第7話 正しい場所に戻す名前
翌朝、出勤すると書記局の空気がまた変わっていた。
正確には、ブルーメ局長の気配が変わっていた。局長室の扉は開いていて、中からフリッツに指示を出す声が聞こえていた。声の調子は穏やかだった。穏やかすぎた。
「今期の業務報告の最終稿を確認したい。該当する原稿と参考資料を局長室に運んでくれ」
業務報告の原稿。つまり、局長が自分の名前で提出してきた書記局の業務実績報告書だ。その中に、二百四十七件の業務改善が含まれている。
局長が業務報告書を手元に集めるということは、帳簿の差し替えだけでは足りないと判断したのか、あるいは別の意図があるのか。いずれにせよ、書類が局長室に移動すれば、私からは手が届かなくなる。
けれど、焦る必要はなかった。
私には控えがある。そして——アーレンス監査官には、魔力痕跡がある。
午前の業務を淡々とこなした。決裁書類を処理し、問い合わせに回答し、ハンナからの相談に対応し、大広間の予約台帳を更新した。断罪イベントの再申請は、まだ届いていない。
昼前に、書記局の入口に濃紺の影が現れた。
アーレンス監査官。今日は三度目の来訪だ。同僚たちはもう驚かなくなっていた。ハンナだけが小さく「またですね」と呟いたのが聞こえた。
彼は私の机の前に立った。手に封筒を持っていた。
「ホルン書記官。鑑定が完了しました。結果の報告書をお持ちしました」
「ありがとうございます」
封筒を受け取った。魔術監査局の正式な鑑定報告書。公印付き。
「ここでお読みいただいても構いませんが」
彼の声がわずかに落ちた。普段より低い。
「内容には、あなた個人に関わる部分が含まれています」
個人に関わる部分。
周囲の同僚の視線を感じた。ここは書記局の執務室だ。二十人近い書記官がいる。
「場所を変えましょう」
書記局の奥にある小会議室。普段は来客対応に使う部屋で、今の時間は空いていた。
扉を閉め、向かい合って座った。
封筒を開き、報告書を取り出した。三枚の鑑定書。それぞれに魔術監査局の公印とアーレンス監査官の署名がある。
一枚目。会計帳簿の差し替えに関する鑑定結果。
差し替えページの魔力痕跡はすべて同一人物のもの。隠蔽処理の魔力特性は局長級決裁権限者の公印と同系統。差し替えの実行時期は保全命令到達日を含む三日間。
昨夜書庫で聞いた内容を、公式文書の形に落とし込んだものだ。
二枚目。会計帳簿の不整合に関する分析結果。
過去三年分の予算執行記録と支出伝票の差額、合計金貨五十枚相当。差額が発生した費目の記帳者は、元の記帳者と同一であり、差し替えによる改竄ではなく記帳段階からの数字の操作であったことが示唆される。
ここまでは会計不正の証拠だ。
三枚目。
私は三枚目を読み始めて、手が止まった。
三枚目の表題は「宮廷書記局業務報告書に係る起案者の魔力痕跡鑑定結果」。
私が依頼したものではなかった。私が知らないあいだに、彼が独自に実施した鑑定だった。
鑑定対象:過去五年分の宮廷書記局業務報告書に記載された業務改善提案二百四十七件に関する原稿および上申書。
鑑定結果:全二百四十七件の起案原稿に残存する魔力痕跡は、同一人物のものと認定される。当該痕跡は、宮廷書記局非正規書記官マリエッタ・ホルンの筆記痕跡と一致する。
続き。
業務報告書の署名欄に記載された「ゲルハルト・ブルーメ」の署名は、起案原稿の完成後に上書き添付されたものと鑑定される。上書きの時期は、各報告書の提出日の一日前から当日にかけて。起案原稿自体にはブルーメ局長の魔力痕跡は存在しない。
活字が滲んだように見えた。目の焦点が合わなかったのだと、少し経ってから気づいた。
五年分。二百四十七件。すべて。
知っていた。自分でやったのだから、知っていた。控えも残していた。けれど、控えはあくまで私個人の記録だ。言い分だ。誰かが見て、「これはあなたの仕事です」と認めたものではなかった。
今、この鑑定報告書が、それを公的に認めている。
魔力痕跡は嘘をつかない。この世界の法制度において、鑑定報告書は裁判でも公聴会でも通用する正式な証拠だ。
「ホルン書記官」
顔を上げた。彼がこちらを見ていた。無表情のまま。けれど、声はいつもの平坦さとは少しだけ違っていた。
「五年分、二百四十七件。すべてあなたの起案です」
知っている。知っている、そんなことは。
「名前を、正しい場所に戻します」
息が詰まった。
名前を戻す。私の名前を。五年間、一度も正しい場所に置かれなかった名前を。
目の奥が熱くなった。喉が締まった。泣くつもりはなかった。泣く理由がない。事実が事実として認定されただけだ。手続きの問題が、手続きによって解決されるだけだ。
けれど、体が勝手に反応していた。
深呼吸をした。一度、二度、三度。前の人生でも、この人生でも、泣くことで問題が解決したことはない。だから泣かない。泣かないと決めている。
四度目の深呼吸で、声が出た。
「ありがとうございます、アーレンス監査官」
声は震えなかった。震えなかったことに、少しだけ安堵した。
「これは、ご依頼外の鑑定です。私の独断で実施しました。問題があれば——」
「ありません」
即答した。彼の言葉を遮るような形になった。
「問題はありません。ただ——なぜ、業務報告書の鑑定まで」
彼は少し間を置いて、答えた。
「会計帳簿の鑑定中に、業務報告書の原稿が同じ書庫に保管されていることに気づきました。あなたの業務改善の控えと照合すれば、起案者の特定は可能だと判断しました」
それは理由の説明だった。合理的で、筋の通った理由。けれど私が聞きたかったのは、手続き上の理由ではなかった。
なぜ、私のために。
その問いは口にしなかった。聞いたところで、この人は「業務の一環です」と答えるだろう。そしてそれは、嘘ではないが本当でもないだろう。
「鑑定報告書は、正式監査の報告書に添付します。公聴会が開かれた場合には、証拠として提出できます」
「わかりました」
私は報告書を封筒に戻し、立ち上がった。
「アーレンス監査官。お体の具合は」
「問題ありません」
「昨日は問題がありました」
「今日は改善しました」
噛み合っているようで噛み合っていない会話だった。けれど、彼の顔色が昨夜より良くなっていることは確認できた。
小会議室を出て、執務室に戻った。
午後の業務を再開した。決裁書類を処理し、問い合わせに回答した。いつもと同じ午後だった。手元の仕事に集中すれば、胸の奥に残った熱は邪魔にならなかった。
退勤の鐘まで、あと二十分。
廊下に出て、給湯室で水を汲もうとした。
給湯室の手前で、足を止めた。
廊下の突き当たり、局長室に近い角の陰に、二つの人影があった。
一人はブルーメ局長。もう一人は——近衛騎士団の略装。肩章の紋様は、第一王子殿下の側近を示すもの。先日、断罪イベントの延期を伝えに来た男と同じ人物だった。
声がかすかに聞こえた。
意図して聞いたわけではない。廊下の石壁は声をよく通す。建物の構造が、偶然私の耳に届けただけだ。
「——これ以上の延期は、殿下がお許しにならない」
低く、硬い声だった。側近の声だ。
「日程を再設定なさるおつもりです。次は——手続きも整える、と」
ブルーメ局長の返答は聞き取れなかった。声が極端に低いのか、あるいは頷いただけだったのか。
側近が続けた。
「書記局の決裁は、局長の権限でお願いいたします」
それだけだった。側近はすぐに廊下を去り、局長は局長室に戻った。
私は水を汲み、自席に戻った。
手続きを整える。次は手続きを踏んでくる。
それ自体は想定の範囲だ。第一王子殿下が断罪イベントの申請書を正式に書記局に提出し、ブルーメ局長が決裁印を押せば、手続き上は行事として成立する。
しかし。
申請書が正式に提出されるなら、受付台帳に記載される。記載された時点で、それは公式記録になる。公式記録になれば、監査局も閲覧できる。
そして、告発書類が存在しない断罪の儀は——たとえ行事としての手続きを踏んだとしても、告発の手続きを踏まなければ、断罪する根拠がない。
手続きは、一つだけ整えても足りない。すべてが整って初めて成立する。
退勤の鐘が六つ鳴った。
鞄に今日の控えを入れた。報告書の写しは、自宅の書棚に保管する。
正門を出るとき、夕暮れの風が頬を撫でた。
私の名前を正しい場所に戻す、と彼は言った。
五年間で初めて、誰かが私の仕事を見て、名前を呼んで、「あなたのものだ」と言ってくれた。
それがどれほどのことなのか、きっと彼は知らない。
知らなくていい。
ただ、今日の帰り道は、少しだけ背筋が伸びた気がした。




