第9話 差出人の魔力痕跡
翌朝、出勤前に書棚の前に立った。
業務記録の控えが五年分、年度ごとに並んでいる。その端に、昨日置いた脅迫状の封書。
封書を手に取った。差出人の記載なし。宛名のみ。便箋一枚。筆跡は崩されている。
前の人生なら、これは捨てていただろう。あるいは、怖くて誰にも見せずに引き出しの奥にしまっていただろう。証拠として活用するなどという発想は、あの頃の私にはなかった。
けれど、この世界には魔力痕跡がある。
この封筒を誰かが手で触り、郵便受けに入れた。その人物の魔力が、封筒の表面に残っている可能性がある。便箋に触れた指の痕跡も。
脅迫状は、脅迫の道具であると同時に、犯人の名刺だ。
問題は、この証拠をどうやって鑑定に回すかだった。
接触制限がある。私がアーレンス監査官に直接手渡すことはできない。かといって、局間便でただ送るだけでは、途中でブルーメ局長の目に触れる可能性がある。
正しい手続きを踏む必要がある。正しい手続きを踏めば、誰にも止められない。
出勤した。
書記局に入り、まずフリッツの席に向かった。
「レーマン次席。お時間をいただけますか」
フリッツは帳簿から顔を上げた。ここ数日、彼の目の下には隈が濃くなっている。板挟みの重圧が顔に出る人だ。
「どうした、ホルン書記官」
「被害届兼情報提供書を提出したく、次席承認をお願いいたします」
フリッツの眉が上がった。
「被害届?」
「昨朝、自宅の郵便受けに差出人不明の脅迫状が届きました。内容は、監査への協力を中止するよう求めるものです」
鞄から封書を取り出し、フリッツの前に置いた。封筒と便箋を、直接手で触れないよう布越しに扱った。魔力痕跡の汚染を最小限にするためだ。
フリッツは封書を見つめ、それから私の顔を見た。
「……これを、監査局に提出するのか」
「はい。正式監査に関連する脅迫行為として、被害届兼情報提供書を書記局窓口から監査局に提出します。宮廷行政手続規則に基づき、局内職員が業務に関連して受けた脅迫は、関連する監査機関に通報する義務があります」
規則の条文を暗記しているわけではない。けれど、昨夜のうちに手元の手続規則集で確認した。該当する条文は存在する。
「通報義務がある以上、これは業務上の手続きです。局間便ではなく、窓口経由の正式提出とし、受領証を取得します。提出にあたっては次席承認が必要です」
フリッツは数秒沈黙した。
彼の立場は難しい。局長と監査局のあいだで、次席書記官として板に挟まれている。けれど、手続き上の義務がある事案について次席承認を拒否すれば、それ自体が手続き違反になる。
「……わかった。承認する」
フリッツは承認印を押した。その手がわずかに震えていたのを、私は見ないふりをした。
被害届兼情報提供書を作成した。脅迫状の受領日時、発見状況、内容の要旨、差出人不明である旨。そして、封筒および便箋に魔力痕跡が残存している可能性があるため、鑑定を依頼する旨。
書類に署名し、脅迫状の現物を証拠袋に封入した。証拠袋には封印日時と封印者の署名を記載する。
すべてを揃え、書記局の正式な窓口手続きとして、監査局宛ての提出書類一式を局間便の棚に置いた。受付台帳に記載し、控えを取った。
これで、脅迫状は公式記録に載った。局長がこの書類の存在を知ったとしても、受付台帳から消すことはできない。台帳の記載を消せば、それは新たな証拠隠滅になる。
午前中の業務を終え、昼を過ぎた。
午後二時。局間便が届いた。
監査局からの回答書。宛先はマリエッタ・ホルン書記官。差出人は魔術監査局・担当官アーレンス。
封を開けた。
鑑定報告書が同封されていた。驚いた。提出から半日足らずで鑑定結果が返ってきている。通常、魔力痕跡鑑定には最低でも一日を要する。監査案件が重なっている時期なら、数日かかることもある。
彼は、受理した直後に鑑定を始めたのだろう。
報告書を読んだ。
鑑定対象:差出人不明の封書(封筒一通、便箋一枚)。
鑑定結果:封筒表面に残存する魔力痕跡から、投函者の魔力特性を検出。当該魔力特性は、宮廷書記局に保管されている公文書に付された局長級決裁権限者の公印の魔力特性と、高い類似性を示す。
便箋に残存する筆記痕跡の魔力特性も同系統。
さらに注記があった。
参考:当該魔力特性は、本件正式監査における会計帳簿差し替えページの鑑定結果(第六話報告書参照番号——いや、第六号鑑定報告書参照)とも同系統の特性を示す。
同一人物。
会計帳簿の差し替え。保全命令後の証拠隠滅。そして脅迫状。すべてが同じ魔力特性を持つ人物に紐づいている。
ブルーメ局長。
直接証拠ではない。魔力特性の「類似」であって「一致」とは鑑定書に書かれていない。しかし、三つの証拠が同じ方向を指しているとき、状況証拠の積み重ねは直接証拠に匹敵する重みを持つ。
鑑定報告書を封筒に戻した。手が震えなかった。今朝と同じだ。震える段階はもう過ぎた。
五年間、私の功績を奪い、昇進を妨げ、辺境に飛ばそうとし、帳簿を改竄し、脅迫状を送ってきた人物の輪郭が、紙の上に浮かび上がっている。
怒りはある。ないと言えば嘘になる。
けれど、怒りで動く必要はない。証拠が動いてくれる。
午後四時。
局間便が再び届いた。今度は封書ではなく、公式通知書の形式だった。魔術監査局局長印。宛先は宮廷書記局長ゲルハルト・ブルーメ。写しの宛先に宮廷書記局次席書記官フリッツ・レーマン。
公聴会の開廷請求。
魔術監査局は、宮廷書記局に対する正式監査の結果に基づき、国王陛下の裁可を得た上で、七日後に公聴会を開廷することを請求する。
対象事案:宮廷書記局における会計不正、文書改竄、職権濫用および関連する脅迫行為。
出席要請者:宮廷書記局長ゲルハルト・ブルーメ、宮廷書記局書記官マリエッタ・ホルン(証人)、魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンス(鑑定人)。その他、関係者の出席は追って通知する。
七日後。
通知書はフリッツの手に渡り、フリッツが局長室に運んだ。局長室の扉が閉まる音が、書記局の執務室にまで聞こえた。
私は自席で、残りの業務を処理した。退勤の鐘まで、あと三十分。通知書の内容を反芻しながら、決裁書類に署名し、台帳を更新し、明日の準備を整えた。
七日間。あと七日で、すべてが公の場に出る。
証拠は揃っている。会計不正の数字。帳簿改竄の魔力痕跡。功績横領の鑑定結果。脅迫状の魔力特性。
そして、私の五年分の控え。二百四十七件の記録。
退勤の鐘が六つ鳴った。
席を立った。鞄に今日の控えを入れた。鑑定報告書の写しも入れた。
渡り廊下を通った。誰もいなかった。三日続けて、誰もいない。
正門を出て、帰路を歩いた。
七日後の公聴会のことを考えていた。証人として出席する。証言の準備をしなければならない。控えを整理し、時系列を確認し、聞かれるであろう質問に対する回答を頭の中で組み立てる。
帰宅して、灯りを点けた。
窓際の椅子に座り、帳面を開いた。
今日の記録を書き始めて、ふと窓の外に目をやった。
向かいの通りの街灯。昨夜と同じ場所。
人影はなかった。
当然だ。毎晩来るわけがない。昨夜が特別だったのだ。
帳面に目を戻し、書き続けた。
数分後、もう一度窓の外を見た。
街灯の光の端に、ほんの一瞬、濃紺の布地が見えた気がした。
視線を凝らしたときには、もう何もなかった。風が街路樹の枝を揺らしているだけだった。
見間違いかもしれない。
見間違いでもよかった。
私は帳面の最後に、今日の日付と一行だけ書いた。
「公聴会、七日後」
その下に、昨日と同じ三文字を書き足すかどうか迷った。
迷って、やめた。
代わりに、帳面を閉じて窓を少しだけ開けた。夜風が入ってきた。春の終わりの、少し冷たい風だった。
七日後に、すべてを話す。
私の名前で、私の声で、私の記録で。
五年ぶんの正確さを、あの場に持っていく。




