。はいはい。ラーダ、この子な。不死鳥の雛なんだ」
「え……?不死鳥、ですか……?」
赤くてどことなく普通じゃないことは伝わるが、どこから見ても鳥には見えない。
驚いた私に、アラム先輩も困ったような表情を浮かべて言った。
「倉庫が壊れたろ?あんとき、シンドバッドの気配のせいで起きちゃったらしいんだが。いざ出てきたらキルスもシンドバッドも魔神もいないんで、迷子になって俺を頼ってきたんだよ」
『まいごじゃない』
プイッと顔をそむけて、女の子はむくれた。
『まじんがいないのがわるい。まじんはどこ?あたしをおいてどこにいったの』
なるほど。アラム先輩が迷子と呼んだ理由が分かった。
「けれど、連れてきてどうするんですか?魔神を探しているようですけど、キルスの居場所は私たちにも分かりかねます。シンドバッド――あの空飛ぶ白い船に乗っていってしまったでしょう」
「ああ。あの船はシャーロフ大臣を家に送った後、行方不明だからな」
「ますますどうしようも……」
それに、そもそも『不死鳥の雛』はペテルセア帝国に返すという話だった。この様子ではこの子が出てきたことによって梱包は解けてしまったのだろう。それでは返却もできまい。どうするんだろう。この子を連れて『不死鳥の雛』だと主張するのは無理があると思うし。
「おそらくキルスはナクシェ村の方に逃亡したんだろう。あっちで以前船の目撃証言があったからな。とはいえ、今は調べようがない。
つーことで、な。ラーダ」
「はい」
「この子、連れて帰ってくれ」
「はい?」
「俺の家に連れて帰るわけにはいかないだろ。こんな子連れてったら、それこそ何を言われるか分かったもんじゃない」
「いいところ隠し子疑惑ですよね」
「しれっと嫌なこと言うな!そうじゃなく、家族がいるから連れ帰るわけにはいかないんだよ!」
「了解しました。……この子、名前はなんていうんです?」
「ヒナ、だそうだ」
「え?」
「……不死鳥の雛、と周りで呼んでただろ?」
「不死鳥のヒナ、と」
はあ、と息を吐いたアラム先輩は、気分を変えるようにコキコキと肩を鳴らした後、燃え落ちた報告書の方をチラリと見た。
「ラーダが報告書作りを手伝ってくれるっつーなら、このままいてくれてもいいぞ」
「ご自分でお願いします」
他人の報告書を作成するのって不可能ですからね、先輩。
「で……ベフルーズ商会はどうだった」
ようやく本題に戻ったところで、私はこくりとうなずいた。
敷物の上に二人で座り、眠気覚ましの飲み物を呑みながらベフルーズ商会での出来事を簡単に話す。
アラム先輩はシャハーブから買ったという例の苦そうな飲み物を呑んでいたが、苦さに慣れてしまったのかいちいち叫んだりはしなかった。
その間、不死鳥だという赤い女の子――ヒナは敷物の上でコロコロと転がっていた。
どうやらこの子も眠いらしく、少しでも寝心地の良い場所を探しているらしい。徹夜だからとかではなく、まだ幼いからだろう。
不死鳥が敷物の上で寝て、燃えてしまわないかと心配だが、どうやらそういったことはないらしい。アラム先輩曰く、熱量を抑えてくれているせいなのだろう。
ようやく落ち着き先を見つけたかと思えば、それはアラム先輩の膝の上だった。
五歳の女の子が膝に頭を載せてうとうとしているのを、優しく見下ろす様子を見れば、若い父親にしか見えない。
レイリーという妹がいるから年下の女の子の扱いに慣れているんだろうけど、実はホントに隠し子なんじゃないかと思うところだ。
「眠いなら、何かかけますか?」
布団代わりになるものを、と私が問うと、アラム先輩は少し迷った顔をした。
「それよりか、枕になるものはないか?」
優しくヒナの頭を撫でながらアラム先輩は困った顔で告げた。
「ここにいられると、報告書を作れない」
「……口述してくれれば、私が書きますよ」
ちょっとだけ仏心を出して私は言った。せっかくうとうとしている子を、無理に下ろして寝かそうとするのは可哀相な気がする。
それに、寝ている間に移動させたら泣き出したりしないんだろうか?
「ルーズベフの正体、か」
「はい。魔神のしもべという……ナクシェ村で会った”影”と同じでしょう。ただ、タイプはずいぶん違うように思いますけど」
「この子が起きたら、そこらへんを聞いてみるか」
「ヒナにですか?」
「ああ。この子が魔神のしもべに該当するかどうかは分からないが。魔神については俺たちよりは知って……」
アラム先輩がそう言いかけた時である。
赤い女の子の身体に変化が起きた。
ジリジリと熱い空気が密度を増していく。
息をするのも苦労するような、頭の奥がぼうっとしてくるような。喉の奥が焼けつくように水気を失っていく。
ヒナの髪の毛がチリチリと瞬きはじめ、私はギョッと目を見開いた。
慌てて胸元に提げたペンダントを取り出すと、案の定だ。色が、――変わっている。
「アラム先輩、この子!」
「そういうことかよ!」
アラム先輩は鋭く叫んで、ヒナをキツく抱きしめた。ぎゅうぎゅうと強く抱えながら声をかける。さらにはペちぺちと頬を叩き、彼女を起こそうとした。
じゅうじゅうと燃える音を立て、白い煙が舞い上がっていく。ヒナがアラム先輩の肌を焼いているのだ。だがそれでも、アラム先輩は彼女を離さなかった。
「おい、聞こえるか!起きろ!」
何度目かの呼びかけの時だ。ぼうっとしたヒナの目が開き、パクパクと乾いた口が開いた。
『おなか、すいた……』
「腹?腹が減ったんだな?……不死鳥の好きそうな食べものなんて知らないぞ。ラーダ、なんかないか!?」
「な、何かと言われましても……。ああ、そうだ。アラム先輩にお土産にもらったものが!」
大急ぎで鞄を引っ張り出し、ベフルーズ商会でもらった飲み物を取り出した。湯で煮出して飲むものであって、そのまま食べるものではないのだが、植物であることには変わりない。この子が鳥だというなら、……鳥?
「果物があったはずです!」
私は大声で叫んで事務所の奥へと駆けこんだ。
甘い香りを辿って探った先に、果物があった。カゴの上に盛られているのは今日買ってきたばかりと思われる果実だ。よく熟れていて美味しそうだが、この場合重要なのは、瑞々しいかどうかだった。
「皮を剥いた方がいいですか!?」
「とにかく早くしろ!」
「はい!」
カゴごと抱え上げ、私はヒナのもとへと駆け戻った。
ナイフを使って果物をカットし、小さな欠片を口に入れる。じゅわっと果汁がしたたるそれを口に入れると、ヒナが辛そうな息を吐いた。
食べられそうになかったら、絞ってフルーツジュースにしようと思ったが、やがて口がもぐもぐと動いてごくんと喉が鳴るのが見えた。
熱にうなされたような声より幾分マシだ。私はしばらくの間果物を口に含ませ、喉が鳴るのを見てから次を入れるということを繰り返した。
「不死鳥が毒化してたんじゃない。この子が毒に侵されてたんだ。……不死鳥だから、死なずに済んだのかもしれない」
忌々しそうにアラム先輩は呟いた。
私の胸元に下げている、王宮から貸与されている毒を感知するペンダント。それが不死鳥の雛に反応していたことを思い出した。
体内にある毒素まで反応するような機能はなかったはずだけど、不死鳥は普通とは違うのかもしれない。
焦る気持ちを抑えながら様子を見ている時だった。
――ピイイン。
ヒナのそばに光が生まれた。
――ピイイイイイン……。
頭の中に反響するような音をさせて、光は徐々に人の形をとっていく。
アラム先輩が警戒するような視線を向け、ヒナをぐっと抱きしめる。だが、光が形作ったヒト型は、その心配はいらないとばかりに笑った。
『わたしのしもべよ、迎えに来た』
その発音は、シンドバッドとも、”影”とも、ヒナとも同じものだった。
声を聞いたヒナが、ぼうっとした視線を向ける。視線が確かでないことを確認したヒト型が、不安そうに眉根を寄せた。
『わたしのしもべ。聞こえているでしょう?』
『おそい』
ヒナはむくれたように言って、ぎゅっとアラム先輩に抱きついてから息を吐いた。
『くるしい。どうしてこんなにおそかった?まってたのに』
『キルスの願いを叶え終えていないから』
ヒト型はそっけなく、当たり前のことを告げるように口を開く。
『あたしはあいつにあいたくない』
むくれた顔のまま、ヒナはヒト型から顔をそむけた。
『わたしの主人は彼だから。しもべがわたしと来るなら、彼と会わないでいることは難しい。けれど、わたしのもとに来ないと、その毒化した身体は治らない』
『……あいつはいつまでもねがいごとをしない。まじんをしばるけんりなんて、にんげんにはないのに』
『仕方がない。わたしは魔神だから』
『……まじん、いやじゃないの?』
ヒナの言葉に、ヒト型はフッと笑って、ますますその色味を濃くしていった。
『魔神とは、そういうもの』
似ていると思った。鏡に映したかのように私に似た姿。
これが魔神か。
魔神はやがてヒナから顔をそらし、顔を強張らせる私とアラム先輩の方を向いた。
『あなたがたは、わたしのしもべを助けてくれた。お礼がしたい』
私そっくりの顔をして、魔神は言った。さあこちらにとばかりに両手を広げ、ヒナを受け取ろうとする。
「ヒナは治るんだろうな?」
アラム先輩は心配そうに尋ねて、ヒナの顔を見下ろした。少しでもヒナが嫌がるようなら拒もうと思ったのだろう。
むくれた顔をしているヒナは、拗ねてはいるが嫌がってはいなかった。
『ヒナというのは、わたしのしもべの名前?』
魔神はそう不思議そうに尋ね返し、それから微笑んだ。私と同じ顔なのに、ずっとずっと年上に見える顔だった。
『名前をありがとう。ヒナは大丈夫。不死鳥は死なないから』
魔神の返答に少しばかり警戒を解いて、アラム先輩は質問を重ねる。
「……ついでに、どうしてヒナがこんな目に遭ってるのかも教えてくれないか?」
『キルスの屋敷が、攻撃されたから』
魔神は悲しそうに答えた。
『炎が放たれた。屋敷は燃えてしまった。キルスの財宝は失われて、キルスも捕まって。キルスは刃では死なない身体だったから無事だったけれど、炎では死んでしまう。わたしのランプを守るために、この子は炎を食べすぎた。
炎には悪意が入っていた。悪意はこの子には毒になる。ヒナは炎の中で燃え尽きて、生まれ変わった。雛のままでは飛ぶこともできない』
淡々と魔神は説明したが、もう少し長文で話して欲しいところだった。
理解しづらくて眉根を寄せていた私に、魔神は微笑んだまま続ける。
『キルスは屋敷に不死鳥がいることは知らなかった。必要とされない限り、しもべのことをわたしは言わないから』
ふわりとアラム先輩の手の中からヒナが浮かんだ。
そのまま魔神の手の中に渡った小さな赤い姿に、アラム先輩は何か言いたかったんだと思うけど、何も言わなかった。
「礼は、いらん。礼をもらうようなことをした覚えはない」
アラム先輩はそう言って口を開いた。
「ヒナが同じ目に遭わないように気をつけてくれれば、それでいい」
『承知した』
魔神は続いて、私を見た。
「お礼って、何ができるんです?言葉であれば、受け取りますが……」
『願い事に入らない範囲のことなら』
魔神の返答は、ますます分かりづらい。
「……でしたら私も、お礼はいりません。代わりに質問させてください」
『それがあなたへのお礼になるのであれば』
私と同じ顔をした魔神に、私は尋ねる。これを聞くことができるのは目の前の彼女以外にいないだろうから。
「私と似ているのはなぜですか」
魔神は笑った。
『はるか昔、姫がわたしに望んだから。新しい世の中を見せて欲しいと。
その時が来たら生まれるようにとしておいた。あなたに逢えて、わたしは嬉しい』
「……私って、人間ですか」
『もちろん。あなたはただの人間だから、特別な力は何一つない。だけどあなたはただの人間だから、あなたを縛るものも何一つない』
わたしと違って。そう言って、魔神はヒナを連れて消えた。
部屋にはしばらくの間、果物の甘い香りだけがあった。
私も何も言わず、アラム先輩も何も言わなかった。
だけど、滴る甘い汁のせいで私の手はベタベタで、やがてそれが気になってきたので敷物から立ち上がった。
「先輩、食べますか?切ったやつ。捨てるのはもったいないですから」
「ラーダ、報告書作るの手伝うか、もしくは飯を買ってきてくれないか」
ほとんど同時に口を開き、私とアラム先輩は顔を見合わせた。
先輩は、一緒にいたのはほんの少しの間だけだったけど、ヒナがいなくなって寂しいのだろう。だから部屋に一人で残るのが寂しいのだ。もしくは今の出来事を話す相手が欲しいのだ。私と同じように。
「……報告書作るのは手伝いますし、食事も買ってきてあげます。ついでに切っちゃった果物も、デザートにしましょう」
私はそう言って手を洗いに向かった。
私は心の中で笑っていた。
私は人間。ただの人間。その一言が、なぜかとても嬉しかった。




