第8話 自分の時間を守る
手紙は、朝の郵便に紛れて届いていた。
宮廷への出勤前、玄関先の郵便受けを確認するのは日課だ。普段は何も入っていない。時折、家主からの通知や市場の値引き広告が入る程度だ。
今朝は一通、封書が入っていた。
差出人の名前がなかった。
宛名は「マリエッタ・ホルン」とだけ書かれていた。住所の記載もない。つまり、郵便局を経由していない。誰かが直接、この郵便受けに入れたということだ。
封を切った。便箋は一枚。筆跡には特徴がなく、意図的に崩した書き方に見えた。
文面は短かった。
——監査への協力を即刻やめよ。さもなくば、書記局での立場を完全に失うことになる。これは忠告である。
署名はなかった。
便箋を裏返した。何もない。封筒の内側も確認した。何もない。
私は便箋を元の封筒に戻し、鞄の底に入れた。
手が震えなかったと言えば嘘になる。けれど震えは数秒で収まった。前の人生で、理不尽な叱責や不当な評価に怯えた経験は山ほどある。脅しの言葉に体が反応することと、脅しに屈することは、別のことだ。
出勤した。
書記局の空気は、ここ数日でじわじわと変質していた。
きっかけは一つではない。監査局からの正式監査通知、帳簿の棚卸し、アーレンス監査官の頻繁な来訪。そして——私が何かに関わっているらしいという、根拠のない推測。
ハンナが朝の挨拶をしてきたが、目が泳いでいた。その隣の席のクルトは視線を合わせなかった。向かいのエルマーは机の上の書類に目を落としたまま、私が通り過ぎるのを待っていた。
理解はできる。書記局が監査を受けている最中に、局内の非正規書記官が監査官と接触している。彼らにとっては、私が内通者に見えているのだろう。味方を売る裏切り者か、あるいは監査局に取り入ろうとしている日和見主義者か。
どちらの評価も間違っている。しかし、訂正する手段はない。事実を説明するには監査の内容に触れなければならず、監査の内容は守秘義務の対象だ。
自席に着き、通常業務を開始した。
十時頃、フリッツが私の席に来た。
「ホルン書記官。少しいいか」
「はい」
フリッツの表情は硬かった。ここ数日、彼の表情が緩んでいるのを見たことがない。
「公式な通達ではないが、伝えておくことがある。監査局長から書記局長宛てに、連絡が入った。正式監査の公正性を担保するため、監査担当官と被監査部局の職員との業務外の接触を控えるよう、双方に要請するとのことだ」
接触制限。
「業務上必要な連絡は、局間便または公式の照会手続きを通じて行うこと。直接の面会は、双方の上席者の承認を経た場合に限る、と」
「わかりました」
声は平静だった。平静に保った。
業務外の接触を控える。つまり、渡り廊下での退勤の挨拶は——業務外だ。裏門での焼き栗も。雨の日の傘も。
それらはすべて、今日から途絶える。
「なお、これはあくまで監査局からの要請であり、強制力のある命令ではない。しかし、監査の公正性が疑われるような行動は——」
「承知しています。業務に支障のない範囲で、遵守いたします」
フリッツは頷いて去った。
接触制限は合理的な措置だ。正式監査において、監査官と被監査部局の職員が私的に親しいことは、鑑定結果の客観性に疑念を抱かせる。監査局長の判断は制度的に正しい。
正しいとわかっていても、渡り廊下が遠くなった気がした。
昼休み、給湯室でハンナと二人になった。ハンナは水を汲みながら、声を落として言った。
「ホルン書記官。あの……変な噂が出てるの、知ってます?」
「噂」
「辺境への異動の話。前に保留になったやつが、局長が正式に決裁し直すって。来週にも発令されるかもしれないって」
来週。
「誰が言っていますか」
「エルマーが局長室で聞いたって。局長が誰かと話しているのが漏れ聞こえたらしくて」
噂の出所が局長室。聞いた人間がエルマー。エルマーは局長に近い書記官だ。意図的に聞かせた可能性もある。
「ありがとうございます、ハンナ。気をつけます」
午後の業務に戻った。決裁書類を処理した。大広間の予約台帳を確認した。断罪イベントの再申請はまだ届いていない。
窓の外の光が傾いてきた。夕暮れが近い。
退勤の鐘まで、あと五分。
ふと、自分の手元を見た。今日一日で処理した書類は十四枚。通常の業務量だ。脅迫状を受け取った朝と同じ手で、同じ精度で、同じ分量を処理した。
それでいい。
脅迫に怯えて手を止めれば、仕事の質が落ちる。仕事の質が落ちれば、異動の口実になる。手を動かし続けることが、今の私にできる最善の防御だ。
退勤の鐘が六つ鳴った。
席を立った。
周囲の視線を感じた。ハンナは心配そうに、クルトは無関心を装い、エルマーは何か値踏みするように、それぞれの目で私を見ていた。
「お疲れさまでした」
誰にともなく言って、鞄を持って書記局を出た。
渡り廊下に出た。夕暮れの光が石畳を照らしていた。春が終わりに近づいて、光の色が少し赤みを増している。
廊下の向こうに、人影はなかった。
当然だ。接触制限がある。彼がここを避けるのは、制度を守る人間として正しい判断だ。
それでも足が一瞬だけ遅くなったのは、三年間の習慣の名残だった。
正門を出た。夕風の中を歩いた。
歩きながら、今朝の脅迫状のことを考えた。
差出人不明。住所不記載。直接投函。筆跡を崩している。
怖くないかと聞かれたら、怖い。書記局の立場を失うことが怖い。五年間の積み重ねが無になることが怖い。
けれど、もっと怖いことを、私は知っている。
前の人生で、私は怖いから従った。上司の無理な指示に怖いから従い、終電を逃しても怖いから働き、体が悲鳴を上げても怖いから止まらなかった。
その結果、死んだ。
怖さに従った結果が死なのだと、私は身をもって知っている。ならば、怖さに従わなかった結果がどうなるかを、この人生で試す価値はある。
帰宅した。
鞄から脅迫状を取り出し、自宅の書棚に保管した。業務記録の控えの隣に。五年分の控えが並ぶ棚の端に、一通の封書が加わった。
夕食を済ませ、窓際の椅子に座った。窓の外は暗くなりかけていた。向かいの通りに街灯が灯る時刻だ。
明かりを灯し、今日の記録を帳面に書いていた。脅迫状の受領。接触制限の通達。異動の噂。退勤の鐘。渡り廊下に人がいなかったこと。——最後の一行は書くかどうか迷って、やめた。
ふと、窓の外に目をやった。
向かいの通りの街灯の下に、人が立っていた。
遠い。窓から通りまでは二十歩ほどの距離がある。街灯の光は弱く、人物の顔は判別できない。
けれど、上着の色はわかった。濃い紺色。
その人影は、こちらの窓を見ていた。私の部屋の、灯りの点いた窓を。
数秒だった。五秒か、十秒か。
人影はすぐに背を向け、通りの暗がりに消えた。足音は聞こえなかった。
声をかけることはできなかった。接触制限がある。窓を開けて名前を呼ぶことは、業務外の接触にあたる。
それに——名前を呼ぶ必要はなかった。
あの人は、私が帰宅したことを確認しに来た。灯りが点いていることを確かめに来た。それだけだ。
それだけのことが、今日という一日の最後に、どれほどの重さを持つか。
脅迫状を受け取った朝。同僚たちの視線が変わった昼。渡り廊下に誰もいなかった夕方。その一日の終わりに、声も言葉もなく、ただ窓の灯りを見に来た人がいる。
手続きを守る人だ。接触制限を破らない人だ。けれど、制限の外側で、できることを探す人だ。
私は窓を閉めず、しばらくそのまま座っていた。
帳面を開き、さっき書くのをやめた最後の一行を書いた。
「窓の外、街灯の下、濃紺」
それだけ書いて、帳面を閉じた。
明日も鐘は鳴る。明日も私は帰る。
脅迫状が何通届いても、異動の噂がどれだけ流れても、渡り廊下に誰がいなくても。
退勤の鐘が六つ鳴ったら、私は席を立つ。
それだけは、誰にも渡さない。




