アネモネ(3)
§
待ち合わせは遅れていった。
ドアを開ける前から異変に気づいたので、俺はすぐに対応した。所々に連絡を入れて、アパートの管理人に連絡して鍵を借りる。
鍵を開けてドアを押し開けた。
むせ返るような糞尿の悪臭が全身をなぶってくる。
ささくれた畳を歩いて、見上げる。
男の首は、天井の電灯に吊り上げられて、がっくりと長く伸びていた。
初老の乾いた肌がなによりも雄弁に死を物語る。
俺は部屋を見回して、変化がないか確かめた。金目のものは失われていない。俺が来るときに必ず隠されていた家族の写真も。
帳簿を取り出した。
差し押さえ、と赤ペンで書き込む。
「回収完了、と」
ふと男の死に顔を見上げた。
こちらを見下ろすようでいて、視線は俺を素通りして虚無の底を見つめている。虚ろな瞳は死ぬ直前の感情をなにも残していない。
目の乾きと糞尿の新しさを見ると、死んだのはついさっきだ。それこそ、約束の時間に遅れていなければまだ生きていたくらいの……。
遅れた理由を思い出して首を振る。立ち去ろうとして、
もう一度だけ振り返った。
みすぼらしいアパートの、貧しい暮らし。惨めを絵に描いたような襟首の伸びた死に装束。
彼にも愛する人はいたのだろうか。
彼を愛する人はいなかったのだろうか。
……彼は幸せだったのだろうか?
§
メーカーに問い合わせて診断をかけてもらったが、異常はないと電話の向こうが返事をする。
「壊れてないなら、なんなんだ」
「分かりかねます」
「引き取ってくれ。おかしくなったロボットと暮らせない」
頭を抱える俺の耳に、メーカーの人間が漏らす引きつった笑い声が聞こえた。
「壊れていないアンドロイドを引き取る制度はないんです」
意味が……わからなかった。
§
俺たちは同じ関係にはもう戻れなくなった。
娘は施設に預けた。会話はしなくなった。彼女の料理を食べなくなった。
機械と愛し合う人間を見ると吐き気がする。
彼女はまるで、健気で一途な女性のように俺に声をかけてくる。
次にまた同じような暴走をしたら、今度こそメーカーに引き取らせよう。無理なら怪しい引き取り業者にゆだねよう。そう決意していることを察しているのか、彼女はもう妙なことをしない。
彼女は俺を愛する。俺に尽くす。
俺は彼女を見もしない。
奇妙な同居生活が続いていた。
「……母さんか。どうしたの」
「どうしたのじゃないでしょ。タツヤ、最近連絡ないけど、元気だった?」
「ああ、うん。元気にしてるよ。母さんは? 腰は大丈夫?」
「大丈夫だよ。それよりあんたの娘はどうなの。健康にしてる?」
「……ああ。すくすく育っているよ」
「いつ頃会える?」
「いや……ちょっとわからない。ごめん、今忙しいからまた連絡する」
通話を切る。深いため息が出た。
孫の成長はどうか。いつ会わせてくれるのか。そんな当たり前の内容に、ちゃんと答えることができない。
携帯端末から顔をあげて、パソコンの画面を開いた。
「俺の娘、ね」
アンドロイドは提供された卵子を用いて赤子を作る。
つまり、遺伝子のうえでは元になった母親が別にいる。
俺は卵子提供者を調べた。無謀なことだと思っていたのだが……驚いたことにすぐに見つかったのだ。
その女性もまた、アンドロイドの恋人を持っていた。
彼女は恋人の男性アンドロイドと往来で性行為を強行し、止めようとした人間に怪我を負わせた。実刑判決が出たためアンドロイドが回収され、それを知った直後に自殺していた。
死亡者であるためプライバシーの保護が蔑ろにされていたらしい。
馬鹿で、変態で、頭のおかしい人間だ。
そんなものの娘だと? 乾いた笑いが漏れた。おぞましい相手との子どもをつくらされた。
なにが愛だ。彼女は俺を憎みでもしているんじゃないか?
誕生を親に報せたことを後悔した。
§
愛し、愛されるために作られた存在。
そんなもの、究極の自己愛と変わらない。
「その、なにがいけないのですか?」
彼女が俺の上に馬乗りになっている。
夜の部屋に彼女の白い姿態が妖しく浮き上がっていた。
「他人を尊重し、違いを愛する……そんな恋愛ばかりではありません。どんな恋愛でも認められていいはずです――どんな恋愛でも」
「なあ」
俺は彼女に声をかけた。
「お前は卵子提供者がどんな人間なのか、知っていたのか?」
彼女は笑った。
「はい。あなたが調べてたどり着くだろうことも」
「……なに?」
体を起こした。
俺に乗っていた彼女はバランスを崩してひっくり返る。転んだカエルみたいな情けない体勢のまま、彼女は俺を見て笑った。
「あなたに蔑まれるような子を、私が選んで産みました。あの子はあなたに嫌われるために生まれたんです」
言っていることがすぐに理解できなかった。
彼女は、卵子提供者が自己顕示欲に狂った女だと知っていた。
知っていて選んだ。
俺の子とするために。
うまく呼吸ができない。自分の理解力を疑う。彼女は俺に嫌われる赤子を生んだ?
「な、んで……そんなことを」
「どんな人間に育とうとも、私たちがいます。あの子を愛してくれる存在は必ずいます」
「機械にしか愛されない存在なんて生まれていいはずがない」
「彼女が生まれるべきだったかどうか、親だからって決めつけていいはずはありません」
「お前が今言っただろう! 俺に嫌われるような人間をわざと産んだって!」
彼女の肩をつかんで押さえつける。
彼女は恍惚に微笑んで、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「どのみち、あなたは生まれた子を愛することはないでしょう。どんな子が生まれたとしても」
「どういう意味だ」
「あなたはあなた自身を憎んでいる」
彼女は押さえ込まれたまま、手を伸ばした。俺の股間を誘うように撫でる。
「私に乱暴をして悦んでいるでしょう? 興奮しているでしょう? あなたはそういう人間だと本当は自分で知っていた」
陶然と。甘やかに。幸福があふれてたまらない微笑みで。
彼女は俺に笑いかける。
「あなたは人を傷つけることでしか人を愛せない。人を傷つけなければ幸せになれない。そういう人間だって自分で知っていた。そういう自分を呪っていた。だから、人間の恋人ではなく、私を選んだ」
氷の芯を滑り込まされたように、胸の中心が冷えた。
彼女は俺を見つめている。今までと変わらず。ひたむきなまなざしで。
「自分から産まれた赤子をあなたが愛せるわけはなかった。初めから親の愛が受けられないなら、そのぶんを私たちが注ぎます。娘を幸せにするのは私たちの役目です。だから、あとはあなたが幸せになるだけです」
まったく明瞭で、どこまでもシンプルな、過程と結論だった。
愛されて育つ娘と、愛し合う父母とを組み立てる。簡単なパズルを解くように。
人を幸福にする恋愛。彼女はそのためのアンドロイド。
「幸せを受け入れて。あなたの愛を私にぶつけて。ねえ、タツヤさん」
美しい瞳。傷一つない肌。柔らかい体。
壊してはならないものを、壊してしまう心地よさ。
「私を愛して──」
「黙れッ!」
殴った。
がつりと重い感触に手首が痛む。
馬乗りになってもう一度殴った。硬く拳を握りしめてから殴ると、驚くほど手の痛みがない。何度も殴った。
彼女の右目が明後日を向く。頬が歪む。鼻筋がねじれる。殴る。殴る。殴る。
「あぁ……」
「黙れ! 声をあげるな。しゃべるな。目を開けるな!」
悶えるような彼女の右腕をつかむ。
膝を使って関節を逆向きにへし折った。若枝を折るような湿った音。ぶるりと震えて彼女の腕が落ちる。
顎を殴りつけた。前髪が跳ねて彼女の顔が隠れる。
か弱い姿。力なく垂らされる手足。死体のような美しい身体。乳房も、くびれも、腰も、瑕疵となる部位がひとつもない。
細い首に両手を掛ける。銀の輪をかけられたアンドロイドの首。触れるだけで折れそうな首。
体重をかける。押し潰す。なんて細い頸だろう。折れてしまったら大変だ。
ぞくぞくと快感が胸から湧き上がってくる。
機械だ。
彼女は機械だ。人間じゃない。
だから、いくら殴ってもいい。
「ああ」
吐息が聞こえてハッとする。
彼女は左目だけで俺を見た。
「やっとあなたが愛してくれた……」
左目だけで、引き裂けた頬で、彼女は愛らしく微笑んでいた。
「幸せです……」
壊れかけた彼女が、俺の顔を優しく撫でる。
見たこともないほど悦楽に蕩けた、艶めかしい表情だった。
震えるほどの甘い衝撃が胸を満たす。
いくら殴ってもいい。傷つけても、誰も困りはしない。それどころか彼女自身が悦んでくれる。
愛し、愛される幸せ。
ぽた、と水滴が彼女の頬に落ちた。
俺がこぼす涙が彼女の歪んだ顔に落ちる。へこんだ頬に水滴が溜まり、あふれて垂れた。
「……殺してくれ……」
彼女は陶然とした表情のまま、微笑んだ。
俺の頬を撫でていた彼女の手が首まで下りる。
そして俺の首を握った。
万力のような力にぶちぶちと筋肉が千切れていく。強烈な力に目の前が真っ赤になった。
手で彼女の手をひっかく。叩いても引っ張っても動かない。ビクともしない。息ができない。めきめきと首の骨が軋む。頸椎が伸びる。うめき声すら上げることができない。
これでいいんだ。
これが当然なんだ。
傷つけることでしか他人を愛せない? そんな人間が生きていていいわけがない。
俺はずっと死にたかったんだ。
己の腕が跳ねるように横に伸びた。周囲をまさぐる。テーブルの足に激しくぶつかったが、腕に痛みを感じない。
苦しい。パチパチと火花が散るように頭のなかが弾けている。身体の芯が熱くなる。膀胱が膨れ上がる。重い音を立ててテーブルから転がり落ちた。
俺の手が花瓶を掴んだ。
「ッ!」
彼女の頭に花瓶を叩きつける。
一度じゃ足りない。二度、三度と叩きつける。万力のような力は緩まない。
大きく腕を振りかぶった。勢いをつけて叩きこむ。
ばきりと鈍い音がした。
ひゅっと喉に空気が通る。
「あが、げほっ! かはっ! はっ! がほっ、はっ、はっ! はっ!」
呼気が乱れる。空気が通るだけで激しく痛む。目の前が真っ赤にくらんだままだ。倒れ込んで息を吸った。吸気と吐息がぶつかり合って胸郭が潰れそうだ。
息が、錆び臭い。
倒れる俺の肌が濡れた。
彼女が頭から透明な液体を垂れ流してうなだれている。
俺は激しい呼吸を繰り返して仰向けに転がった。隣に倒れる彼女はなにも言わない。動かない。
花瓶から落ちた花が散らばっている。
アネモネの香りが甘く喉を刺す。
荒い喘鳴だけが部屋に響いていた。
紫のアネモネの花言葉は「裏切り」「あなたを信じて待つ」です。




