50.エッガース査察担当官
シュバルツ国のほぼ中央に聳え立つアルニム連峰にしか生息しないと言われている、鷲の紋章をいただいた馬車がヴァルドール領にある王立騎士団の派遣団駐留所に到着したのは、あと一刻ほどで日が落ちると言う黄昏時の事だった。
アルニム鷲とは、かつて連峰の最奥にある霊山から王国が危機に陥った時に舞い降り、王家に国難を乗り越える助言を与えたとされる霊鳥である。その霊験あらたかな鷲はシュバルツ王国を庇護し統括する中央府の紋章に刻まれている。ちなみに近衛騎士団は聖獣ブロイル、王立騎士団の紋章には霊獣デリウスが刻まれている。
ベッセルと並んで馬車を出迎えたマクシミリアンの目の前に降り立ったのは、黄昏時に溶けててしまいそうに見えるほど夕焼けのように真っ赤な髪を、硬く硬くひっつめに纏めた背の高い女性だった。襟の高い文官の制服を身に纏い、一般平民には手の出ない高価な薄いレンズを嵌めた眼鏡を掛け、つり上がった赤茶色の瞳が射る様な視線を放っている。
「騎士団小隊を任されているベッセルと申します。遠路はるばるお越しいただき、お疲れの事でしょう。騎士団長の元へただいまご案内致します。その後、直ぐに領主館へお送り致しましょう」
「お気遣い、痛み入ります」
胸に拳を当てる騎士の礼を取ったベッセル少尉とマクシミリアンに対して、言葉面とは裏腹に冷え冷えとした音程で淡々と答えながら、装飾の少ない濃紺の衣装に身を包んだフリーダ=エッガース査察担当官は腰を落とす貴族令嬢の簡素な礼を取った。それからチラリとベッセルの後ろに控えているマクシミリアンに視線を走らせた。ベッセルは頷いて口を開く。
「こちらは我が小隊所属のマクシミリアン=コリントです。ヴァルドール領の治安はかなり悪化しておりますのでエッガース査察担当官の御滞在中、護衛に付かせていただきます」
「分かりました。よろしくお願いします」
フリーダは鋭い視線をマクシミリアンに向けた。その厳しさに背筋がヒヤリとする。嫋やかさの欠片も無い事務的な仕草に、やはりこちらも一般的な侯爵令嬢とはかけ離れているようだ……とマクシミリアンは内心溜息を吐いた。何が『麗しい女性文官』だ、と心の中で無責任に呑気な台詞を吐いたウーラントに八つ当たりする。従妹のレオノーラとはまた違った方向に手強そうだ。
ベッセルの話では、フリーダはカーがマクシミリアンに与えている任務について承知しているのだろう、との事であったが、正確な所は彼にも伝えられていないと言う。馬車の護衛達の手前もあるだろうが、それもあってベッセルは杓子定規な対応をしているのだろう。それならマクシミリアンもそれに倣うだけだ。彼はあくまで、ヴァルドールに使わされた査察担当官の護衛で、それ以上でも以下でも無いのだ。
マクシミリアンを護衛に加え、馬車はヴァルドール領主館に向かった。領主館に到着したフリーダをヴァルドール領主ライムントが自ら出迎える。
派遣団が到着した時との温度差に相当の熱意が感じられた。王立騎士団に対しては挨拶に来るのを彼の執務室で座ったまま迎え、騎士団長にはただ頷いて一言返す程度だったと―――フォイゲ少尉が部下にこっそり愚痴を零していたと噂で聞き齧っていたのだ。
「おおっ……遠い所、我が領地の為にご足労いただき痛み入ります」
ふっくらとした体を弾ませて近寄るライムントが満面の笑みで両手を差し出すと、フリーダはきつい眼差しを緩めず片手を差し伸べた。グッとライムントの肉厚な掌が彼女の細い指を握る。彼女の冷たい双眸の上にある細い眉が、微かに寄ったような気がした。
対照的だ、と護衛として彼女の左脇に控えるマクシミリアンと感じた。
上機嫌な領主と、冷徹な視線を返す侯爵令嬢。
ライムントのような恰幅の良い領主が、若い女性文官に卑屈とさえ見えるくらいの態度を示す様子に違和感を抱くのはマクシミリアンだけでは無いだろう。満面の笑顔の中に光る小さな瞳が、実は笑っていないように見えるのもきっと気の所為では無い。
王都の助成を受ける為には査察担当官に良い印象を与えねばならないし、領主と中央府の一文官と言う立場以前に、フリーダは名門侯爵家の令嬢であり、王太子妃候補の一人でもある。内心どうあれ、表面的にはライムントは慇懃に振る舞わなければならないのだ。
一般的な侯爵令嬢であれば、そう言った思惑も含めて令嬢らしい嫋やかな笑顔を浮かべ話を合わせる所であろうが……『仕事に生きたい』と公言する変わり者だけあって、細い華奢な体に合わない豪胆な一面が窺える。あくまで冷徹な態度を貫くその姿勢に、只者では無い雰囲気をマクシミリアンは感じた。
しかしまさか『其処まで』とは想像していなかった。
ライムントを激怒させるほど、空気を読まない厳しい態度を取るとまでは。
上機嫌な領主が遠路はるばる自らの領地に赴いた査察担当官をもてなそうと開いた宴席。豪華な食卓と歓迎の演舞を披露する踊り子を目の前に―――彼女はこう切り出したのだ。
「雉の詰め物蒸し、牛肉のステーキ、魚卵の塩漬け……至極豪華な食卓ですわね」
「それはもう!査察担当官様には失礼があっては行けませんし、お気持ちやすらかに任務に当たっていただきたいですからな」
それを褒め言葉と受け取ったライムントは大仰に喜びを表した。
「踊り子達に、演奏隊……こちらはわざわざ私の為に市井からお呼び寄せいただいたのですか?」
「勿論フリーダ様に喜んでいただきたく思い、かねてから準備した物です。しかしエッガース侯爵家のご令嬢に、市井の踊り子などお目汚し。こちらは私の領主館が専任で雇っている者達です。王都からわざわざ呼び寄せまして、何処にも引けを取らない力量を持っているであろうと自負しております」
「絢爛な料理の数々……こちらで五万マルタは下らないでしょう。踊り子、演奏隊の維持に一人頭切り詰めても二十五万マルタから四十万マルタは必要となりますね。給仕の使用人も入れますと……単純計算で千三百万マルタ以上……」
フリーダは何を考えているか分からない表情で目を細めた。それをどう受け取ったのか、ライムントは呼応するように微笑みを浮かべる。
「担当官様に私共が贈りたい誠意はその程度ではございません。是非……こちらもお納めください。」
螺鈿細工の小箱を、ライムントはテーブルの上に差し出した。
「これは……?」
フリーダはそれに手を伸ばさずに問いかけると、ライムントはニタリと笑って首を振った。
「ほんの些細な贈り物でございます。王都で流行りの物、世に権勢を誇るエッガース家のご令嬢には珍しい物では無いと思いますが……王太子妃候補であるフリーダ様には幾つあっても困らないものかと」
宝飾品か何かか……?とその言葉尻から察せられる。脇に控えているマクシミリアンは見て見ぬ振りをしているが―――正直呆れてしまった。こういった賄賂の類は王都でも密かに横行していると聞いた事がある。しかし王立騎士団から派遣されたマクシミリアンの目の前で堂々と披露するなど、あり得ないと思った。それともたかが王立騎士団、と軽視しているのだろうか。王立騎士団は一般的には平民主体で構成されている。その王立騎士団の派遣団のトップである騎士団長、ラウク中尉ですら平民だ。平民蔑視の傾向が強いこの辺境の街では、貴族同士の賄賂など隠すまでもないと思われているのかもしれない。つまり路傍の石、領主館の使用人程度の扱いな訳だ。
辺境は遅れている―――とカーが酒を飲みながら言った言葉を思い出した。技術や流行の話では無い、常識やルール……そう言った物が前時代的なのだ。きっと祖父母の時代の数々の偏見や慣習がいまだに根強く残っているのだろう。貴族第一主義、男尊女卑……先進的な考えでそう言った物を是正しようとしている現国王の威光が、王国の端に存在するこの辺境には到達していない。その様子をまざまざと見せつけられるようだった。
しかし一護衛であるマクシミリアンには、この場でどうしようもできない事だ。
査察担当官の良識に任せるしかない。今些細な事に口を出して、この先の目的達成に支障を出すわけには行かない。マクシミリアンの目的は―――レルシュ=ヴァルドールの駆け落ちの顛末を調べ、それに繋がるアロイス=ゲゼルの関わりをあぶりだす事なのだから。
あくまで関心を表さずに控えていると―――それまで大人しくライムントの言葉を聞き流していたフリーダがフフッと、如何にも可笑しそうに笑い出した。
初めて耳に入った感情の混じる気配に驚いてそちらを見やると、フリーダのゾッとするような冷笑が目に入った。スッと手を伸ばして螺鈿細工が施された豪奢な蓋を開ける。ベルベットのような生地の中央に鎮座しているのは、ほの白く光る大粒の真珠が幾つも施された髪飾りだった。ニンマリと笑うフリーダの笑顔に、ライムントは我が意を得たりと笑みを深めた。
「それほど私に目を掛けていただき、有難く存じます―――なんて言うとお思い?」
低く冷たい、ブリザードのような声が、宴席の喧噪を切り裂いた。途端にシン……と場が鎮まる。
「は……?」
ライムントはその空気に乗り切れずに、笑顔のまま問い返した。
それに応じるフリーダの笑顔は―――情熱的な髪と目の色と対照的に、冷たさを極めた。
「私が中央府の査察担当官だと言う事実をお忘れのようですから、説明いたします。単純に今言った金額と差し出していただいたお土産の代金は助成の金額から当然減額させていただきます。」
「何をおっしゃられる!お若いフリーダ様は未だ政治と言う物になじみが薄いのですな。この程度の持て成しは貴族社会では最低限の礼儀ですぞ……」
やっとフリーダの意志に追い付いたライムントは、自制しながらも抑えきれない怒りを漏らした。その表情にはありありと、小娘であるフリーダを威圧する意図が現れている。
「領内経営が苦しいと言う名目で、今現在警邏の補強をするため貴重な王立騎士団の派遣団を駐留させているのです。―――にも関わらず、真っ先に切り詰めなければならない領主館では踊り子や演奏隊など必要のない遊興費に掛ける資金が潤沢に存在し、賄賂を贈る余裕もある……ああ、むしろ助成自体必要ないと中央に報告させていただくほか、ありませんわね」
「なっ……ばかなっ!以前査察にこられた貴女の上官の決定を覆す事になるのですぞっ!キュンネケ様は私共に対する助成をお約束下さった。あの方からは担当官は細かい金額を査定するだけの権限しかないと―――決定を覆す権限などお持ちでないと聞いております……!」
「キュンネケ主任財政官は、こんな小さな案件に私が派遣されると予想されていなかったのでしょう。彼が当初押していた文官であれば、確かにそう言う対応をせざるを得なかったかもしれません。彼は確かに私の上官ではありますが、あれほど使えない上官はいませんわね。典型的な、貴族の血筋以外の誇れる者の無い無能者ですから。王都でもあり得ない決定を自分の利益に利する相手に対して認可するなど、彼の行状は目に余ります」
既に温和な仮面をかなぐり捨てていたライムントの声は先ほどの猫なで声が幻聴かと思うほどに、低く低く響いた。
「は……何の権限があって」
「権限など関係ありません。貴方がキュンネケ主任財政官に何か便宜を図り不当な利益を得る約束をされているのなら、当然それを正すよう上申させていただくまでです。私が彼に対する権力を持っているかどうかと言う事実は些末な事です。その場合は上官の上官に伝えれば良いだけですから」
眉をピクリとも上げずに、静かな声で傲慢に言い放つ若い女官に対峙する領主はガタンっと椅子を倒して立ち上がった。
「―――気分が悪うなりました。下がらせていただく」
憎悪を浮かべるライムントの表情は真っ赤に染まって、まるで悪鬼のようだった。
「私も疲れました。客室を使わせていただいても―――?」
しかし領主の怒りも何処吹く風、火をつけた当人はシラッと尋ねた。ライムントはぐうっと唸りつつ、控えていた従僕を呼び寄せて何事かを呟いた。
「この者がご案内いたします」
「有難うございます」
「―――ゆっくり頭を冷やされる事をお勧めしますな。のちのち後悔なされませぬよう……」
そう言い放ち、ライムントは宴席の会場を後にしたのだった。
振り返らずに扉の向こうへ姿を消すふくよかな背中を見送りながら、詰めていた息を吐いたマクシミリアンが目を戻すと―――直ぐに立ち上がるかと思ったフリーダが、椅子にしっかりと座り直している。
「エッガース査察担当官?……お休みになられるのでは?」
領主に指示を受けた侍従も戸惑っている。勿論踊り子や演奏隊、宴席に招かれたヴァルドール領の有力者やライムントの親戚となる貴族達も。
すると、フリーダは無言で皿の上の料理を口にし始めた。流石に侯爵令嬢だけあって仕草は優雅なものだが―――この状況で普通に食せると言う心臓の強さは、一般的な侯爵令嬢のものでは無い。
「うーん、なかなか……流石、港に近い街の魚介類は新鮮だわね」
「あの……」
「貴方も食べる?其処、空いているわよ」
と、フリーダは赤い瞳で領主の立ち去った後の転がった椅子を見やった。
「いえ、遠慮いたします」
「そう」
―――とんでも無い侯爵令嬢だ。
レオノーラを超える変わり者に出会ったのだと、申し出を辞退しながらこの時マクシミリアンはそう実感したのであった。




