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梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


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12/16

夜叉 12.

 梶谷に促され、井上は呟く様に話し始めた。


「——私は数学教師なのですが、芸術が好きでして」


「はあ」


 井上の口から出た“芸術”という言葉に嫌なモノを感じた梶谷は、敢えてわざとらしく“突然何を言い出すのだ”といった風に相槌を返す。


 井上が犯人であったなら、大方、話の本質は佐伯ハルに惚れてしまったという簡単なものだろうと梶谷には予想がついていた。


 どうやら彼は、自覚したら自尊心が損なわれてしまう思考や感情を曖昧で高尚そうな概念である“芸術”というヤツに丸投げし、その上でそれに詳しいと思い込む事で自分が優位に立った気でいるらしい。


 この手の勘違いは良家のお坊ちゃん等には特段珍しくもない症状であるが、梶谷にとって問題なのは、殺人に至るまで拗らせた奴などという滅多にお目にかかれないレアケースが“患者になってしまった”点である。さぞトンチキなお話が繰り広げられるに違いない。


「まあ、あなたの様な卑しい人間に芸術の真の価値など理解できる筈もないでしょうけれど」


 井上の皮肉めいた言葉に梶谷は安堵感を覚えながら「はい。理解できないので簡潔に仰って頂きたい」と少々早口で返事をした。


 助かった。先鋭化し過ぎると他者に対して心を閉ざすようになるらしい。ある程度危うい所に到達してからは拒絶される経験も増えていっただろう。それが更なる先鋭化に繋がって——と言う訳だ。

 これが診察であれば、その“芸術”とやらにある程度の理解を示すか、理解しようという姿勢をとりながら徐々に心を開いていく作業が必要なのだが、今回は商談である。匙は投げなくて済みそうだ。

 真剣そうな顔つきで話を聞き流しながらそんな事を考えている梶谷を他所に、井上は少し口調を強くして話を続ける。


「いえ、ですが話さない訳にはいかないのです。なにせ最も重要な“動機”に関わるお話ですから」


 梶谷からしたら動機など最もどうでも良くて面倒な話題に違いなかったが、急ぎ過ぎるのも不自然なので、取り敢えず相槌を続ける。


「私は様々な場所を巡り、様々な芸術を鑑賞してきました。充実感は確かにありましたが、しかし同時に何処か空虚でもあったのです。次第に私の芸術鑑賞の目的は、そんな空虚を埋められるような究極の芸術品探しになっていきました」


 突然饒舌になった井上に軽く不気味さを覚えながらも、梶谷は傾聴を続ける。


「当然そんな物が簡単に見つかる筈もなく、いよいよ胸中の空虚は死ぬまで持ち続けなければならない物なのではないかと考え始めた折の事でした」


 死んでいた井上の瞳に、光が差したような生気が宿る。


「究極の芸術品はある日突然、皮肉にも最も身近で最も嫌いな場所に現れたのです」


「それが佐伯ハルだったと。で、それがどうして三島家の殺人に繋がるんですか?」


 話の腰を折ろうと、情緒の欠片もない言い回しで口を挟んだ梶谷に、井上は少々の狼狽を見せた。しかしすぐ質問に対して回答を始める。


「彼女が千代さんとエス、というやつだったのはご存知でしょうか」


「ええ。その関係を続ける為に三島信一と愛人ごっこのような事をしていたという事も知っています」


 梶谷の口から出た三島信一の名前に、井上はほとんど陽の落ちた部屋でも分かる程に顔を赤くし、目尻を吊り上げて怒りの形相を露わにしていた。


「そこが問題なんだ!」


 突然声を張り上げた井上に驚きつつも、梶谷は顔色一つ変えずに黙っている。

 

「エスのような勘違いは女学生なら仕方のない事だろう。しかし三島信一はその財力や権力であの子をたぶらかしたんだ。そんな事、許されない」


 怒りのあまり理路整然としない言動と、コンプレックスの見え隠れする内容に、梶谷はいよいよ辟易を隠さない。


「僕には寧ろ、妻を亡くした信一さんの喪失感に佐伯ハルが付け込んでいるように感じましたけどね」


「あの子がそんな事をする訳がないだろう」


 酷い盲信だった。既に梶谷には、これ以上無駄な話を続けるだけの忍耐力は残っていない。


「まあそんな事、正直言えば僕にはどうでもいいのです。今興味があるのは、あなたがどうやってあの三島邸に入り込んで殺人までやってのけたのかという事です」


「私もその点には兼ねてから苦心していました。不謹慎ですが、千代さんが亡くなったのは都合が良かったと言えます。元担任というのは充分、押し掛けるだけの大義名分になり得ました。館に入ってさえしまえば、後は簡単です。彼が阿片中毒を患っている事も、その為にすべての使用人には暇が出されている事も聞いておりましたので、無理矢理に阿片を勧めて酩酊させた所を——という感じです」


 梶谷は、この後の面倒な仕事に思いを馳せながら、最後の詰めとして「ちなみに、凶器は?」と訊ねた。


「灰皿だったと思います。酩酊している三島信一が、あの子の名前を呟いた辺りで衝動的に」


 ここまで聞いて梶谷は、開け放してあったドアを見た。


「あー近藤、これだけ自供があればもう良いか?」


「充分だよ。お疲れ様」


 そう言いながら、恰幅の良い男性が部屋に入って来た。

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