第零夜 桜雨
その人と出会ったのは雨の日だった。
少し遡るが入学式の後、部活の提出願を貰って友達の後に校舎の外に出ると見事に雨が降っていた。
折角の桜も雨に散ってしまう。
「私って本当に最悪」
いつもそうだ。こんな時まで雨が降らなくてもいいのに。
傘なんて持っている訳がない。
「そんなこと言ってると、本当に最悪になっちまうぞ」
その時、声をかけたのが眼鏡をかけた先輩だった。天草千束にはとても背が高い眼鏡をかけた先輩に見えた。少し尖ったような黒髪。薄い、銀フレームの眼鏡。
そこから覗く金色の瞳。
「……何?」
「い、いえ」
千束は慌てて顔を伏せる。
千束は基本男子が苦手だった。中学の時にいい思い出がないからだ。同級生も、上級生も下級生も、当然のように千束を見下し、からかう。どこか偉そうで、怖くて、千束は更に困ったことになった、と少し怯えた。
しかし、そっと様子を伺うと、隣の男性はとんでもなく美形だった、ような気がする。そして背が高い。
覗き過ぎた。
「そんなに怖がらなくても、取って食ったりしねぇよ」
カラカラと笑う気さくな先輩だった。どう見ても同級生ではない貫禄がある。よっぽど千束が怯えている様に見えたのだろう。優しく声をかけて黒い傘を取り出した。
少なくとも、安物の傘ではない。制服と合間って、全身真っ黒に見えるが不思議と不気味な人には見えない。傘を広げる音がした。
きっとこのまま帰るのだろう。
「……」
妙な沈黙が気になって千束は顔を上げる。
「……あの、何か?」
「いや、帰らねぇの? お前、一年だろう?」
「あ、な、なんで分かるんですか!?」
「そりゃ、胸元に花付いてるし」
「……ああ! よく見てますね!」
千束は素直に関心する。
今日一日、走ったせいで花は崩れリボンに書かれた名前は滲んだ入学祝の花だった。
「そりゃ、俺達生徒会が徹夜で作ったからさ」
「そ、それはすみません! こんなにくしゃくしゃに……」
眼鏡の先輩は鞄を脇に抱え千束の花を取って器用に直している。
「天草 千束…… 千束善右衛門……天草 四郎率いる江戸のキリシタン」
「詳しいですね」
「生徒の名前書いたの俺だからさ。おや、と思ったんだ。女子か、男子かなぁ、って。女子だった訳か」
「先輩が……この字を……でも、申し訳ないです。私はこの名前、好きになれなくて」
とても達筆な字だった。
少し滲んでしまったが千束よりずっと達筆な字だ。自分の名前をこんなに丁寧に書いてくれるとまた違って見える。
「有名な歴史上人物に由来した名前ね。いいじゃん」
「完全に名前負けですよ」
「気持ちは分かるけど」
こんな雨になったのも千束のせいだ。
昔から、そうだった。今日なんて校舎から一歩出た瞬間に降りだした。湿った空気が強くなり千束は汗で湿った髪を耳にかける。そうしている間に眼鏡の先輩から花を手渡される。
「ほい。入学おめでとう。入学早々遅刻した天草千束さん」
「な、……なんで!」
「この花も生徒会が渡すことになってるからさ」
「凄いですね! 先輩は何でも知ってて……えっと、先輩……ですよね? 先輩は?」
「俺は三年の朝倉 宗滴。それじゃ」
ひらひらと片手を振り朝倉 宗滴は去っていく。千束は呆然と見つめたが数歩で宗滴は戻って来た。
「……え?」
「いや、帰らねぇの?」
同じ質問に戻った。
「あの……傘を忘れて……」
「……はぁ、入学早々すげぇのな」
「だから、そうなんです! 私は……いつも!」
「分かった。分かった。傘、貸すよ」
真っ黒で大きい傘を手渡される。
「……え、でも、それじゃあ朝倉先輩はどうするのですか?」
「安心しな。抜かりない」
そう言って朝倉は鞄から折り畳み傘を取り出し一振りして棒を伸ばす。
「すごい!!」
しかし瞬間にトラックが物凄いスピードで通り千束は水飛沫に塗れ宗滴の折り畳み傘は吹っ飛んだ。
「……」
「……」
しばらくの沈黙に居たたまれなくなる。
「……あはははは!!」
しばらくして、宗滴は大爆笑していた。目に涙を湛えて笑っている。
「……ひ、酷い」
千束は宗滴の背中をぽこぽこ殴った。
「いや、悪い、悪い。貶した訳じゃないんだ。単純に面白くて」
「……だから言ったじゃないですか」
「そう落ち込むな。傘はもう一本ある」
「そんな、悪いです」
「……その前に、これやるから体拭いた方がいい」
宗滴に白いタオルを手渡される。
「更に申し訳ないです!」
「いいから、使え。備えあれば、の一つだからまだ使ってねぇよ」
「……うっ」
白いタオルを頭に被せられて千束は更に申し訳なくなる。こんなに備えをしていれば千束もびしょ濡れにはならなかったのだろうか。
「……くしゅっ」
「言わんこっちゃない。風邪引くぞ。入学式の次の日、風邪とか……」
千束は慌てて素直に体の水気をタオルで取る。
「……はぁ」
唐突な溜め息に千束はまたびくりとする。
「あの、本当にすみません!」
「いや、どれを貸すべきかと思って」
「……はあ……傘は大丈夫ですから、私は……」
言い難そうに千束から背を向け宗滴は言った。
「……傘の前に、……言いたくはないが下着透けてるぞ」
「……!?」
白いセーラーだ。濡れれば当然、透ける。何故、朝、忙しいからと中に何か着なかったのか。初日だからきちんとセーラー服を着たいだなんて思うんじゃなかった。何故、夏服を着たのだろう。何故、カーディガンをロッカーに忘れたのだろう。取り合えず、急いで鞄で隠す。
「流石に備えも尽きる。学ランでいいか……」
「そんな、悪いです!」
「俺は別に。中にYシャツも着てるし、その中に黒いシャツも着てるから問題ない」
ざあざあと雨の音が妙に響く。
何故か学ランのボタンが外れる音はあまり響かず、そっと肩に学ランの重みが乗る。
「何から何まで、本当にすみません!」
「別にいいよ。方向は駅?」
宗滴はパッと黒い傘を広げる。
「はい」
結局、千束は宗滴の黒い傘の中に入って宗滴の少し後ろを歩いた。
隣は歩くな、と言われたからだ。
何故だろう、と必死に考えたが千束の頭ではまるで思い浮かばない。
宗滴は一度も振り向かず歩く速度を千束に合わせて歩いた。
だから嫌われている訳ではなさそうで。
それでも会話が思い浮かばない。忘れていたが出会ったばかりの男性なのだ。
「……俺は雨って嫌いじゃないよ」
「……え?」
「浄土の雨って言うじゃん。雨って、やっぱり農作物には必要だし、雨は地表の空気を綺麗にする」
「でも、桜が散ってしまって……」
「桜はいつか散るものさ。降らない雨がないように」
宗滴がすっと片手を空に伸ばした。不思議と雨粒がキラキラ光って見える。
「祈ってやろう」
「……え?」
「これ、持ってな」
千束は宗滴に傘と鞄を渡される。
「あ、あの! そのままだと濡れてしまいますよ!」
宗滴は全く気にせず、両手を天に広げた。
「天草 千束の一瞬が最悪でなくなりますように」
不思議な人だ、と千束は思った。それは正しくお祈り、だった。キラキラと雨粒が光る。その瞬間は千束には散る桜よりも美しく見えた。
「濡れちゃいますってば!」
千束は急いで宗滴に傘を渡す。直ぐに彼は振り向いた。
「これでしばらくは大丈夫だろ」
「……え?」
「雨が降った原因はアンタでもある。けどそれだけじゃない。これから雷雨になるだろうけど、その前に帰るんだな」
「……はい」
千束は何故か素直に頷いた。前を歩く宗滴は少し濡れている。首筋から水滴が滴って、それだけなのに千束は目を背けた。
気が付いたら駅に着いていた。
「あの……本当にありがとうございました!」
「いいから、さっさと帰りな。雨がひどくなる前に」
「は、はい!」
千束は何度もお礼を言うことを止めて素直に何度も頷いた。
宗滴は片手をひらひら振って駅中に消えて行った。
「……本当に不思議な人」
「何、姉ちゃんの彼氏?」
「……好次!!」
後ろから声をかけたのは千束の弟の好次だ。小学生のくせしてませた弟は傘にカッパと完全装備で千束の後ろに立っていた。
「母さんと車で迎えに来たよ。朝、姉ちゃん急いで傘なんて持ってなかったでしょ?」
「好次ー!!」
千束は弟を抱き締めた。
「全く、しっかりしなよ。雷雨暴風警告が出てるから帰るよ」
「……うん」
千束は頷く。
その日の夜は本当に酷い雷雨になった。
驚くべきことに次の日は晴れて千束は風邪を引くこともなく登校することが出来た。
そして翌日。新たな決意を持って紙袋を持ち昼休みに校舎内を歩く。三年の校舎を歩くのは正直、怖いし緊張するがそれでもやはり行かなければならない。
借りた制服、傘にタオルと返すべき物が多いのだ。流石に傘は外に置いてあるが、それも返さなければならない。
うっかり貸したにしては流石に制服に生徒手帳の類いは一切なく千束は三年の朝倉 宗滴という名前しか情報がなかった。
しかし幸先よく千束は廊下で背の高い黒髪を見付ける。
「あの……!」
「……はい?」
くるりと振り向いた青年は別人だった。真紅の瞳が美しい長身の優男。
「あ、……っ、すみません! 間違えました!」
「間違えた? 誰と?」
その人は穏やかな顔でのんびり千束に尋ねる。三年の生徒会となれば多少有名人かもしれない。
「あ、……あの、朝倉先輩……です」
「ああ! 朝倉君か。俺、よく後ろ姿で間違われるんだ。背丈が同じぐらいだしね。君は吹奏楽部の後輩かな?」
「え? ……いえ、……あの! 吹奏楽部ではあるんですけど……」
まだ顔合わせはしていない。慌てる千束を見てもその人は動じず穏やかに微笑んだ。
「そう。朝倉君ならクラスか生徒会か音楽室か書道部だと思うよ」
「……選択肢が多いです」
千束はガックリと項垂れる。
「吹奏楽部での用事なら部長さんに尋ねるといいよ。君が朝倉君に何かを直接尋ねると少し面倒だ。生徒会なら生徒会の人に尋ねればいいし書道部も書道部の人に尋ねればいい」
「直接、本人に用事があるんですけど……」
「それはちょっとしたダンジョンだね。教室、どこに行っても確率は五分だし……君は」
「……え?」
「君の場合、一から回って最後まで面倒を抱えて一からもう一度、ってことになりかねない」
「ど、……どうして分かるんですか!」
「……無自覚なのかい。珍しい」
その人は不思議そうな顔で千束を見つめる。千束には訳が分からず、ただキョトンとした。
「えっと、何が……」
「朝倉君の方がきっと詳しいよ。俺は三年の獅道 愁一。君は朝倉君にどんな用事があるのかな?」
その三年の獅道という先輩はわざわざ千束の背丈まで屈んで真っ直ぐ千束を見つめた。
千束も不思議とその先輩から恐怖心は感じず落ち着いて答える。
「私は一年の天草 千束です。お借りした物を返したくて……」
「そうなんだ。それなら、どこに行っても大丈夫。誰かに頼めばいい」
「直接お返ししたいんです! 本当にお世話になって……」
「……そう。じゃあ、一緒に探そうか」
「……え、でも……」
「君は朝倉君のクラスに知り合いはいるの? 生徒会の一年生、上杉君と知り合い? 吹奏楽部の人に知り合いは? 書道部には?」
「い……いえ!」
誰も知り合いはいない。確かに千束が朝倉 宗滴を探すのは容易ではなさそうだ。
「上杉君に簡単に聞いてあげるよ。少しずつ絞ろう」
「知り合いなんですか?」
「まぁね。生徒会の人とは少し交流があるから。でも朝倉君とはそこまで親交無いんだ。上杉君に電話で聞いてあげる」
「ありがとうございます!」
それから、獅道という先輩は簡単に携帯を弄ってポケットに戻す。
「朝倉君は生徒会室にいるらしい。足止め頼んだから出会えるよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
「いいや。……余計なお世話かもしれないけど、気を付けて」
「いえ、……そんな」
朗らかな笑顔で獅道 愁一は去って行った。
生徒会室は一階の一番奥、職員室とは反対方面にある。
「気を付けて、……か。不思議な人だったなぁ」
しかし千束は生徒会室を前に止まる。生徒会に知り合いは誰もいない。少し緊張する。
「し、……失礼します……」
「……あ?」
千束を前にしたのは黒髪切れ目の男子生徒だった。千束には十分恐ろしくストンと腰が抜ける。
「あ……あの、……その」
今更、自分の男性恐怖症を思い出した。まともに顔も見れない。
それぐらいの圧がある。
「ちょ……突然泣かれても困るんだけど」
「そう睨むからじゃねぇの?」
奥から、おどけた声がした。
「朝倉先輩!」
千束は叫ぶ。
「……お?」
「……ああ、なんか一年の女子が朝倉先輩を探してるってさっき獅道先輩が言ってました」
「そういうことは早く言えよ!」
「今、言う所だったんですよ。間の悪い」
また睨まれて千束は固まった。
それから千束は生徒会室の長椅子に座ってカタカタと怯えている。
「どうぞ」
そこにスッとお茶が出される。このよく見ると切れ目の大層な美形が上杉 英治なのだろう。
「あ、あの、ありがとうございます」
「朝倉先輩がなんであんなに嫌な夏服着てるのかと思えばそういうことか」
「うるせぇ」
宗滴も男子の後輩の前ではまた少し違って見えて千束は震える手で紙袋を差し出した。
「あ……これ、本当にありがとうございました。ちゃんとクリーニングしました。傘もあります! 折り畳み傘も弁償……」
「ああ、いいの、いいの。あれはしょうがない」
上杉 英治という生徒は興味無さそうに自分の仕事に戻っている。
「あの……えっと、……その、伝言……ありがとうございます」
「同じ一年生なのに敬語はいい」
「は、……はい!」
「そんなに上杉が怖いか? 確かに目付きは悪いが、そんな怖がらなくても」
「すみません! 私が悪いんです! ……その、男性恐怖症……のようなもので」
一瞬、何故か生徒会室が静まった。
「……足利は?」
「足利先輩は剣道部」
何故か宗滴と英治がこそこそと会話している。
「……えっと?」
「いや、良かったな。一番怖いのがいなくて」
「え……」
「上杉なんて全然、目じゃねぇぞ。……ま、悪い奴じゃないんだ、うん」
「そうなんですか……でも私が悪いんです。……だから」
「自分が悪いと思い込めばそうなる」
英治が顔を上げず口を開いた。
「……え?」
「無自覚か。また厄介だな」
確かニュアンスは違えど獅道 愁一も同じ様なことを言っていた。
「そう言ってやるな。……ま、時と次第で良くなるさ」
「別に、朝倉先輩がどうにかするならどうでもいいっすよ」
「お前は、またまた……」
「……?」
「時に、天草はどうやってここに来たんだ?」
「三年の教室で獅道先輩に会って、一緒に朝倉先輩を探して頂きました」
「ほらな」
「……?」
「お祈りの効果があって良かったな」
「……えぇええ! そうなんですか!」
千束の言葉に今度は宗滴はポカンとする。
「やれやれ……根は深そうだ」
千束を見向きもせず、英治は言った。




