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梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


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13/16

夜叉 13.

「そういう訳だ。三島信一さん殺害の容疑で逮捕する」


 そう言って近藤は、不躾に椅子を足で退かしながら警察手帳をはためかせ、二人に近付いた。

 それを見た井上は酷く狼狽えた様子で梶谷に喰って掛かる。


「どういう事だ?だって、さっき商売だって、金さえ払えば犯人が私でなくなるって——」


 梶谷は惚けた顔で井上を見た。


「僕はただの医者ですよ?ただの医者が殺人事件の犯人を教えられて、する事は一つじゃないですか。警察を呼ぶ事です。貴方がどんな“勘違い”をなさっているのか知りませんけど」


「勘違いだと?ふざけるな。梶谷診療所がどんな仕事をしているかなんて有名な話じゃないか」


 語気の強い井上の言葉に、梶谷はわざとらしく浮かない表情を浮かべる。


「それに関しては僕自身も困っているんですよ。先程貴方が言った通り、僕は卑しい男ですから、金払いの良い上流階級の方ばかり相手しているんです。そのせいで謂れのない噂話が広まってしまって」


「何を、言っているんだ?噂話だと?」


「ええ。忌々しい噂話だと常々思っていましたが、まさかこんな使い道があるとは。わからないものですね」


 一連の梶谷の言葉は明らかな欺瞞であったが、しかしそれをこの場で覆す事が不可能であると理解した井上は床にへたり込んだ。


 梶谷は椅子から立ち上がって近藤の通り道を作る。近藤は刺激しないようゆっくりと井上に近付き、そのまま労わるように肩を貸す。

 近藤に助けられて項垂れながら立ち上がる井上を見た梶谷は、少しばかりの同情から口を開いた。


「——佐伯ハルに出会ってしまったのは、運が悪かった」


 井上は項垂れていた頭をもたげ、睨むように梶谷を見つめるだけだった。梶谷は話を続ける。


「あの娘はやがて幾十、幾百の人間の魂を弄んで貪り、肥えていく怪物になる」


 最早井上は反論をしなかった。黙って梶谷を睨むだけである。


「君も、その肥やしの一人になってしまったんだ。だから、運が悪かった」


 そこまで聞いて、井上は嘲るように鼻で笑った。


「肥やしだと?馬鹿な事を。私ほど彼女を思っている人間が居るものか。彼女もそれに応えてくれていたのだ」


 佐伯ハルに対してだけでなく、自分自身に対しても酷い妄信。もうこの男は救えない。

 つい今しがた梶谷の胸中に去来していた同情は鳴を潜め、眼前の男に対する嫌悪感に支配されてしまった。

 だから一つだけ、梶谷は意地悪な質問をする事にした。


「——佐伯ハルに噛まれた事は?」


「噛む?彼女がそんな事をする訳がないだろう?」


 井上の答えを聞いた梶谷は悪意を込めて、酷く憐れむような表情を顔に浮かべて見せつける。そしてわざとらしく敬語を使って井上に語り始めた。


「三島千代から佐伯ハルに宛てた手紙を読む機会があったのですが、三島千代は他の人間に佐伯ハルが噛み跡をつけるという事に対して強い不快感を露わにしていました」


「梶谷」


 近藤が少々強い口調で声を上げた。彼は今回の件についてまだ大まかな理解であるが、今梶谷のしている話が状況をより悪くするであろう事は明白であり、警察官としてはやめさせるべきであると考えたのである。

 それでも、梶谷は止まらない。


「つまり噛み跡を付ける、或いは噛むという行為自体に、佐伯ハルにとって愛情表現的な、そうでなくてもそれに近しい意味があるのだろうと考えます」


「梶谷、もうよせ」


「つまり、あの娘にとって貴方は噛み跡を付けるに値する人間では——」


「梶谷!」


 近藤の声は殆ど怒号と化し、気付けば光源が月灯のみになった暗い部屋の空気を揺らした。漸く梶谷は口を閉じて——残響。




 ほんの少し間を置いて、井上は静寂を破る事なくゆらりと立ち上がった。窓を背にしている為に逆光となり、表情は見えない。怒りで醜く歪んでいるのかも知れないし、絶望で涙を流しているのかも知れない。


 そして突然、井上は素早く身を翻すと引き出しを開けてメスを取り出し、近藤と梶谷に向けた。二人は瞬時に井上から距離を置き、部屋は緊張感に支配される。


 その後、井上は梶谷と近藤に向けていたメスの刃先を自分の頸に当て、身体の中心に向かって引き切った。

 暗い部屋の中で鮮血が黒々と噴き上がって飛び散り、井上が倒れ込む。


 喉に流れ込んだ血液と、直ぐには止まらない呼吸がコポコポと嫌な音を立てる。その後ヒューヒューと何処か間の抜けた空気音が繰り返されて減衰していき、遂に聞こえなくなった。


 極めて滑らかな、何気ない日常のような所作に呆気に取られ、茫然と光景を見ていた梶谷は、正気を取り戻すと近藤を見て口角を上げる。


そして「薄っぺらな芸術家気取りさんは、怪物の肥やしである事を自覚した途端に自殺してしまいましたとさ」と言い捨てた。


 顔の上下を全く別の人格が動かしているのでは無いかとすら思える、そんな笑顔擬きだった。

 近藤は不快感を露わにして、厳しい言葉を梶谷にぶつける。


「お前が殺したような物だろ」


「ああ、そうだね」


 梶谷はそう素っ気なく答えると井上の屍体に背を向ける。


「それでは急ぎの用が出来たので、一度診療所に戻るよ。何かあればそこまで」


 そう言って梶谷は部屋を後にした。








 梶谷診療所の応接室には、副島とハルが二人残され、気まずい静寂の中にいた。


「——梶谷さん、結局井上先生を警察に突き出すんですね」


「そうね」


 沈黙を破ったハルに対して言葉を探しあぐねた副島は、取り敢えずの相槌を打った。


「てっきり、この事件も隠蔽してしまうものだと思っていました」


「私も別に、此処で働いて長い訳では無いけれど、話を聞く限り井上先生が彼の顧客でない事は理解出来るわ。ああいう人が梶谷診療所に仕事を寄越して殺人を隠蔽すると、味を占めて繰り返すようになるから」


 二人の間に再び沈黙が訪れた。

 それを再び破ったのもハルだった。


「——副島さん、夜叉って知ってますか?」


「え?ええ。聞いた事はあるけれど、説明しろと言われると難しいわね。恐ろしい、鬼みたいな感じかしら」


 ハルは副島の言葉を聞いてから「一般的にはそんな認識ですよね」と前置きしてから話を始めた。


「夜叉は元々インドの神様で、人喰いの鬼神でありながら財宝や豊穣の神様という側面も持っているんです。それに夜叉には男と女が居て、女の夜叉はかなり官能的に表現される事が多いんですよ」


 突然おかしな話題を提示したハルに狼狽しながら、副島は「また急に、どうしてそんな話を?」と取り敢えず雰囲気を壊さない様に中身の無い簡単な質問を投げ掛けた。


 そんな副島に、ハルは不敵な笑みを浮かべて口を開く。


「——私に似ているなと思って」

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