表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
梶谷診療所の帝都裏稼業  作者: 林 刺青


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/16

夜叉 11.

 男は、とある使命感に燃えていた。最早使命感と言うより強迫観念に近いそれは、彼の社会的地位や世間体やその他諸々、彼の身の上の一切を無視して彼の体を突き動かし、遂には人を殺めるに至る程であった。


“これ以上佐伯ハルが何者かに汚されてしまう前に、事を済ませなければならない”


 男は、芸術に対する造詣にかなりの自負心を抱いていた。しかし彼は佐伯ハルを目の当たりにしたその瞬間から、記憶に仰々しく飾ってあった絵画達は公約数的な佐伯ハルの模倣に過ぎないという妄執に囚われてしまっているのである。


“梶谷診療所が動くような状況では、三島家の事件の犯人が明らかになってしまうのは時間の問題だろう。そうなってしまえば全てが手遅れになってしまう”


 男は、自身が強い加虐嗜好を抱えていたらしいという事に最近気が付いた。彼は自分の両手を眼前に広げ、三島信一を撲殺した際の感覚を、決意と少々の昂揚とを以て握り締めた。


“きっと自分が馬鹿であったなら、ハルに対しても同じ事をしたいと思ったのだろう。しかし自分には、芸術について深い理解があるのだ”


 佐伯ハルの美は今、まさにその盛りである。それは彼にとって、侵されてはならない神秘であり、永遠にしなければならない奇跡であり、焦がれてやまない芸術の粋であった。


 男は浮き足立つような気持ちを鎮めようと辺りを見回した。周囲と馴染めなかった為に、追いやられるように引き篭もっていたこの部屋ではあったが、いざ今生の別れとなれば何処か物悲しさを覚えてしまうものである。

 そうして鎮まりかけていた男の気持ちは、ノックの音と共に再び燃え上がった。


 男は机の上に置いてあったメスを引き出しにしまい、麻睡薬をポケットに忍ばせると、昂る気持ちを悟られないよう細心の注意を払って「どうぞ」と短く言った。


 ドアがゆっくりと開く音が聞こえ、男の昂揚はピークに達しようとしていた。


「こんな時間まで理科準備室にいらっしゃるなんて、教育熱心ですね。井上先生」


 男の声。それも、つい最近聞いたばかりの。予想していなかった出来事に、心拍数の上がっていた心臓に更なる負荷がかかる。


 井上は目を見開いて振り返った。そして彼はドアの前で涼しげな顔をしているハイカラな男を見留めた。


「梶谷、又三郎——」


 ほんの少しの静寂の後、井上は隠しきれない狼狽をそのままに少し震えた声で梶谷に話しかけた。


「何故、こんな所に?」


「それは、僕が女学校に入れている理由が聞きたいのかな?それとも——」


 梶谷はそう言うと涼しげな顔から一転してニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、井上を見る。


「別の誰かが来る予定だった筈なのに、どうして僕が来たのかを聞きたいのかな?」


 井上は険しい表情で梶谷を黙視する事しか出来ないでいた。梶谷はそれを見ると、わざとらしく眉を上げて肩をすくめる。


「まあ良いか。どうせ後者が知りたいだろうから、前者から説明しよう」


 梶谷は部屋にいる男に殺人の容疑が掛かっているにも関わらず、何の躊躇もなく部屋に入ると椅子に腰掛け、足を組んだ。一応保険の為かドアは開け放してある。


「——と言っても簡単な話で、ここの校長先生は結構なお得意様なんだ。学校というのは案外“不幸な”事故が起きがちだからね」


 井上は変わらず、得意気に話す梶谷を睨むだけである。


「さて、ではお待ちかねの後者についてだけれど——これもまあ、よく考えればこんなに引っ張る程の事も無いような酷くつまらない話だ」


 梶谷は椅子から立ち上がると、いまだ険しい顔で黙っている井上を煽るような表情で見下ろした。


「無論、君にとって今ここに居るべきだった人物から聞いたという訳だが——」


「余計なお喋りは辞めましょう」


 突然口を開いた井上に、梶谷は言葉を中断すると続きを促すように片眉を上げた。


「結局あなたは、僕をどうしたいんですか?」


 井上の言葉に、梶谷は驚嘆の声を漏らす。


「想定より話が早いね。助かるよ。僕がここに来た理由は、君と商売の話がしたかったからなんだ」


 梶谷の始めの言葉に一段と身構えた井上だったが、続いた言葉が予想外だった為に少し気の抜けた表情を浮かべる。


「商売?」


「ああ。金さえ払って貰えれば、事件の犯人は君ではないという事になる」


「僕を疑っているんですか?そもそも僕が犯人である証拠が——」


「余計なお喋りがしたくないと言ったのは君だった筈だけれどね」


 梶谷にとってこの提案はちょっとした博打だった。

 結局彼の持っている情報は佐伯ハルの証言のみである。故にこれ以上の詮索は難しく、ここで認めない様なら無理に問いただす事はしないつもりだった。


 しかし井上は「——いくらなんですか?」と短く言った。


 大当たり。

 梶谷は真顔のまま内心でほくそ笑み、敬語で井上に話しかける。


「まあ、まずは詳しく話を聞かせてもらってからです。警察が動いてしまっている以上高くつくのは覚悟して下さい」


「そこまでの大金、払えないですよ」


「それに関してはあまり心配しなくても良いかと。ウチへの支払いは“患者”として毎月通ってもらう形で分割払いという事になっています。税金とか、色々面倒なんでね」


「そうですか」


 梶谷は再び席に着くと、目線を井上に合わせた。


「という訳で、“事件”について詳しく教えていただけますか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ