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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します  作者: 九葉(くずは)


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第5話 退勤十九分前の約束

 アーレンス監査官が書記局を訪ねてきたのは、退勤の鐘まであと十九分のときだった。


 なぜ十九分とわかるかというと、私は常に退勤までの残り時間を把握しているからだ。前の人生の習慣ではない。前の人生では終わりの時間など存在しなかった。これは、この人生で身につけた技術だ。


 アーレンス監査官は書記局の入口で一度足を止め、局内を見回した。退勤間際のこの時間帯、同僚たちの半数はまだ机に向かっていたが、残りは整理を始めている。ブルーメ局長は局長室にいるはずだが、扉は閉まっていた。


 彼は私の席まで歩いてきた。


「ホルン書記官。業務時間中に申し訳ありません」


「あと十八分ありますので、お気になさらず」


 彼の眉がわずかに動いた。十八分、という精度に反応したのかもしれない。


「お話ししたいことがあります。ただし、ここでは」


 彼は一度だけ局長室の方向に視線をやった。


「場所を変えましょうか」


「いえ。内容の性質上、業務時間内にお伝えすべきことと、そうでないことがあります。まず業務時間内にお伝えできる部分だけ」


 合理的な人だ、と思った。


「監査局として、書記局の会計処理に関する予備調査を開始しました。公式な監査手続きに移行するかどうかを判断するための、予備的な確認です」


 会計処理。書記局の。


「予備調査にあたり、書記局内部の会計帳簿へのアクセスが必要になりますが、監査局が単独で局内帳簿を閲覧するには書記局長の許可が要ります」


「はい。局間監査規定の第十二条です」


 彼が一瞬、言葉を止めた。条文番号を即答されるとは思っていなかったのかもしれない。


「……ただし、書記局の職員が自発的に局内帳簿を確認し、その結果を監査局に情報提供する場合は、局長許可は不要です」


「第十二条の但書ですね。内部通報に準じる扱い」


「そうです」


 彼が言わんとしていることは理解できた。正式な監査では局長の壁がある。しかし、書記局の内部の人間が自ら帳簿を確認し、不審な点を監査局に伝える——それは手続き上、内部通報として扱える。


 つまり、彼は私に協力を依頼しに来た。


「残りは——業務時間外の話になりますか」


「はい」


 退勤の鐘まで、あと十二分。


「アーレンス監査官。一つ確認させてください」


「何でしょう」


「これは監査局からの公式な依頼ですか。それとも、アーレンス監査官個人のお考えですか」


 彼は少しのあいだ黙り、それから答えた。


「予備調査は監査局の正式な業務です。しかし、あなたに協力を依頼するかどうかは、私個人の判断です」


 正直な人だ、と思った。


「退勤後に、書庫でお待ちしています。来ていただけるかどうかは——」


「行きます」


 即答した。彼がわずかに目を見開いた。


「ただし、一つ条件があります」


「条件」


「退勤後の時間は私の私的な時間です。その時間をどう使うかは、私が自分で選びます。監査局からの命令でも、書記局の業務でもなく、私が協力したいから協力する。それでよろしいですか」


 彼は黙った。それから、静かに言った。


「退勤後に仕事を頼むのは、本意ではありません」


 その言葉に、不意を突かれた。


 この人は定時に帰る人だ。退勤の鐘を守る人だ。その人が、退勤後の時間に他人を巻き込むことへの躊躇を持っている。


 私は少しだけ息を吸った。


「アーレンス監査官。私は前の——いえ、以前、自分の時間を他人に明け渡し続けたことがあります。それで壊れました。だから今は、時間の使い方は自分で決めると決めています」


 前の、と言いかけて止めた。前世の話はここではできない。


「今日、退勤後に書庫に行くのは、誰かに言われたからではなく、私がそうしたいからです。それは残業ではありません」


 彼は数秒間、私の顔を見つめた。無表情のまま。けれど、目の奥に何かが動いた気がした。


「わかりました」


 退勤の鐘が六つ鳴った。


 鞄に控えを入れ、席を立った。同僚たちが帰り支度を始める。ブルーメ局長は局長室から出てこなかった。


 書庫は書記局の地下一階にある。石造りの部屋で、年代順に帳簿が並んでいる。湿度管理のために弱い魔術灯が常時灯っていて、薄い琥珀色の光が棚を照らしている。


 アーレンス監査官は既に書庫の入口で待っていた。監査官服の上着を脱ぎ、腕まくりをしていた。初めて見る姿だった。


「過去三年分の書記局予算執行記録と、対応する支出伝票の照合から始めます」


「わかりました」


 二人で棚から帳簿を下ろした。三年分。十二冊。私が支出伝票の綴りを、彼が予算執行記録を担当し、年度ごとに数字を突き合わせた。


 最初の一年目。数字は合っていた。


 二年目の半ばで、最初の不整合が見つかった。


「この四半期の消耗品費、予算執行記録では銀貨百二十枚の支出になっていますが、支出伝票の合計は銀貨九十三枚です」


「差額は二十七枚。率にして二割強」


 二割の差額。消耗品費で二割の乖離は、記載ミスの範囲を超えている。


 三年目に入ると、不整合は増えた。人件費の臨時手当、通信費、修繕費。複数の費目にわたって、予算執行記録の数字が支出伝票の合計を上回っていた。つまり、帳簿上は使ったことになっている金が、実際の伝票では裏付けられない。


 差額の合計を、私は帳面に書き出した。


 三年分で、金貨に換算して——。


「五十枚」


 ヴェイン——アーレンス監査官が、低い声で数字を読み上げた。


 金貨五十枚。書記官の年俸がおよそ金貨十五枚だから、三年分以上の額が行き先不明になっている。


 私は帳面を閉じ、しばらく黙った。


 これが一人の人間の横領だとすれば、規模としては十分だが、手口が雑すぎる。費目が分散しているのは隠蔽のつもりだろうが、支出伝票と照合すれば簡単に発覚する。つまり、照合する人間がいないことを前提にしている。


 書記局の会計は、書記局が自ら管理する。他局の監査が入るのは、不正の告発があった場合だけだ。内部で帳簿と伝票を照合する業務は——本来は次席書記官の職務だが、フリッツがそれをどこまで実施しているかは不明だ。


「アーレンス監査官」


「はい」


「この不整合は、予算執行記録の側に問題があるように見えます。支出伝票の数字は個別の取引に基づいていますから、偽造するなら伝票の方が手間がかかる。執行記録の数字だけを書き換える方が容易です」


「同意します」


「ただし、これが一人の書記官の行為かどうかは、まだわかりません。予算執行記録の決裁権限は局長にありますが、記帳作業は複数の書記官が分担しています。記帳者の特定には——」


「魔力痕跡鑑定が使えます」


 そう言って、彼は帳簿のページに手をかざした。指先から微かな光が漏れた。


「帳簿に残された筆記の魔力痕跡を鑑定すれば、記帳者を特定できます。ただし、三年分の帳簿すべてを鑑定するには時間がかかる。正式な監査手続きに移行してからでなければ、鑑定結果を法的証拠として使えません」


「予備調査の段階では、数字の不整合を示すだけで十分ですか」


「十分です。これだけの差額があれば、正式監査の開始要件を満たします」


 彼は帳簿を棚に戻しながら、小さく言った。


「ご協力に感謝します、ホルン書記官」


「私が選んだことですから」


 書庫を出た。地下から階段を上がり、書記局の廊下を抜け、宮廷の正門に向かった。窓の外は暗くなっていた。春の日は長いが、書庫で過ごした時間も長かった。


 正門を出た瞬間、頬に冷たいものが当たった。


 雨だった。


 細い雨が、夜の空気を湿らせていた。石畳がかすかに光っている。


 傘がない。当然だ。朝の時点では晴れていた。


 隣で、布の広がる音がした。


 振り向くと、アーレンス監査官が傘を開いていた。黒い、飾り気のない傘。彼は私の方を見て、少しだけ傘を傾けた。


 何も言わなかった。


 この人は、本当に何も言わない。焼き栗のときもそうだった。差し出すだけで、説明をしない。


「……ありがとうございます」


 傘の下に入った。二人分には少し狭くて、彼の右肩が雨に濡れていた。けれど彼は傘の角度を変えなかった。


 正門から大通りまで、百歩ほどの距離。並んで歩いた。足音と雨音だけが響いていた。


 大通りの角で、道が分かれた。彼は右、私は左。


「ここで。お気をつけて」


「アーレンス監査官も」


 傘の下から出ると、雨がすぐに髪を濡らした。振り返らずに歩いた。


 帰り道、考えていたのは金貨五十枚の行方でもなく、帳簿の魔力痕跡でもなかった。


 彼の右肩が濡れていたこと。傘を私の側に傾けたまま、百歩のあいだ一度も角度を直さなかったこと。


 考えても仕方のないことだ。


 けれど、雨の匂いの中に、まだ焼き栗の記憶が混じっている気がした。

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