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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します  作者: 九葉(くずは)


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第6話 改竄の魔力痕跡

 正式な会計監査の開始通知が書記局に届いたのは、雨の夜から四日後の朝だった。


 魔術監査局局長印と、担当官アーレンス監査官の署名が入った公文書。宛先は宮廷書記局長ゲルハルト・ブルーメ。内容は、書記局の過去三年分の予算執行記録に対する正式監査の開始通知、および関連帳簿一式の保全命令。


 保全命令。つまり、帳簿を動かすな、書き換えるな、廃棄するなという法的拘束力のある指示だ。


 通知書は局間便で届き、受付を担当したハンナが局長室に運んだ。ハンナが局長室から戻ってきたとき、その顔は蒼白だった。


「……局長、何も仰らなかったわ。ただ読んで、机に置いて、それだけ」


 何も言わない。それが、ブルーメ局長の怒りの形だということを、三十年この局にいる人間なら知っているのだろう。勤続五年の非正規書記官である私は知らないが、ハンナの顔色を見ればわかる。


 午前中、局長室の扉は閉まったままだった。


 昼休みが終わった頃、局長が局長室から出てきた。表情は平静そのもの。三十年の宮廷勤務で培われた顔だ。


「書庫の整理を行う。今期分の帳簿の棚卸しだ。フリッツ、書記官二名をつけてくれ」


 フリッツが頷いた。棚卸しは定期業務の一環であり、局長が指示すること自体に不審はない。書記官二名が選ばれ、局長とともに地下書庫に降りていった。


 私は自席で通常業務を続けた。


 ただし、一つだけ気になることがあった。


 棚卸し。帳簿の棚卸し。保全命令が出た当日に。


 偶然ではない、と私の中の公務員が告げている。


 保全命令は帳簿の現状維持を求めるものだ。しかし「棚卸し」の名目で帳簿に触れることは、業務上の正当な理由になり得る。棚卸しの過程で帳簿のページが入れ替わったとしても、「整理中の事故」として弁明できる。


 局長が書庫から戻ったのは、退勤の鐘の二時間前だった。書記官二名もそれぞれの席に戻った。局長の表情に変化はなかった。


 退勤の鐘まで、あと四十分。


 私は席を立ち、書庫に向かった。理由は明確にある。明日の業務で使用する過去の決裁記録の参照のためだ。日常的に行っている作業であり、誰に咎められるものでもない。


 書庫に入った。琥珀色の魔術灯が帳簿の背表紙を照らしている。空気は乾いて冷たい。


 私はまっすぐ会計帳簿の棚に向かった。過去三年分の予算執行記録。十二冊。先日ヴェインと確認したものと同じ帳簿のはずだ。


 棚から一冊目を引き出した。二年前の第三四半期分。あの夜、最初の不整合を発見した帳簿だ。


 表紙を開いた。管理番号を確認する。


 管理番号は合っている。装丁も同じ。けれど——。


 頁番号を追った。一頁、二頁、三頁。順番通り。十七頁、十八頁、十九頁。順番通り。二十三頁、二十四頁——。


 二十五頁がなかった。二十四頁の次が二十六頁になっている。


 綴じ糸を確認した。二十四頁と二十六頁のあいだの綴じ糸に、わずかな弛みがあった。一度解かれ、結び直された痕跡。


 もう一冊。三年前の第一四半期分。頁番号を確認する。四十一頁から四十三頁へ。四十二頁が欠落。綴じ糸に同じ弛み。


 三冊目。二年前の第四四半期分。こちらは頁の欠落ではなく、紙質が異なるページが挟まっていた。前後のページは経年で微かに黄ばんでいるが、三十一頁だけが真白だった。


 差し替え。


 帳簿のページが抜かれ、あるいは差し替えられている。しかも、保全命令が届いた当日の「棚卸し」の直後に。


 私は帳面を取り出し、不整合のある頁番号と冊数を書き留めた。それから帳簿を棚に戻し、書庫を出た。


 退勤の鐘まで、あと十五分。


 渡り廊下でアーレンス監査官を待った。十五分のうちに彼がここを通る保証はなかったが、三年間の習慣を信じた。


 七分後、濃紺の影が現れた。


「アーレンス監査官」


「ホルン書記官」


「書庫をご確認いただきたい帳簿があります」


 彼の目が、わずかに鋭くなった。


「今ですか」


「はい。退勤前に」


 時間がないことは彼にもわかっただろう。けれど彼は一つも問い返さず、頷いた。


 二人で書庫に降りた。私が三冊の帳簿と該当箇所を示し、彼が確認した。


 頁番号の欠落。綴じ糸の弛み。紙質の相違。


「鑑定します」


 彼はそう言って、差し替えが疑われるページに右手をかざした。


 魔力痕跡鑑定。帳簿に書き込まれた文字には、記帳者の魔力が微量に残る。この世界では筆記具に込められる魔力も痕跡として残留し、鑑定によって記帳者と記帳時期を特定できる。


 彼の指先から淡い光が広がった。帳簿のページが、一瞬だけ内側から照らされたように見えた。


「二年前第三四半期、二十六頁以降の記帳者。元の痕跡の上に、別の魔力痕跡が重なっています。上書きされた痕跡の時期は——三日以内」


 三日以内。保全命令が届いた日か、その翌日。


「三年前第一四半期。四十二頁が物理的に除去されています。綴じ糸の結び直しに残った魔力痕跡は、同じく直近三日以内。使用された魔力の特性は——」


 彼の声が途切れた。


 彼の手が、かすかに震えていた。


「……アーレンス監査官?」


「続けます」


 三冊目に手をかざした。差し替えページの鑑定。淡い光が再び灯り、彼の眉間に深い皺が刻まれた。額にうっすらと汗が滲んでいる。


「差し替えページの記帳者の魔力痕跡は、元のページの記帳者とは異なります。元の記帳者は複数名——書記局の通常業務を担当する書記官たちの痕跡と一致する特性です。しかし差し替えページの痕跡は単一。そして非常に強い隠蔽処理が施されている。この隠蔽の精度は——」


 彼の右膝が折れた。


 考えるより先に、体が動いた。


 私は彼の左腕を掴み、肩を支えた。帳簿が床に落ちる音がした。彼の体は思ったより重く、そして熱かった。


「アーレンス監査官」


「——大丈夫です」


 声は低く平坦で、いつもと同じ調子だった。けれど、体はいつもと同じではなかった。肩にかかる重みが、彼が自分の体を支えきれていないことを伝えていた。


「大丈夫ではないことは、見ればわかります」


 私は彼の腕を引き、書庫の壁際に寄せた。壁に背を預けさせ、腰を下ろさせた。彼は抵抗しなかった。抵抗する力が残っていなかったのかもしれない。


 冷たい石の壁に背を預けた彼の顔は、魔術灯の琥珀色の光に照らされて、いつもより青白く見えた。呼吸が浅い。


「三冊分の帳簿を一度に鑑定するのは、負荷が大きすぎたのでは」


「……時間がなかったので」


「時間は作れます。体は替えがききません」


 私の声に、思ったより強い響きが混じった。自分で驚いた。


 この言葉を、前の人生で誰かに言ってほしかった——そんな感傷は、今は要らない。


「鑑定の続きは明日にしてください。ここまでの結果だけでも十分です。改竄が保全命令後に行われたこと、差し替えページの記帳者が元の記帳者と異なること。この二点は公式報告に記載できます」


「……ええ」


 彼は目を閉じ、数回深く呼吸した。それから、薄く目を開けた。


「ホルン書記官」


「はい」


「隠蔽処理の魔力特性は、一つだけ読み取れました」


「無理に今話さなくても——」


「局長級の決裁権限者に付与される公印の魔力と、同系統の特性です」


 私は黙った。


 局長級の決裁権限者。書記局において、その条件を満たす人物は一人しかいない。


 ブルーメ局長。


 帳簿の差し替えに使われた隠蔽魔術が、局長の公印と同系統の魔力を帯びている。それは状況証拠であって直接証拠ではないが、方向は明確だ。


「その情報は、正式な鑑定報告書に記載されますか」


「鑑定が完了すれば。明日以降、体調を整えてから残りの鑑定を行います」


「そうしてください」


 彼はゆっくりと立ち上がった。壁から背を離し、自分の足で立った。まだ少し不安定だったが、支えを求めはしなかった。


 床に落ちた帳簿を拾い、棚に戻した。二人とも無言だった。


 書庫を出て、階段を上がった。廊下に人の気配はなかった。退勤の鐘はとうに鳴っている。


 正門を出ると、夜の空気が頬に触れた。今日は雨ではなかった。星が出ていた。


「お気をつけてお帰りください、アーレンス監査官」


「ホルン書記官も」


 彼は一歩を踏み出し、それから振り返った。振り返ったのは、三年間で初めてだった。


「明日の鑑定は、午前中に終わらせます。退勤前にはご報告できるかと」


「ご無理のない範囲で」


 彼は小さく頷いて歩き出した。その背中は、まだ少しだけ揺れていた。


 私は反対方向に歩きながら、自分の左手を見た。


 彼の腕を掴んだとき、指先に伝わった体温を、まだ覚えていた。


 この人は、見た目ほど冷たくない。


 考えても仕方のないことだと、また思った。けれど今日は、そう思うことが少しだけ難しかった。

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