第二十話 ナクシェ村へ(第二日夜)
歓待の宴には、私やヒールダードさんも呼ばれた。
村の音楽隊が演奏をする中、祭りの踊りを披露するといった賑やかでかつ健全なものだった。
港湾課の制服を着ているためか、女性扱いを受けることはなく、かといって男性扱いでもなくという向こうからすると難しいポジションではあったけど、私には気楽な状況だった。
丸一日村の中を引き回されたファルは疲れた様子だったが、勧められるままに酒の杯を開けている。確かお酒苦手じゃなかっただろうか。
「いかがですか、ラーダさんも」
「いえ、私はお酒は……」
「この果実酒は村の名産なんですよ。ぜひお味見ください」
「え、村で作れるんですか?」
「いいえ。村で作ってるのは、こちらの入れ物です」
それは名産とは言わない、と思ったのだが、注がれてしまったので、仕方なく少しだけ口をつける。
苦みのある果物の味は、甘い完熟した果実そのものではなく、おそらく皮も使って作っているからだろう。なんの果物だろうと思いながら口をつけていると、いつのまにか一杯飲み終えてしまった。
「いかがです?」
「呑みやすいですね」
それは期待以上だったので、小さく微笑んで答える。
「でしょう!女性にも受け入れやすいのではないかと思いまして、村の名産ってことで売り出す予定なんです。ささ、もう一杯」
調子のいい給仕に乗せられて、つい二杯、三杯と呑み進めてしまったところで、ふっと影がかかった。
どうやら村長たちに捕まっていたファルが逃げてきたらしい。
私の隣で身を屈め、はあ、と大きな息を吐く。かなり酒臭くなっているから……相当飲まされたのは間違いない。
「王子殿下もいかがですか?」
給仕に片手を振って下がらせると、彼はそのまま私の横に腰かけた。
「お水でもいただきます?」
「いや……」
大きくかぶりを振って、彼は弱弱しく笑った。
「宴の席で、それは無粋だろう。終了まではこのまま行く」
「大丈夫ですか?体調の方を優先しませんと、明日は馬に乗るのでしょう?」
「ああ。君を乗せることのできるチャンスを、他のやつに譲りたくはないからな」
「……は?」
目を丸くした私だが、深い意味はないらしい。態度が変わっているようには見えない。
聞き間違えかと思って首をひねったところ、ファルはわずかに目をそらした。
音楽隊が鳴らすのは、太鼓が主体のようだった。弦楽器もないわけじゃないが、風が吹けば砂が舞うという野外では、こちらの方が手軽なのだろうか。腹の奥からワクワクとしたリズムが湧き上がるのを感じながら夜風を楽しんでいると、ファルが口を開いた。
「一度聞いてみたかった」
「どうしました」
まっすぐな視線は、私を見つめる。
「……一年くらい前、王宮にいただろう。オレのカマンチェに合わせて歌っていた」
驚いた。
一年ほど前に、王宮でカマンチェに合わせて歌ったことは、確かにある。
港湾課の採用通知を得た日のことだ。ロクサーナとレイリーがお祝いを開いてくれるというので、一番自由にできるロクサーナの部屋で女三人の宴を開いた。もうずいぶんと前の記憶になってしまった。
「あのカマンチェは、ファルだったんですか」
「ああ。練習中だった。拙かっただろう」
「……いえ、そんなことはないですけど」
確かに同じフレーズを何度も繰り返していたような気はする。
「ペテルセア帝国の王族は、音楽を好むと聞いてな。それと話が合うよう練習していた」
それはまた、涙ぐましい努力だと私は思った。
「他人の歌声を聴いて笑うなど不作法だとは思ったが。……面白かったんだ」
彼はうっすらと目を細めて笑った。
「面白い、ですか」
「ああ。それまで女性というのは……守る対象だとばかり思ってた。おとぎ話に出てくる黄金宮の王の姫だってそうだ。彼女は何でも持っている王に愛され、守られるばかりの存在で、その短慮な行動によって国を崩壊させた愚かな姫だと……。おとぎ話はそうなってるだろう?」
「ええ、まあ……」
私がうなずくと、彼は続ける。
「だが、君が歌う姫はもっと生き生きしていて楽しそうだったし、それを歌い上げる君も、一緒になって笑う女官たちの声も、守られるばかりじゃない、もっと明るくて元気で……、輝いているように思えた」
「……」
「あの後、君の唄をまた聴けないかと思ってずいぶん探したが。王宮内では見かけなかったな」
「それはそうですね。王宮に住んでいるわけではありませんから」
それに港湾課で働きはじめたのでそれどころではなかったのだ。ロクサーナの部屋に出向く機会も減ってしまった。
「これからのエランの女性は、こうあって欲しいと思った。男の影で守られるんじゃなくて、一緒に明るく歌えるような……。正直なところ、それまでペテルセア帝国の王女との婚約に、オレは少しも乗り気じゃなかったんだが。こういう女性が王妃になるなら楽しいかもしれないとも思った」
「……」
そういえば、王子殿下の噂も帝国王女の噂もよく聞いたけど、ファルの本心など聞いたことはなかった。
「……ラーダ」
横に座るファルの手のひらが、私の手の甲の上に重なる。
「なんでしょう?」
首をかしげた私の手を引き寄せるように、その手に力がこもった。
「港湾課のアラムは、君の恋人か?」
「は?」
目を丸くしたのは、ファルの手に妙に力がこもっていたせいか、その手が汗ばんでいたせいだろうか。
酒のせいでほんのり赤い顔をしながら、彼は返答に困る私の顔を見つめる。
「ええと、違います。アラム先輩は、あくまで上司ですし」
まさかファルから聞かれるとは思わなかったが、実はこの質問は、たまにされる。
アラム先輩は、実は女にモテる男である。実態は縁談を断られてばかりなのだけど、その以前の段階であれば、彼に興味を持つ女性はたくさんいる。シャハーブはフラれ男と呼ぶが、別にそんなことはないと思う。
同じ職場で働いている女性はそれなりに目につくらしく、アラム先輩に興味のある女性からは、私との関係性を聞かれることもある。そういった場合、返答に困るのは、私が男だったら同じ関係性であっても聞かれなかっただろうにな、という理由からだ。至って平穏な、上司部下関係なので。
「そうか」
ファルはなぜかホッとしたように肩を落とした。
「君は、彼と親しいだろう」
「そうですね」
それは認めるところだ。
「何しろ、兄みたいなものですから」
「……?」
「一年前のことを覚えておいでなら、その時女が三人いたことを覚えてますか?」
「……いや」
ファルは首を振った。私も会話まではすべてを覚えているわけではないから、レイリーはもしかしたら喋らなかったのかもしれない。
「あの時いた三人のうち一人、レイリーの兄。それがアラム先輩です。彼が上司になったのは配属の関係ですが、レイリーの友人なので、自然とアラム先輩は、私を妹のように扱っている節がありますね」
そう言って、私は口の端に笑みを浮かべた。
「ファルは、不自然に思ったことはないですか?アラム先輩は、港湾課の一調査官であるには、ちょっと優秀すぎるって」
「……それは思わないでもない。サンジャルに直接物言いができる様子なのもそうだが、オレとのパイプも太い。調査官というのは、言うなれば国軍の一番下っ端だ。彼ならもっと上の立場であってもおかしくはない」
「あれは、レイリーのせいなんです」
「え?」
「アラム先輩は、一年前はもっと上層部にいました。けど、レイリーが国を離れることになった際……、とばっちりで、国軍の下っ端に落とされたんです」
アラム先輩の縁談が上手くいかないのも、そこらへんに秘密があるかもしれない。
彼は上層部に睨まれてしまったのだ。今後、出世の見込みがあるかどうかは怪しい。
「馬鹿な。何があったと?」
「レイリーは私に言いませんでした。だから、詳しくは知りません」
私は黙って首を振った。
「でも、レイリーの国軍採用には、彼女が受け入れがたい条件があったというので、それを断ったことが、相手の気に障ったんでしょう」
その採用官が誰で、どのような条件だったのかも分からない。だが、三人のうちで一番誇り高い彼女には受け入れがたい条件だった。
「……それが、今のエランの実態か」
「はい」
ファルは、私の言葉を悲しく受け止めた。
「ラーダ」
ファルの手に、力がこもる。
先ほどからずっと握りしめられているのだが、その指に熱がこもっているのが分かる。彼の憤りが伝わってくるようだった。
「エランを変えたいと思う。君が、……いや、君たち女性が、もっと伸び伸びと生きられる国にしたい。たかが王位継承者が、このようなことを思うのは、おこがましいと思うか?」
「いいえ」
私は思わず笑みがこぼれるのを感じた。
「王位に就くのがシャーロフ大臣でも、サンジャル様でも、王子であるあなたが中核から外れることはないでしょう。国の中核にいる人間がそう思ってくださることが大事じゃないでしょうか。これでナスタラーン姫が妃になれば、もっと早く……」
「……っ」
弾んだ声で言おうとした私は、力任せに握りこまれた手に悲鳴を上げた。
「い、痛!?」
「す、すまない、ついっ……」
詫びを入れながら、ファルはまだ私の手を離さない。
「な、なんですか、急に。おかしなことは言ってませんよ?」
「……そうだな」
苦々しい表情を浮かべた後、ファルは首を振った。
「まだ公言はできないが、ナスタラーン姫との婚約は成立しない。オレから、正式に国王へ断りを入れる予定だ。だから、王女のことをそう言う言い方をするのは止めてくれないか」
「えええ?なぜ!?」
「バハールたちの反発が強いこともあるが、……何より、オレが彼女を妃として迎えられる気がしない。その状態では、無理だ。黒装束たちとの取引のこともあるしな。今回の件に片が付いたら……」
「そんなの分かりませんよ。バハール様だって、まだお会いしたばかりで打ち解けていらっしゃらないだけです。交流会もされているわけですし、いずれ……」
「彼女とは、友人以上の関係は築けない」
きっぱりと、ファルは言い切った。
ファルの手が、私のもう片方の手を握りしめる。
正面から向かい合い、熱のこもった目を向けられる。
どこか切羽詰ったような目に驚いていると、彼はもごもごと口の中で何かを呟いた。
「ラ、ラーダ」
「はい?」
「ええとだな」
「はい」
「あ、あのだなっ……」
「あの、ファル。深呼吸をしてはいかがでしょう。お酒を飲んでいるせいか、思考がまとまっていないのでは」
私の言葉に、彼はなぜかうなだれた。
「……確かに、そうだな。それに、ここは言うなれば旅先だ。こういった場所で言うのは、反則だった」
苦笑いをして、彼はゆっくりと両手を離そうとしたが、なおも名残惜しいような目で手元に視線を落とした。
「……オレは、器用な男じゃないんだ」
彼はぽつりと呟いた。
「だから、君には迷惑をかけると思う」
話の真意が分からないまま、宴は佳境に入っていった。
以前、ファルは酒が入ると記憶が飛ぶことがあると言っていたが、呂律が回らなくなったりもするのかもしれない。見たところは正常だが、会話が成立していない気がする。
「ここにいらっしゃいましたか」
そう言って話しかけてきたのは、ヒールダードさんだった。
「最後の夜くらい、制服ではなく赤い服でいらしたらよかったのでは?」
「逆だと思います。こういった時こそ、港湾課の制服で、国軍の存在をアピールしておきたいのですよ。それにあれは囮用の衣装ですし」
「そういうものですか?」
ヒールダードさんは首をかしげ、先ほどの果実酒を傾ける。
ファルはすでにいない。再び村長たちに呼ばれてそちらの方へと向かっている。足元がだいぶふらついていたのだけど、大丈夫だろうか。
「一つ、お聞きしたかったのですが。失礼な物言いでしたら先にお詫びいたします」
「なんでしょう?」
「あなたは、王子殿下とは、どういったご関係で?」
きょとんと目を丸くした後、私は首をひねった。
「私は友人だと思っていますが」
ナクシェ村まで片道三日、滞在はすでに二日目だ。その段階になって何を聞いてくるのだろうと思ったのだが。
私の言葉を聞いて、ヒールダードさんは「なるほど」と困った顔をした。
「それは、やはりお詫び申し上げましょう。昨夜の、薬。あなたに耐性があって良かった。……申し訳ないことをしたようです」
今更謝られるとは思わなかった。
きょとんと目を丸くした私に、ヒールダードさんは続けた。
「今更だとお思いですね」
「ええ、まあ……」
彼の行動は、訴えられても良いレベルである。池に撒いた目的は、あの影のような美女を釣ることだったとはいえ、周囲にいた私とファルを巻きこんだことについては、『事故』だと彼は言い張った。つまり、責任を取る気はなかったのだ。
「女性を同行させると聞いた時点で、本当はお断りしようと思っていたんですよ。それなのに、作戦に必要だから、港湾課の調査員だからとゴリ押しされて……。まあ、有体に申し上げて、側妃候補なのだろうと思っていたのです。
サンジャル様からも、様子を見張るよう頼まれておりまして、見る限り王子殿下がちょっとオクテでいらっしゃるだけに見えましたので、特に問題はないと思っていたわけです」
私が眉根を寄せたのへ、彼は詫び一つない。
「彼は、側妃は迎えないと宣言してますよ」
「そうでしたね」
ヒールダードさんはそう言って、お詫びの形に、と言いながら果実酒を注いだ。
「ところで、あの瓶は、池の底ですか?」
「ええ」
それは困った。あれは、ナスタラーン姫が帰国時に返却することになっているのだ。どうやってお詫びしたものだろう。高価な薬だと言ってたんだけど。
「誰があなたにあの薬を与えたのか、伺ってもよろしいでしょうか」
その人物に代金を払わせようと思い、尋ねた言葉に、ヒールダードさんは笑って答えなかった。
「それは別の話になりますので、お話しできませんね」
ファルの酔いがいよいよ余裕がなくなってきたのを見て、私はさりげなく立ち上がった。
表面上は穏やかに、村長とそつなく会話をしているつもりだろう。だが果実酒が注がれる杯から、ダイレクトにお酒があふれ出しているのをみれば、もはや余裕がないのは一目で分かる。
護衛役のボルナーがいないのも手伝っているのだろう。彼はやはり骨が折れていたらしく、朝からずっと療養中なのだ。ボルナーがいれば、ここまで無茶呑みはさすがに回避できただろうけど。
「王子」
小声でそっと声をかけた私は、彼の手からさりげなく杯を取り上げる。
「村長殿、大変申し訳ありませんが王子殿下は明日の朝、早くに出発されます。そろそろ引き揚げさせていただけませんか」
「おおお、すみません、これは気が回らず。では、どうぞ我が家へ」
「ええ、お言葉に甘えさせていただきます。どうぞ皆様は、続けていてくださいますよう……」
そっと頭を下げ、ファルを視界におさめる。
彼の手に指を添えると、問答無用で歩き出した。ふらふらとした足取りを隠しながら、ファルもまたついてくる。
おいおい、大丈夫か、本当に。王子たるものもう少しお酒に強くなっていてもらわないと、ナスタラーン姫ではないが、命の危険に晒されたらどうすると思う私はお節介かな。
テクテクと村長宅への道を急ぐ。彼を送ったら、私も旅商人用の宿へと引き返そう。
私も甘くて苦い酒が喉奥に残っていて、ふわふわと足取りが危うい。
「ラーダ……?」
「ええ。村長殿の家に戻りますよ。呑み過ぎです」
「すまん」
意識があるのかないのか、ファルは大分力の抜けた身体を、精一杯の意識を働かせて歩いているらしい。
「……王子呼びは、止めてくれと、言ったぞ」
「対外的には仕方ないでしょう」
「二人の時は止めてくれるか」
「ファルって呼んでるじゃないですか」
「違う」
「?」
「……違う。そうじゃなくて……」
はぁ、と小さな息を吐いて、ファルはふらりと姿勢を直した。
「……その、だな」
口ごもりながら、ファルは私の方へと視線を向けた。
「君を妃にしたいと言ったら、断るだろうか」
目が点になるといったら怒られるだろう。
だが、心境としてはそんなところである。熱っぽく赤らんだ顔をしたファルをじっと見返した私は、苦笑いと共に答えた。
「断りますね」
そもそも、正妃以外は迎えないと言ったのはあなただろうに。
「……そうか。そうだな」
冗談だったのだろう。彼もまた、口端に笑みを浮かべる。
「君はオレを意識したことはないだろうし」
「それもありますが、私は……」
ふっと、言葉を切る。これを白状するのは、親友であるロクサーナとレイリー以来だ。
「親兄弟もいない、天涯孤独の身の上です。これって、別に親が死んだとか、そういう話じゃないんですよ。
サンジャル様はご存じみたいですが……。私は本当に、ある日突然、この国にいたんです」
「……?」
いぶかしげにするファルへ、私は悪戯っぽく笑った。
「ナイショですよ?もしかしたら本当に、私は魔神かもしれません。そういう女に対して、特別視はしないことをおすすめします」




