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34.彼女の後悔

レオノーラはちょっと口を噤んで、それからカップを置いて顎に華奢な指を掛け頷いた。


「『愚か』―――なるほど、マックスを好きになってしまった事を後悔しているのですね?」

「ちっ……違います!」


クラリッサは慌てて思わず立ち上がった。

それから自分の慌てぶりに気が付いて、ハッと息を呑みストンと再びその簡素な椅子に腰を下ろした。


「マックスを好きになった事は、全く後悔しておりません!」

「えっと、では何を後悔なさっていらっしゃるのですか?」


レオノーラは無感動に見える表情のまま、ジッとクラリッサの瞳を覗き込んだ。まるでテーブルの上に乗せられて観察されているような気分になってしまい、クラリッサは一瞬怯んでしまう。けれどもグッと堪えて、本心を打ち明ける。


「『愚か』と言ったのは……本心を押し殺して、分かったような振りをしていた私の事です。マックスを男性として好きなのに、そうじゃない振りを装っていました。父母や……マックス当人に対して」

「つまりクラリッサ様は―――正直に真実を語らなかった自分を『愚か』だと、こうおっしゃっているのですか?」

「―――っ、……はい。そうです、体面ばかり大事にして……本心を打ち明けずに苛々して八つ当たりしていた自分に気が付いて……途端に恥ずかしくなってしまったんです」

「それは……仕方の無い事では無いですか?」


レオノーラは指をピッと立てて、冷静に説くように言葉を繋いだ。


「クラリッサ様が大切にされていたのは、貴女ご自身の体面ではなくご両親やマックスの事情ですよね?クラリッサ様が本心を言えば、相手に迷惑が掛かるとご心配された上でお気持ちを言葉にしないよう判断された―――それは貴女が諸事情を考慮し、出来得る限り最適な対応を選択したと言うだけではありませんか?」

「それは―――買い被りですわ」


レオノーラの評価にクラリッサは思わず頬を染め、慌てて否定した。


「そうでしょうか……?」


レオノーラは腕組みをして、静かな声で滔々と述べ始めた。


「私など、マックスに良く指摘されたものです―――相手の気持ちを察し、慮る様にって。でも口にハッキリ出して頂かない部分は、正直私には推し量りかねるのです。―――クラリッサ様はきっと私とは違いますよね?相手が口にしない気持ちまで察する事が出来る。だから、他人の事情を慮ってしまわずにいられない。そう振る舞うべきだと―――私も常々バルツァー家に嫁いでから女中頭のビルギットや、前当主であられるカスパル様に指摘されるのです。そうしていつも最後には彼等はこうおっしゃるのです、『【アドラー家の至宝】クラリッサ=アドラー様を見習うように。一つ年下の彼女の方がよほど貴族令嬢としての振る舞いを見に付けている』と。……おそらく皆さん、期待されていたのですね。クロイツ様の奥様になるのはクラリッサ様であって欲しいと」


クラリッサは何と答えて良いのか分からず戸惑った。


まさか自分が貴族令嬢の見本のように、バルツァー家の侍女頭やクロイツの祖父に当たるカスパルに名前を引用されているとは思わなかった。しかも夢にまで見ていたクロイツの妻の立場に望まれていると聞いて―――戸惑ったが、しかし驚く事にひどく気持ちは平静だった。全く胸が……不思議なほど沸き立たない。


以前ならどう思っただろうか?

光栄だと喜んだだろうか?―――それとも当然の事だと、大きく頷いただろうか?


「確かに皆さまのおっしゃる通りなのですよね。私は色恋事だけではなくて、人の心の機微全般に疎いのです。時間があれば、仕事や植物と語らう事の方に振り分けてしまうのでやはり対人関係はどうしても不得手になってしまいます。だからいつも気が付くと、クロイツ様にご迷惑ばかりお掛けしてしまうのです……」


少し肩を下げるレオノーラに向かって、クラリッサは首を振った。

泉の前で、ピトヒロの籠を渡されて意気揚々と馬に乗るクロイツを思い出す。きっと彼はそれを迷惑などと思ってはいない、返って栄誉か俸禄のようにレオノーラにかしずけるのを喜んでいるのだと―――あの時クラリッサにも、彼の想いがヒシヒシと伝わって来たでは無いか。


「私では、クロイツ兄様の妻は務まりませんわ。クロイツ兄様が望まれているのは、レオノーラ様なのですから」


クラリッサは心からそう思った。


おそらくクロイツにはクラリッサは必要無いのだ。恋愛感情と言う意味だけでなく―――クロイツに足りない部分を補うのは、レオノーラにしかできない。二人の馴れ初めや付き合い全てを目の当たりにしている訳ではないが、多分それこそが……人が人を必要とする理由なのだと思う。


おそらくレオノーラの良さは、彼女がクラリッサのように振る舞う事で潰されてしまうたぐいのものだと、彼女は想像した。レオノーラがかなりの『変わり者』である事は今では全く否定する余地は無いが―――今、確実にその貴族令嬢にあるまじき、ともすれば失礼極まりないと叱責を受けるような率直で冷静な言葉に、ひどく救われる思いを抱いてしまうクラリッサがいる。

クラリッサと同じように……きっとクロイツもなにがしか、彼女の特別な、超然とした態度と考え方に救われた事があるのかもしれない―――そう思った。


レオノーラからは、周囲の女性達のほとんどがクラリッサに対して抱かずにいられない、羨望と嫉妬を微塵も感じない。ただ『クラリッサ』と言う対象物を観察し、私情を交えず判断してくれる。おべっかも、嫌味も、当てこすりも、持ち上げる事さえない。勿論持ち上げた途端その支えを蹴飛ばそうなどと言う画策は―――彼女の中には元からサラサラ存在しない。




本当に、敵わない。




クラリッサは改めてそう、実感したのだった。




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