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梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


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15/16

夜叉 15.

 “佐伯ハル”になってからは、お父様もお母様も、元ご主人様でない方のお兄様も、お家で飼っていた猫ちゃんまで、表面上は私に優しくしてくれた。


 特にお父様は、事ある毎に「お前は立派な男性と結婚するんだよ」と嬉しそうに言っていた。それを言う時だけは“あの目”も人買いの目もしていない、本当に嬉しそうな笑顔だった。

 だから彼の言った事は正しくて、私の心の中にいる怪物はやはり存在してはいけないのだと思った。


 “佐伯ハル”になってから良かった点をもう一つ挙げるなら、元ご主人様の部屋がそのまま私の部屋になり、“難しそうな本”がすべて私のものになった事だろう。

 恐らく彼は神秘主義に嵌っていたらしく、本棚には黒魔術や妖怪や世界の怖い神様といった、趣味が良いとは言えない内容の本が数多く残されていた。


 私は暇さえあればそれを読んだ。その時は“これを試されなくて良かった”などと呑気な事を考えながら黒魔術の本を読んだりしていたけれど、今思えば心の中の怪物の正体を探ろうとしていたのかも知れない。


 心の中に怪物を飼っていても、いや、寧ろ飼っている自覚があったからだろうか、擬態は上手だったと思う。


 元々私は、元ご主人様の本をある程度読めるくらいには読み書きが出来たし、女学校に編入する為のお勉強も、礼儀作法も、やってみたら案外簡単なものだった。


 女学校に入った後も、私は他のお嬢様たちと比べて何ら恥ずかしくない女の子だったと思う。

 成績は優秀だったし、稀に話が噛み合わない事があったけれど、お友達だって沢山出来た。

 ただ、“あの目”を向けて来る人間が学校には精々男の先生数人程度しか居らず、敢えて彼らに会いに行く理由もないので、退屈だったと言われればそうかも知れない。


 そんな退屈な日々を二年程過ごし、擬態もいよいよ意識する必要が無くなっていた頃のある日、私の前に千代ちゃんが現れた。


 彼女は可愛い顔を赤らめて、私にお手紙を送ってくれた。手紙の内容はどうやら“エス”という関係の申し出の様だった。

 私は手紙を読み、“あの目”をしていない人間から求められるという初めての体験に興味を覚えた。

 私はその場でそれを受け入れ、晴れて私と千代ちゃんは“エス”という事になった。


 それからは楽しかった——筈だ。千代ちゃんとの関係にも次第に慣れ、彼女のお家にお邪魔する事も増えた。

 千代ちゃんのお父様は、亡くなった千代ちゃんのお母様の事を今でも想い続けている、とても素敵な人だった。

 私を“あの目”で見る事は無かったし、千代ちゃんを見る時も、決して人買いの目をする事は無かった。

 

 暫くして、千代ちゃんは何故かよく怒る様になった。

 大抵は、ベッドで素肌を重ねればなあなあに出来たのだけれど、その日の千代ちゃんは怒るのではなく泣きながら「ハルお姉様が何を考えているのかわからない」と言って私に倒れ込んだ。

 試しに擬態をやめて、彼女を抱き寄せながら言葉を探したけれど、言葉以前に、声が私の喉を震わせる事さえ無かった。


 怪物は死んだのだと思った。同時に、自分自身が何者なのかわからなくなった。


 どうにかお家に帰って、私は縁側で呆然とお庭を眺めていた。お庭では、飼っている猫ちゃんが退屈そうに欠伸をしていた。


 お庭に鼠が一匹入って来て、ついさっきまで呑気に欠伸をしていた猫ちゃんはそれを見ると目の色を変えた。猫ちゃんはあっという間に鼠を捕まえた。


 私は、どうにか猫ちゃんの牙から逃げ出そうと必死にもがく鼠に視線を奪われていた。もがいて、もがいて、鼠は突然動かなくなった。私は、鼠が死んでしまったのだと思った。

 しかしよく見ると、動かない鼠はまだ激しく息をしていた。それだけ激しく息が出来るのなら、まだもがく事が出来る筈なのに。


 そこまで考えて私はやっと理解した。つまりあの鼠は、猫ちゃんの血肉になる事を自ら選んだのだ。


 それに気がついた私は、涙が出る程の強い感動を覚えた。

 ——愛だと思った。鼠と猫ちゃんの愛の発露の極みだと、そう思った。


 だから、私に乱暴した前のお父さんも、私を売ってそのまま自殺してしまった前のお母さんも、お父様に殺されてしまうリスクを負ってまで私を買った元ご主人様も、自分の地位の為に私を利用しようしているお父様も、私が妹になってから常に“あの目”で見てくる上のお兄様も、その為にお父様に隠れて私に暴力を振るうお母様も、全員、私を愛していて、私も彼らを愛していたのだ。


 ——もっと誰かを愛そうと思った。私の中に復活したのは、怪物などでは無いのだと、そうも思った。


 私の中に復活した“それ”に名前をつけようと思って少し考えた。お部屋の本を思い出して“夜叉”が良いだろうと思った。

 猫ちゃんの足元には頭の無くなった鼠が転がっていて、猫ちゃんは一途にそれを齧っていた。




 “夜叉”が復活してから、私は千代ちゃんと身体を重ねる度に、彼女の身体を噛む様になった。強く噛むと、千代ちゃんは小さく声を漏らした。

 彼女のその声が痛みから来る反射なのか、悦びから来る嬌声なのかは分からなかったけれど、私はとにかく噛んだ。彼女の腕を、肩を、首を、胸を、脚を。本当は彼女を食べてあげたかったのだけれど、それは出来ないから、精一杯の愛を込めて。

 終わる頃には千代ちゃんの身体のあちこちに私の噛み跡が刺青のように刻まれているのが常だった。


 同じ頃に、私は千代ちゃんのお父様と井上先生に近付いた。井上先生はすぐのぼせてしまったけれど、信一さんは最後まで後ろめたそうにしていたのが、今思えば印象的だった。


 井上先生からは、幾つもの医学の本と手術用のセットを貰った。欲しいと言った後に“レオナルドダヴィンチ”と昔の優れた芸術家の名前を唱えた。ダヴィンチが、解剖学に精通していた事を井上先生が自慢げに語っていたのを覚えていたから。

 それを聞いた彼は酷く感動した様子で、何の迷いもなく私が欲しいと言った物全てを差し出した。


 信一さんからは阿片を貰った。「阿片を見てみたい」と言うと、次に彼の部屋にお邪魔した時には用意されていた。「喫んでみて」と言ったら彼は少し渋ったけれど、もう一度ゆっくりと「喫んで」と言ったら、彼は阿片を喫んだ。すかさず私は彼の唇に自分の唇を重ねた。

 そんな事を五、六回も続ければ、キスをせずとも彼は自ら阿片を喫む様になっていた。


 そして最後にもう一つ、“事”を起こす前に私はある謎を解かなければならなかった。それは、明らかに絞殺だったご主人様の死因が、何故か病死になっていたという謎である。私も同じ事を起こしたいと思った。


 手掛かりはお父様が言った“梶谷診療所”という名前だけだったので、直接本人から聞こう思った。

 私はお父様と二人きりになる機会を伺って“梶谷診療所”について聞いた。

 お父様は初めこそ口籠もっていたけれど、夜叉が復活した私に対して、お願いを払い除けられるような立場を彼は既に失っていたから、結局すぐに口を割った。


 そうして、梶谷診療所は大まかに二つの仕事をしているらしいことがわかった。

 一つ目は、依頼主が身内の殺人や醜聞の隠蔽などの理由で、殺人を病死として処理してしまうというもの。

 二つ目は、犯人が分かっていない場合に依頼主は警察を頼れないので、警察の代わりに犯人を依頼主に引き渡すというもの。


 充分に使えると思った。信一さんは阿片中毒になっているし、世間ではデモクラシーが叫ばれて久しい。彼に梶谷診療所という選択肢を与えれば、それを選ぶ可能性は高いと思った。


 私は信一さんのお部屋に下品なゴシップ誌を持ち寄り、上流階級の人間の殺人を面白おかしく紹介している悪趣味な記事を見せた。

 彼が「酷い記事だ」と言ったから「梶谷診療所を使えばよかったのに」と返した。


 彼は少し驚いた顔をして「あれは、この辺りの人しか知らないんだよ。それにしても何処でそんなものを知ったのかい?」と答えた。

 信一さんは既に梶谷診療所を知っているという事実だけで充分だったから、私は「お父様から聞いたのよ」とだけ言ってゴシップ誌を彼の前で捨てた。




 全ての道具が揃って、私はお勉強を始めた。

 本を一冊読んで、二冊読んで、全部読んで、頭の中で練習して、鼠で練習して、猫ちゃんで練習して——全ての準備が整った。


 その夜、私はいつもの様に信一さんを酩酊させ、千代ちゃんの部屋に戻った。千代ちゃんは半狂乱の様子で私に抱きついた。


 私は真剣な顔をして「千代ちゃん、心中しましょう。愛してるわ」と言った。

 そのまま私達はベッドで服を脱ぎ、私は今までで最も強く千代ちゃんを噛んだ。出血を伴う程だったけれど、千代ちゃんは幸せそうな顔をしていた。


「自分で死ぬのは怖いでしょうから、私がやってあげる」


 私はそう言って、千代ちゃんに阿片を喫ませると首を絞めた。



 準備の甲斐があって、その夜千代ちゃんは今まで見た中で最も綺麗な姿になった。私がそれを知っていればそれで良かったから、そのまま私はお家に帰った。



 後日、千代ちゃんは病死という事になっていて、“梶谷診療所”の仕事ぶりに感心した。


 千代ちゃんのお葬式が終わってから、井上先生によく呼び出されるようになった。彼は毎日飽きもせず“あの目”で私を見ていた。


 初めの頃は興味を惹いた彼の芸術の話も、結局同じ様な事を繰り返すばかりで面白くなかったし、彼への用はもう済んでいたから、私の事はさっさと諦めて貰おうと思った。

 私は信一さんの話をする事にした。私は彼を阿片中毒にした事と、彼が阿片を喫む度にキスをしていた事を話した。


 私の話を聞いた井上先生は、初めてお父様を見た時に、彼がご主人様へ向けた目をしていた。

 信一さんは殺されてしまうのだろうと思った。井上先生は冷静では無かったから、すぐに捕まってしまうのだろうとも思った。


 “事”がほとんど終わってしまった。悲しくは無かった。けれど、楽しい時間が終わってしまう直前の、感傷のようなものを抱えながら、私は理科準備室を後にした。


 校庭を歩いていると、綺麗なお姉さんに話しかけられた。彼女は“梶谷診療所”を名乗った。


 殺人を病死にしてしまうシステムと、こんなに早く私に辿り着いた捜査の手腕に興味が湧いた。楽しい事は尽きないと思った。


 しかし当然と言ってしまえばそうなのかも知れないけれど、梶谷診療所の仕事を間近で見るのは難しい様だった。


 私は副島さんに送ってもらう道すがら、梶谷診療所に近付く方法を考えた。

 依頼をするだけのお金を動かすのは大変だし、梶谷さんは私の事を少し怖がっていた様に見える。

 お父様からそれだけのお金を引き出すのも、梶谷さんの目を“あの目”に変えるのも、時間がかかり過ぎて、全てが終わってしまう前にこなすのは現実的では無いというのが結論だった。退屈の影がまた一つ、迫ってしまう様な気がした。


 私が梶谷診療所でお話をしている間に、信一さんが殺されていた。お顔を灰皿で何度も殴られて殺されてしまったらしい。きっとキスの話をしたから、お顔を執拗に狙ったのだろう。ほぼ間違いなく井上先生の仕業だと思った。


 使えると思った。寧ろ、信一さんが死んでしまったのに、そうとしか思えなかった自分に苦笑した。


 私は信一さんのお葬式で梶谷診療所に行く約束を取り付け、そこで信一さんを殺したのは恐らく井上先生だという事、次に殺されるのはきっと私であるという何の根拠もない推測を話し、助けを求めた。


 梶谷さんは少し考えた後「近藤を呼ぶ」と言ってから梶谷診療所から出て行った。

 副島さんに「近藤さんって?」と訊ねたら、どうやら警察の人らしかった。井上先生を警察に突き出す理由も、酷くまともな物だった。

 退屈が、すぐ背後に立っている様な気がした。


 私は、“梶谷診療所”を試そうと思った。




「——副島さん、夜叉って知ってますか?」

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