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梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


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16/16

夜叉 16.

 等間隔に並んだ電灯の弱い灯りは、梶谷の姿を夜に明滅させていた。いつか梶谷と副島が二人で歩いていた時と比べて、明滅は酷く速い。


 梶谷は走った。

 あの程度の言葉で井上が命を絶ってしまうなどとは夢にも思って居なかったから罪悪感に襲われているのかも知れないし、この後の“面倒な仕事”をさっさと終えてしまいたいからなのかも知れない。


 井上は、遂に三島千代の殺害について触れる事は無かった。それどころか、彼は三島千代の死を“都合が良かった”とさえ言った。


 “都合が良かった”のは、何故だろうか。どうして井上は、三島信一が阿片中毒だったのを知っていたのだろうか。

 それも含めて“都合が良い”のだとしたら一体誰にとってだ?


 答えは明白であり、だからこそ彼は、不用意に助手を残してしまった診療所に急いで戻らなければならないのである。

 電灯は次々に梶谷の姿を照らし、明滅は速まるばかりだった。





 

「——千代さんを殺したの、ハルちゃんなのよね」


 ハルが自身を夜叉に似ていると言った後、少し黙っていた副島は意を決したように口を開いた。ハルは相変わらずの悪戯な表情で副島を見つめるだけである。


「どうしてそう思うんですか?」


「強い根拠は、無い。けれど、千代さんが亡くなった話をしていたハルちゃん、涙を流していたわよね。あれ、嘘泣きだったでしょう?私も“演技”については少しだけ自信があるの」


 ハルの表情は崩れない。


「あの時の私は、あなたが嘘泣きをしていたのだとしても、あなたの様な女の子があんな猟奇殺人を起こせるなんて信じたくなかった。だから、女の子が“可哀想な自分”を演出したがるというのはよくある話——なんて思って“目を逸らした”」


 副島は一度視線をテーブルに移して溜息を一つ吐くと、改めてハルを見た。


「でもあなたは“夜叉”の話で、明らかに私を、或いは梶谷診療所を試している。それがどんな意図なのかは理解できないし、理解したくもないけれど」


 ハルは表情を変えないまま、副島の言葉に口を挟む。


「仮に私が千代ちゃんを殺したのだとして、副島さんはどうするんですか?」


「一つだけ質問をするわ。“あなたは梶谷先生を殺すつもりなの?”ってね」


「それは、随分と飛躍した質問ですね」


「あなたが千代ちゃんを殺したのだとしたら、あなたは楽しんでいる。きっと殺しだけじゃなくて、この状況も。そんなの、井上先生なんかよりも余程“繰り返す人”でしょう?」


「そうかも知れませんね」


「別にその繰り返しの中で、梶谷先生でなければ、私を含めて誰が殺されようと私にとって重要ではないの」


 副島は何処か冷酷な目で事務机に目をやった。そして呟くように「この仕事を始めて学んだ事は、根拠や証拠なんてものは案外必要では無いという事ね」と言うとハルに視線を戻した。


「“あなたは梶谷先生を殺すつもりなの?”」


 副島の質問に、ハルはまるで恋愛小説を読んでいる少女のように目を輝かせながら答えた。


「面白そうなら、そうするつもりです」


 それを聞いた副島は口角を上げ、天井を見上げると「そう」とだけ言った。

 梶谷の前では見せた事のない、酷く冷たい笑みだった。

 副島はその冷たい笑顔をハルに向け、口を開く。



「でも、それは駄目。梶谷又三郎は私が殺すから」



 副島の言葉を聞いたハルは、少しだけ面食らった様子で目を見開き、まじまじと副島を見た。そして声を出して笑った。夜を切り裂くような、甲高い笑い声だった。


 一通り笑い終え、ハルはまた悪戯な表情で副島を見る。


「それは、復讐?」


「ご想像にお任せするわ」


 冷たい笑みのまま、副島はそう突き放した。ハルは尚も目を輝かせて会話を続ける。


「でも、そんな事を私に話してしまって良かったんですか?梶谷さんに告げ口をしてしまうかも知れないのに」


「ええそうね。それでも、“脅し”の為に言っておく必要があったの」


「脅し?」


「お分かりだと思うけれど、私は梶谷診療所がどうなったって構わない。美しくないし、梶谷先生に会い辛くなってしまうだろうから最終手段にしているだけで、梶谷診療所の仕事を、隠蔽して来た殺人の数々を、何処かの記者に暴露する事だって出来る」


 副島は、再度あの冷たい笑顔でハルを見つめる。


「そこに、あなたの名前を書き足したって良いのよ?あなた美人だし、映える記事になるんじゃないかしら?」


「それは、困りますね」


 そう言ったハルの目は、言葉に反して輝き続けている。


「あなたが今後梶谷診療所に近づかないなら、雑誌や新聞に梶谷診療所の名前が載る事は無いし、千代さんは病死のままね」


 ハルは笑みを浮かべてソファから立ち上がり、翻って副島を見据えると口を開いた。


「——わかりました。“脅しに屈して”お暇させて貰います。梶谷診療所廃業のお知らせを楽しみにしていますわ」


 ハルはそう言うと微笑を湛えたまま副島の左手首を掴んで引き寄せ、小指の付け根辺りに噛み付いた。


 副島は突然の激痛に顔を歪め、手を振り解こうとする。それでもハルは彼女の手を離そうとしない。

 力の均衡が破れて、ハルの口から副島の左手が解放された。副島の左手の小指の付け根辺りは、噛み跡に沿って出血している。


 ハルはそれを見ると満足げな顔をして、応接室のドアに向かって歩を進めた。


「ああそうだ、最後に一つだけ」


 ドアノブに手をかけたハルは、思い出した様に振り返って副島を見た。


「退屈は恐ろしいですよ。きっと、死んでしまうより」


 副島は笑顔で「ええ、心しておくわ」と答えた。

 目の前の女の子は、全てが終わった後に自分を襲うであろう虚無感を案じてくれているのだと、彼女は解釈した。


 副島の言葉にハルは微笑みを返し、ドアを開いた。


「それでは、さようなら」


 ハルは、ドアの向こうの闇に消えた。




 梶谷が息を切らしながら診療所に戻ると、ソファには副島が一人で座っているだけだった。


「佐伯ハルは何処に?」


 そう訊ねられた副島は梶谷に、ハルがしていたような優しい微笑みを返して口を開いた。


「夜叉は、夜闇に紛れて居なくなってしまいましたよ」


「——夜叉ねえ」


 梶谷はそう言って、左手を大事そうに押さえている助手を見た。


 夜は更け、目の前に怪物が居ても気付けないのではないかとすら思える深い闇が、街を覆い隠していた。

 取り敢えず一区切りです。


 続編を書きたいのは山々なのですが、僕自身大正時代についての理解が甘く、作劇に苦労する事が多々ありましたので、少しの間お勉強しようと思います。


 その結果満足のいくプロットが出来なければ最後の副島とハルのくだりを変更し、完結とします。

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