2-21 天井裏にナニかいる
ビル管理会社でダクト掃除の作業員として働く、「僕」――川内ヤスノリには人に言えない秘密がある。
幼少時、ケイドロの最中に迷い込んだ異界で、彼は美しい女性の姿をした妖怪たちに出会い、眷属とされてしまったのだ。
妖艶な女主人「病葉」と、各々が固有の職分と能力を持つ、草花の名を持つ侍女たち。彼女たちはヤスノリをときに監視しある時は助けてきた。だが、彼女たちは決して、人に対して友好的な存在ではない。
ある日、次の仕事現場である無人のビルを検分に出かけたヤスノリは、そこでオカルト掲示板サイトの常連である女子高校生、七枚ミサキに出会う。彼女はビル内で行方不明になった親友を探しているというのだ。危険だと諭されてその場は立ち去ったミサキだったが、その夜、ヤスノリは彼女もまた消息を絶ったと知る――
昼休憩の残り時間は、あと10分ほど。
僕は仕事先の現場であるビルの、巨大な室外機が立ち並ぶ屋上にいた。
初夏へと切り替わる季節。真上を見上げれば、空は金属の硬度さえ感じさせる、鈍い輝きを帯びている。
普通ならさっさと屋内へ戻りたいところだが、今日の仕事はこのビルのダクト清掃。午後からはあのバカでかい掃除機の親玉を動かして、上のフロアから順に、通風ダクトの内壁に溜まったうんざりするような汚れを吸い取っていく。時には作業員自らダクトに潜り込んで、だ。
そんなわけで僕は、肌を炙る日差しの中、「いまのうち」とばかりに屋外の空気を深呼吸していたのだが。
(そろそろ戻らないと、なあ)
何事にも終わりは来る。階段に続くドアのノブに手をかけて、薄暗い塔屋内へ戻ろうとした、その時。
不意に、前触れもなく。
――しゃりん、と鳴った。
どこか遠く、それでいて耳元で発したように響く、乾いて張り詰めた弦音。
筝のもののようだが実のところは分からないこの音に、僕は聞き憶えと確信があった。
塔屋に入って後ろにドアを閉め、狭い天井を見上げる。
冷房を切った屋内の淀んだ空気は、いつのまにか夜の山中を思わせるひんやりと澄んだものに変化していた。
「――近くにいるのか。誰? 壱髪?」
抑えた声で呼びかけると、見上げたのとは別の方向から返答があった。
――いえ。鬼灯と申します。お初にお目もじいたします。
声の方へと視線を巡らす。そこには天井に足をつけて逆さに立つ、緋色の水干をまとった小柄な少女の姿があった。
絹糸の光沢となめらかさを持つ純白の髪と、整った造作の幼顔。名にふさわしい輝きを宿した赤い瞳。その瞳がこちらを見上げている。
そういうと奇妙だが、他に表現しようがない。なぜなら彼女の髪も服の裾も、僕の感じているものとは反対向きの重力に従っているかのように、足元へ向かってすとんと落ちていたからだ。
鬼灯は右の手に細い竿のついた小さな灯籠を捧げ持ち、その光が薄い紙越しに彼女の足元をぼんやりと照らしていた。
「鬼灯、か。あの三人の他にも、まだいたんだ……」
――はい。庵主さまのために灯りを掲げ、露払いを致すお役目のもの。故に誰よりも疾く、何処へなりとも参上いたします。どうぞお見知りおきを。
「あ、ああ。初めまして……それで、用件は? 僕はいま仕事の途中でさ。もうそろそろ、仲間のいる一階のロビーに戻らなきゃならないんだ」
――さしたるお時間は頂きません、ヤスノリ殿。ただ庵主様より「明朝の外出は凶。くれぐれもお気をつけて」との言伝にございます。
「……病葉がそう伝えろと? 外出が凶って……?」
いきなり伝えられて飲みこめる話じゃない。僕は困惑しつつも懸命に自分をなだめ、できるだけ穏やかに訊き返した。
「……なにが危ないのか、教えてくれないかな」
――申し訳ありませんがお教えは出来かねます。こはヤスノリ殿のみの危難にはあらず、迂闊に盤面を動かさば、障りは器を溢れて遍く及び、収まりのつかぬ仕儀となりましょう故。
そう言いさしながら、鬼灯は先ほどの立ち姿から奇妙な角度で体を傾けると、僕には見ることのできない何らかの直線の上をたどるように虚空に身を走らせて、ふっと姿を消した。
塔屋のなかの空気が一瞬に切り替わり、森厳な気配は幻のように掻き消えた。
「……ああ、もう」
それなりに長いつきあいになるが、彼女たちとのやり取りはいつもこんな具合だ。有無を言わさず、事を詳らかにせず、こちらの都合を慮らず。それでいて、頼みもしないのに何かと僕の身辺に現れてはあれこれと干渉してくる。
仕方のないことだ――姿はいかにも美しく可憐な少女たちとしか見えないが、彼女らは人間ではない。それに、結果的に僕の身を守ってくれてはいる。
僕自身はっきりとその正体を把握できているわけではないが、あれらは何か妖怪の類なのだと思う。
普段は僕たち人間に知覚できない虚空のどこか、隠され閉ざされた空間に潜んでいて、ある程度の高さがあるビルや家屋の、最上階の天井裏を通じてだけこちらへ降りてくる。
彼女たちと出会ったのは十年以上昔のこと。僕、川内ヤスノリはまだ小学校の五年生だった。あれ以来、僕は彼女たちに絡めとられたようになって、あちらの世界と縁を切れないままでいる。
◇ ◇ ◇
その頃僕らの間では、いささか危険で大人に知られたら叱られそうな遊びが流行っていた。
「ケイドロ(刑事と泥棒)」といえば通りがいいだろうか。ある程度の広さのある街中など、入り組んだ場所で行われる複数vs複数の大規模な鬼ごっこだ。
ただし、僕らのはちょっと特殊なバージョン。
場所は、学校から1キロほど離れたところにある、高層アパート。だいぶ昔にUR都市機構が建設した、最大20階建ての集合住宅群だ。
二百平方メートルくらいの区画に作られた、それぞれ特徴的なフロア形状をもつ4棟のビルに、併設するスーパーマーケットと、ベンチとジャングルジム程度の小ぢんまりした児童公園が二つ。これらを舞台に、立体的に逃げ回り追跡するのが僕らの「ケイドロ」だった。
大体どのビルにも高速エレベーター1本と昇降階段が二本ある。エレベーターを使えば最上階から地階まではあっという間だ。だが全行程を乗ったまま移動すれば、待ち伏せも簡単になる。
追う側も逃げる側も、相手を出し抜くためにタイミングを測って階段とエレベーターを乗り換え、エレベーターの電光表示を見て停止する階を予測。
時にはあっと驚くタイミングで鉢合わせしたりしたものだ。
その日、僕は泥棒チーム側で、そして負けていた。捕まっていないのはクラスの親分格コウジと、僕の二人だけ。残り時間は十五分。
17時きっかりの時点で泥棒が全員捕まれば刑事チームの勝ち。一人でも逃げ延びていれば泥棒チームの勝ちだ。
要するに、ここから勝ちを拾う方法は限られていた。
〈向こうのチームは、泥棒リーダーが子分を救出に出して、自分は隠れ続ける前提で考えてる。だから牢屋――ジャングルジムの周りは手薄。足の遅い奴が二人いるだけだ。確認した。だから俺がギリギリで牢屋に突撃して、奴らの目を引く〉
コウジが携帯で作戦を伝えてくる
「モッチとイクヤは?」
足の速いその二人にはさしものコウジでも捕まるだろう。さて彼らはどう動くか?
〈あの二人ならバラバラに、俺とお前を探してるみたいだな。だがそれが間違いさ。お前が最後まで隠れてられればこっちの勝ちだ〉
僕は現在、フロア面積がもっとも大きな2号棟の、12階から13階へ上がる階段の曲がり角にいる。普段なら足が遅くて真っ先に捕まってしまう僕なのだが、今日はたまたま運がよかった。
階段で上がってくるのは大変だったが、ここまで来れば体力のある他の連中も、エレベーターを使わずに上ってくることはまずない――それでも僕は隠れ場所をさらに移動することにした。
そのまま階段を最上階へと上がる。エレベーターには乗らない。階数表示の移動で、少なくとも誰かがそのエレベーターに乗っていることがバレてしまうからだ。万が一にも外へ響かないよう足音を殺して一歩一歩。
20階にたどり着くとあたりは静まり返っていた。
僕は階段部分から一歩踏み出して目的のものを探した。以前やっぱりケイドロをやってて、僕が「刑事」チームのメンバーとしてこの階まで「泥棒」を探しにきたときにみつけた、古ぼけたアルミ製の折りたたみ脚立を。
なぜそんなところに放置されてるのかは、僕にもよく分からなかった。多分どこかの清掃業者か、ビル管理事務所の忘れ物だったのだろう。
天井のパネルに設けられた点検孔の下に脚立を運び、よじ登って何とか蓋に手をかける。ズボンのベルトを抜き取って結び付けたのは、上がった後脚立を引き上げて隠してしまうためだ。
「ここに隠れてしまえば、見つからないだろ……」
上った後は脚立を点検孔の縁から引っ張り上げる算段で、その向こうの暗がりへ身を躍らせる。
だが、その先にあったのは天井裏にあるはずの、配管や配線ケーブルといったものの走る通気孔などではなかった。
長い年月をかけて滑らかに磨かれたようなしっとりとした木肌の、板張りの回廊が見える。丹塗りの柱と欄干が、広々とした吹き抜けの空間と回廊の内側を隔て、そのさらに内懐には明かり障子が立ててある。
そして、なんとも異様なことには、その回廊の「床」は僕の頭上にあったのだ。
「な、何だ? ここって……」
戻らなければ。ケイドロの勝敗など、もうどうでもいい。
点検孔を求めて背後へ伸ばした指が、これもあり得ないものに触れた。本来あるはずの打ち放しコンクリートやアルミ枠の落とし蓋はそこになく、滑らかに仕上げられた柾目板の、がっしりした格子天井が広がっている。
(帰れない……?)
まるで理解できないが、何かとんでもないことに巻き込まれている――そう認識して息を吞み身を堅くしていると。
不意に、前触れもなく。
――しゃりん、と鳴った。
どこか遠く、それでいて耳元で発したように響く、乾いて張り詰めた弦音。筝のものだと、その時は思った――





