13話 師の教え
「やあ、よく来てくれたね。ルイス。ところでその顔……」
「こけただけです」
「……まあ、追求はしないけどさ。気をつけるんだよ、色々と」
先生の下を訪れた俺に開口一番先生はそう言った。
きっと先生は大体何があったのかを察しているはずだ。それでも深く踏み込んでこないのは正直助かる。話したところでどうにもならないし、そもそも話したくない類の内容だからな。
「それで俺を呼んだ用件ってのはやっぱり?」
「そうそう。その件だったね」
先生は俺の催促に頷くと、近くにあった実験用フラスコに火をつけてコーヒーを淹れだした。どうやら長い話になるらしい。
「結論から言おうか。僕が解析した結果、あの召喚儀式用魔法陣には……」
火の勢いを調整する先生はこちらに振り返り、その結論を口にした。
「何も問題がなかった」
「……え?」
何も問題がなかった?
「でも、それだと何でリリィは……」
「そう。そこだよ、ルイス。まあひとまずかけたまえ」
呆然とする俺に先生は席を勧めるが……正直、悠長に構えている余裕なんて今の俺にはなかった。
「せ、先生! 本当に魔法陣には何のミスもなかったんですか!? 魔力回路が一本ズレてたとか、文字列が足りなかったとか……っ!」
「そんな初歩的なミスをこの僕がするわけないでしょう」
「だ、だけど……」
魔法陣製作に関して言えば、この学園に先生以上の使い手はいないだろう。それは断言できる。だが俺は今回に限っていえばミスがあったのだと思っていた。
いや……そう思いたかっただけなのかもしれない。
だって、そうでなければ……
「この結果は正式に学園側にも伝えてあります。ですから君にとっては残酷な通知となりますが……他の眷属との再契約は認められなくなりました」
「そ、そんな……」
魔術師が一度に契約できる眷属は一生に一個体。
それは眷属召喚における絶対遵守の法律だ。
そしてそれは同時に俺が今後、一生眷属を得ることが出来ないということも意味していた。
「…………」
俺はずっとこの儀式のために準備をしてきた。
能力の足りない俺を補ってくれるパートナーがいなければ卒業は難しいと分かっていたからだ。だからそれこそ入学した当初からこの儀式にかけてきた。俺の人生を賭け、膨大な時間を掛けた。
だがその結果がこんな馬鹿げた話だなんて……
「認められるわけ……ないだろうがッ!」
「ルイス!」
強く拳を握り締める俺に先生の叱責が飛んでくる。
だが俺は内心の憤りを止めることが出来なかった。
「こんなのどう考えてもおかしいでしょう!? 先生だって分かってるはずだ、人族の女の子が眷属として召喚されるなんて聞いたことがない! 明らかにイレギュラーな事態が起きているのにどうしてそれに対処しようとしないんですか!?」
ここで認めてしまえば俺の今までの苦労が全て水の泡になる。
そんな予感が俺にはあった。
「俺は強い眷属を手に入れないといけないんだ! それ以外の眷属なんて俺は──」
「ルイス、落ち着きなさい。少なくとも今ここで……"彼女"の前でそんなことを言ってはいけない」
「…………あ……」
先生に言われてから気付く。
そうだ……そうだよな。ここでそれを口にすることは即ちリリィの存在の全否定だ。まだ幼い彼女の前で言っていいことじゃない。
「リリィ、俺は……」
何とか弁明しようと振り向くと、そこには……
「うっ……うぅ……」
──ぽろぽろと大粒の涙を零すリリィの姿があった。
「……っ」
俺がその姿を前に呆然としていると、リリィは目元を押さえながら俺から逃げるように研究室から走り去っていった。
「追いかけなさい、ルイス!」
「…………」
「何してるんですか! ルイス!」
先生の緊迫した声が聞こえる。だけど、俺の体はまるで金縛りにでもあったかのように動かなかった。あの顔、あの表情、あの涙……その全てに見覚えがあったからだ。
『貴方に……貴方なんかに、私の何が分かるって言うんですかっ!』
まるで脳裏に直接響くかのようにその声が、その姿がフラッシュバックした。俺に向け、悲痛な叫びを訴える少女。俺は……また傷つけてしまったのか?
「ルイス! なぜ追いかけないんですか!」
「……俺にはやるべきことがあるんです。リリィに構っている暇は……ない」
──いや、違う。
リリィとアイツは別人だ。少し似ているだけの別人だ。
ならば俺は自分の目的を最優先にしなければならない。そうでなくては何のために今まで努力してきたのか分からない。俺は……前だけを見て進むのだ。
「僕はルイスの目的を知っています。だからこそ言わせてもらいますけどね。君がここであの子を見限ることはイコールで目的が達成されるってことじゃない。君は目的を優先するあまり周りが見えなくなっているんだ。君は……間違っている」
そう言って俺の間違いを断言する先生。
だがそれは……強い人間の理屈だ。
「……先生に何が分かるって言うんですか」
「何?」
「才能があって、何でも出来る先生に何が分かるって言うんですか!」
詰め寄ってきた先生を押し返し、睨み返す。
「先生は誰もが認める一流の魔術師だ! これまで何の苦労もなく勝ち上がってきたんでしょうよ! 眷属も必要とせず、ただ自分の才能だけで今の地位に上り詰めた先生に、俺の気持ちは分からない!」
これが八つ当たりだというのは分かっていた。先生は何も悪くない。先生の言っていることは全面的に正しい。だけど……俺は先生ほど強くない。
「俺には……全てを手に入れることなんて出来ないっ」
俺は弱い。たった二つしかないこの手では大切な人さえも守ることは出来ないのだ。でも……それでも俺は諦められなかった。
失ってしまうと分かっていながら、それを手放すことも出来ずただ必死に抱え続ける日々。もしも、他の物に手を伸ばしたならたちまちその僅かに残った希望さえも俺は取り落としてしまうだろう。それが何よりも怖かった。
「俺は……弱い人間なんですよ……」
気付けば俺は力なく呟いていた。まるで神父に懺悔する信徒のように。
その言葉を聞いて先生は……
「……この世に強い人間なんていませんよ」
どこまでも真剣な顔で、俺を見つめていた。
「もしもルイスに僕が強く見えたのなら、それは僕が強がって生きているからです。僕だって……いや、誰だって本当は弱いものなんですよ。痛いのは嫌だし、辛いことからは逃げ出したくなる。それが普通なんです」
予想に反して、先生は声を荒げるでもなく淡々と俺に告げた。かなり一方的に俺は先生を詰ったというのに、先生は俺を責めなかった。
「だけどね。一度、逃げてしまえばそれは永遠の後悔となって自分を苦しめるのです。僕はそれが分かっているから強がって生きているんです。いつだって自分を奮い立たせて歩いてきた僕は君の人生哲学、嫌いじゃないんですよ」
──進歩なきものに勝利なし。
それは俺がずっと言い続けてきた言葉の一つだ。
「歩みを止めることは即ち、敗北を意味する。ええ、僕もそう思っていますよ。だからこそ僕はいつだって理想の自分を演じるのです。迷ってしまえば足が止まってしまうから。臆してしまえば足が震えてしまうから」
先生は自分のことを俺と同じ弱い人間だという。
でも……俺にはそんな風には思えなかった。
「目的のためには寄り道なんてしていられません。それは当然のことです。僕も君が"本当にただそれだけの理由"で彼女を見捨てるのなら文句は言いません。でも……ルイス。君は本当に彼女が自分の足を引っ張ると、本気でそう思っているのですか?」
「…………」
「彼女と暮らす中で、君にとってプラスなことは何一つなかったんですか?」
そんなわけない。そんなわけはない。
だって……リリィはずっと俺のことだけを考えてくれていた。ご飯を作ってくれた、掃除をしてくれた、慣れない勉強にも付き合ってくれた。確かに時間を取られてマイナスだったことはある。むしろ、プラスマイナスではマイナスの方が大きいくらいかもしれない。
だけど……それでも俺は……
「……楽しかった」
何とか搾り出した言葉は、俺の偽らざる本心だった。
「あいつはさ、天然だからよく砂糖と塩を間違えるんだ。それで変な味になって泣きそうな顔で俺に謝るんだ。ごめんなさいって、まるでこの世の終わりみたいな顔でさ……」
俺とリリィが一緒に暮らしたのはたったの一週間だ。
だからこんな風に形容するのは間違っているのかもしれない。
「でも俺は……それでも嬉しかったんだ。まずい飯だとしても、俺に料理を作ってくれるやつなんて……ずっといなかったから」
それでも……俺は心の奥底で思っていた。
ああ、これはまるで──『家族』みたいだと。
「……失ってから気付くものは多い。自分にとって大切なものだけをちゃんと残したつもりでも、取りこぼしたものの中にはやっぱりあるんですよ。大切だったはずのものが」
「先生……俺は、どうすれば良いんですか。ここでリリィを追いかけることが正解なんですか? でも、それでもしも卒業出来なかったら……」
「人生に正解なんてないですよ、ルイス。あるのは永遠の後悔と、一時の幸せだけです。全てを手にすることが出来ないと思うなら、それも良いでしょう。でも……君は本当にそれで良いんですか?」
「…………俺は……」
この期に及んでまだ踏み出せない俺に向け、先生は言った。
「進みなさい、ルイス! 失うかもしれないものを数えている暇があるのなら、一つでも多く拾い上げる努力をしなさい! なぜなら君は……」
そこで初めて先生は瞳に羨望にも似た色の感情を宿し、叫ぶように言い放った。
「君はまだ、何一つ失ってなどいないのだから!」
その言葉は俺の鼓膜を通り、そのまま俺の深い部分へと響き渡った。
それは力強くも、厳しい叱咤。迷っている暇があるのなら、ただ進めと。先生はそう言ったのだ。
「……先生は嘘つきですよ。だって……」
俺は視線を上げ、ようやくそこで先生と向き合った。俺よりずっと高く上から見下ろす先生が、このときばかりはいつもより大きく見えた。
「……先生は全く弱くなんてないじゃないですか」
俺の軽口に、先生は何も言わなかった。それこそ彼なりの強がりだったのかもしれない。だけど、その答えを聞いている暇は俺にはなかった。
「俺も先生のようになれますかね?」
「それは無理です。君は君にしかなれないのですからね」
先生は俺に歩み寄ると、ぽんと肩に手を置いた。
「だから君は君にしか出来ないことをやりなさい」
力なんてほとんど込められてはいない。だけど、やけにその手が重く感じた。
きっとここで俺が逃げても、先生はそれを俺の選択だと言って尊重してくれるだろう。だけど……
「はい……先生」
この人の期待を裏切ることだけは、したくなかった。
俺の憧れた唯一の魔術師である、彼の前だけでは。




