2-12 大魔法使いの、愛しの箱庭
空に浮かぶ小さな不思議な箱庭。
その中には猫の私と、寝たきりのマリアが住んでいた。
夜にだけ箱庭を訪れる大魔法使いのご主人は私をなでながら、こう言った。
「この箱庭は、マリアの記憶でできているんだ」
大魔法使いはマリアを愛していた。いつも蕩けるように甘く愛を囁いて、見つめて、とても大切にしていた。
……けれど、そのマリアの住む箱庭を、私は壊してしまった。
「クソ猫。ぶっ殺してやる」
なぜ私は猫なのか、マリアは寝たきりなのか。
箱庭が壊れたことで猫の私がマリアだった記憶は取り戻したけれど、肝心の部分が謎のまま。
私に愛を囁いてたご主人は、一体誰なの……!?
箱庭を壊した私を殺そうとする大魔法使いと、マリアの体を取り戻そうとする猫の私の、すれ違い溺愛ストーリー。
大魔法使いがマリアの弟子だったという記憶は、一体どこへ飛んでいってしまったのでしょうか。
空に浮かぶのは、手のひらサイズの白い正方形。
地上から見たらそんなものは見えなくて、空を飛んでいてもそんなものは見えない。けれど、近づくと大きく見える箱だと、ご主人は言った。
「衝突したら大変だからね」
それでもぶつかりそうなら、防御魔法が発動するんだって。魔法でできた空に浮かぶ小さな箱に、毎日夜だけやってくる大魔法使いのご主人が、そう教えてくれた。
(私はその中に住んでいるの?)
見上げて「にゃあー」と尋ねると、ご主人は大きな手のひらで私の頭を撫でつけた。
「この箱庭は、マリアの記憶なんだ。お前は、マリアの記憶の中に住んでいるんだよ」
だから悪さはするなよ、とゴロゴロと喉を鳴らす私に言い含める。よくわからない私はそれ以上は深掘りせずに「ンン」と相槌を打った。ご主人の言うマリアという人は、私と同じ箱庭の中で眠り続けている。
*
目が覚めた時、それは私が『私』を認識した時のこと。風に揺れる木漏れ日にじゃれついていた私は、ぴたりと動きを止めて考えた。
(何をしているんだろう?)
木々に遮られた日差しが葉の切れ目から差し込んで、地面で揺れて。それを追いかけることの、何が楽しかったんだっけ。
途端に興味を失った私は歩き出した。明るい森の中。知らない場所。なのに、不思議と不安はない。
(ここはどこだろう)
穏やかな流れの、耳に心地よいせせらぎが聞こえる。近づいてみれば、広くはない川が水を遠く遠くへと運んでいた。覗き込んだ私がくっきり映るほど川の流れは緩やかで、水は透き通って綺麗だった。
(――猫だ)
水面に映った自分を、猫だと認識した。それが不思議で首を傾げた。水面の猫も同じく首を傾げた。
(これは、私なんだ)
三角耳が二つに、ピンと長いヒゲ。アーモンド型の瞳は、川の水以上に透き通った灰がかりの水色。毛色は白のようだけれど、くるりと回ってみても背中は自分じゃ見えない。見た目は子猫じゃないのに、あれ、灰色がかったブルーは子猫の瞳の色じゃなかったっけ。
(なんでそんなことを知ってるの?)
思考はとりとめなく頭の中を流れていく。けれど、そこに焦点を当てると途端に霧散してしまう。砂を掴んでいるような気分だった。じゃあいいやと簡単に諦めがついてしまうのは、私が猫だからだろう。きっと人間だったら、こんなにもあっさり疑問を手放したりはしない。
(……この考えも、すでにおかしい)
何がおかしいのか、やっぱり掴み損ねた答えには辿り着くことができない。この疑問も早々に放り出した私は、水面に映る可愛らしい猫をもう一目だけ見てまた歩き出した。
「お前はなんだ?」
そこではじめてご主人と出会った。
見上げるほどの長身は猫だから仕方ないとして、羽織ったローブの下は明らかに痩身。黒髪に、瞳も黒い。なんなら目の下もクマで黒い。肌は不健康な白さで、第一印象はむしろこちらが「なんだお前は」だった。
「なぜここに生き物がいる?」
ご主人のその質問は、自問自答らしかった。眉間に皺を寄せてぶつぶつと何かつぶやいてるご主人は薄気味悪く、猫から見ても不審者そのもの。関わりたくないなと逃げようとしたら、首根っこを掴まれた。
「ぎにゃ!?」
「まぁいいか。ここにいるということは、マリアに関わるものだろう」
ぶらんと宙吊りにされて、私は雑に捕まった。
(首の皮を掴んで持ち上げていいのは、子猫だけなんだけど!)
手足をピンと突っ張って、なおかつ皮を引っ張られ怪物のような形相の私は「お前、可愛くないな」とご主人に憐れまれた。
「マリアはあんなにも美しいのにな……」
そうして悲哀をまとったご主人に連れてこられたのが、件のマリアが眠る小屋だった。
*
森の中にある小屋は、扉はたしかに森に繋がっているのに、窓の外は一面に空が広がっていた。空の中にある、と言ったほうが正しいかもしれない。
一対の椅子とテーブル、背の高い本棚、それからベッド。ただそれしかない。生活するには不向きな小屋の、唯一あるベッドにマリアは眠り続けていた。
(美しいかなぁ。猫のほうが可愛いと思うけど)
髪色は素朴なブルネット。ご主人よりも血色のいい頬。眠り顔だけで見ればまぁ、悪くはないかなという印象。
マリアの枕元に座った私は、しっぽをうねうね揺らして覗き込んでいた。ご主人にこの小屋へ連れられてから、マリアは一度も目を覚ましていない。
(なんで起きないの?)
薄く色づいた頬をぷにぷにと押す。すると、ご主人がすかさず私を抱き上げにきた。
「こら。マリアに傷をつけてはいけないよ」
爪なんか出していないけど、ご主人が構ってくれることが嬉しくて私はゴロゴロと喉を鳴らした。
「僕はここに長居しないほうがいいんだ」と言うご主人は私を少し構って、マリアとお話をして、すぐに帰ってしまうから。
(夜のあいだもいればいいのに)
ゴロゴロと喉を鳴らす私を抱いたまま、ご主人はマリアの髪をすくった。マリアを見つめるご主人の瞳が蕩けるように優しくなる。
「愛しいマリア。君のシリウスが来たよ」
聞いているだけの私が恥ずかしくなるほどに声も甘く、くすぐったく愛を囁く。すくった髪に口付け、また愛を囁いて、そして名残惜しく髪を手放した。一呼吸おいたご主人は、またいつも通りに戻る。
「――さて。マリアに傷をつけてはいけないよ」
改めて私に念を押して、私の頬を指先で撫でる。マリアの枕元に私を下ろしたご主人は、窓から夜空の中へと帰っていった。
私は窓枠に飛び乗って後ろ姿を探すけれど、空の中にもうご主人は見えない。見下ろすと小さな明かりがたくさん集まっていて、大きな街があった。
(私も、行ってみたい)
ご主人のいない時間は、暇をつぶしに森へ行く。日がな日向ぼっこも悪くないけれど、森に夜は訪れない。自由に行き来できる森と出ていくことのできない空とでは、魅力が違う。
「お前にこの窓を開けることはできないよ」とご主人が言った通り私には窓を開けられなくて、肉球を押し付けてへばりつくことしかできない。吸い込まれるように街を見つめる私は、思いを馳せてしまう。自由を、この箱庭の外へと。
――――カチャン。
(えっ)
押し付けた肉球が急に居場所をなくし、窓にへばりついていた私は全身で前のめりに傾いだ。開かないはずの窓が、あっさりと開いてしまったから。
「んにゃああ!?」
窓枠に爪をかける間もなく空に放り出され、猫でもどうにもならない高さの街の上空。ゾッと毛を逆立てて、私はまっさかさまとなった。
(おっ、おっ、落ち……!)
けれど、ふわりと。
暗闇の中を一直線に落ちていくはずの私の体は勢いをなくし、まわりに淡い光が舞う。まるで灯火のような、夜空に映える優しい光だった。その光が、私の体に触れて弾けた。
(あっ……!?)
ひとつずつ、すべてが私に触れて。弾けて、私の中に記憶を溶かし込む。猫になってから失っていた記憶を。私がなぜ自分を猫だと認識できたのか、その根源を。
思い出のようにあたたかく、優しく包み込むように、私はすべての記憶を胸にしまって地上に下り立った。
(私は、人間だった)
そして、その人間が――。
地面を踏みしめる音が背後で聞こえた。振り返ればそこにはご主人が立っていて、腕にはマリアを抱きかかえていた。私はパッと花開く心地でご主人に駆け寄った。
(ご主人! あのねあのね、びっくりなの。ご主人もびっくりするわ。あのね、ご主人の大切なマリアが、私――)
低い詠唱と共に、私の鼻先をかすめる距離に雷が落ちた。
「……お前。マリアの箱庭にいたから面倒見てやっていたが、それをぶっ壊すとはどういうことだ」
ぶっ壊す……?
私は空を見上げた。でも、箱庭は見えない。そもそもご主人がはじめに教えてくれた通り、地上から箱庭は見ることができない。
「お前はあの箱庭から出られなかったはず。なぜなら、お前はマリアの記憶だからだ。なのになぜ窓を開けた? 開けられた? お前が外に出てしまうと、マリアの記憶は――」
ご主人の声が小さくなる。ぎゅっと力強く抱えられたマリアが苦しそうだ。
「箱庭は、形を保てない……」
俯いたご主人は力なく吐き出し、そしてギッと私を睨みつけた。
「クソ猫。ぶっ殺してやる」
「ギニャッ!?」
ご主人の詠唱で雷が矢の如く落ちてくる。私は毛を逆立てながらなんとかかわして逃げて、ご主人に訴えた。
(ご主人! 落ち着いて、ご主人……!)
息を継ぐ間もなく詠唱が重ねられ、隙がない。ご主人の瞳は冷徹で、今まであんな瞳を向けられたことがなくて恐怖を覚える。しっぽに電撃がかすり、じりっとした痛みに顔が歪んだ。
そこで、はたと気づく。違和感なく当たり前となっていた存在。マリアを抱く、――男の正体とは。
(ご主人って、誰なの?)
降り注ぐ雷を避けながらご主人――男の顔を改めてまじまじと見る。
取り戻した記憶にあの顔はいたかしら。私に近しい男性で、黒髪の魔法使いなんていたかしら。
どれだけ考えても、辿り着く答えはなかった。マリアを抱く男を、私は知らなかった。
(誰、あいつ誰! 私知らない! 私今まであんな、あんな男の元に……)
愛を囁かれて、髪に口付けられて。日課となっていたマリアへの男のすべての行為に、ゾッとした。マリアをきつく抱きしめて離そうとしない男に、私はおぞましい視線を向けた。
(あの変態から、私は体を取り戻さなくちゃいけないの……!?)





