第4話 告発書類の不存在
クライスト公爵令嬢が書記局を訪ねてきたのは、断罪イベントの延期が伝えられてから五日後の朝だった。
最初に気づいたのはハンナだった。書記局の入口で足を止めた人影を見て、椅子から半分腰を浮かせた。
「こ、クライスト公爵令嬢……?」
その声で、私も顔を上げた。
淡い金の髪を簡素に編み、薄紫の外套を羽織った女性が、書記局の敷居の手前に立っていた。背筋が真っ直ぐで、表情は穏やかだが、目元にわずかな緊張がある。
エリーゼ・フォン・クライスト。二十歳。筆頭貴族クライスト公爵の一人娘。第一王子アルベルト殿下の婚約者。そして——断罪イベントの標的とされている人。
前の人生で、隣の席の同僚が「この子がかわいそうなんだよ」と言っていた記憶がうっすらとある。ゲームの中で悪役令嬢とされていたが、実際に悪事を働いたかどうかは知らない。私がプレイしていないゲームの情報など、その程度のものだ。
けれど今、目の前にいるこの人は、ゲームの登場人物ではない。
「ご用件をお伺いします」
私は立ち上がり、窓口の対応に出た。公爵令嬢が書記局を直接訪ねること自体が異例だが、閲覧申請は身分を問わず受理する。それが書記局の規則だ。
エリーゼは一歩入り、小さく頭を下げた。公爵令嬢がモブ書記官に頭を下げる必要はないのだが、この人はそういう人なのだろう。
「お忙しいところ申し訳ありません。わたくし、クライスト家のエリーゼと申します。自身に関わる公式記録の閲覧を申請したく参りました」
声は落ち着いていた。けれど、「自身に関わる公式記録」という言い方に、すべてが込められていた。
断罪の噂は、当然本人の耳にも届いている。何を言われているのか、何を着せられようとしているのか、公式の記録で確認したい。それは当事者として当然の権利だ。
「承知しました。閲覧申請書にご記入をお願いいたします」
申請書を渡し、記入を待つあいだに、私は関連する簿冊を準備した。告発記録簿。公式の告発——すなわち、特定の個人に対する罪状の申し立て——は、書記局に告発書を提出し、受理番号を付与されて初めて手続きが開始される。告発書には告発者の署名、罪状の具体的記載、証拠の目録、そして書記局の受理印が必要だ。
エリーゼが申請書を書き終えた。筆跡は端正で、一字の乱れもなかった。
私は申請書を受理し、告発記録簿を開いた。
エリーゼ・フォン・クライストの名前を検索する。直近一年。該当なし。直近三年。該当なし。念のため五年分を遡った。該当なし。
クライスト公爵令嬢に対する告発書は、一通も提出されていなかった。
次に、関連記録として、第一王子殿下の名前で提出された書類を確認した。婚約に関する変更届、解消届、あるいは告発の委任状。いずれも存在しない。
最後に、聖女候補の認定に関する記録を確認した。メルツ男爵令嬢リゼリアの聖女候補認定書は存在する。しかし、その認定に伴ってクライスト公爵令嬢の地位や権利に影響を及ぼす手続きは、一切記録されていなかった。
すべて確認を終えて、私はエリーゼの前に座った。
「閲覧結果をお伝えします」
エリーゼの手が、膝の上でわずかに握られた。
「公式記録上、クライスト公爵令嬢に対する告発書は提出されておりません。受理番号も存在せず、罪状の記載もございません。また、第一王子殿下の婚約に関する変更届および解消届も、書記局には届いておりません」
事実だけを述べた。声に感情を乗せないよう注意した。同情も怒りも、今ここでは余計なものだ。
エリーゼは数秒のあいだ、まばたきをしなかった。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまり、わたくしに対する断罪には、何の手続きも踏まれていないということですね」
「はい。現時点で、書記局が認知している公式な手続きは存在しません」
エリーゼの目が静かに揺れた。安堵ではなかった。悲しみに近い何かだった。手続きが存在しないことは、無実の証明ではない。ただ、告発する側がそもそも制度を無視しているというだけのことだ。それは、彼女の名誉を軽んじているということでもある。
「ホルン書記官」
「はい」
「ありがとうございます。正確にお教えいただいて」
正確、という言葉を、今週二度聞いた。一度目はアーレンス監査官から。二度目はこの人から。
「閲覧結果の写しが必要でしたら、申請書に追記いただければ発行いたします」
「お願いしてもよろしいですか」
「もちろんです」
写しを作成し、エリーゼに手渡した。彼女はそれを丁寧に折りたたみ、外套の内側に仕舞った。
「失礼いたします」
エリーゼが去った後、書記局は静まり返っていた。同僚たちが何か言いたげにしていたが、誰も口を開かなかった。公爵令嬢が書記局を訪ねて、モブ書記官と静かに言葉を交わし、書面を一枚受け取って帰っていった。それだけのことだ。
けれど、それだけのことが、この宮廷では滅多に起こらない。
昼過ぎ、ブルーメ局長が帰局した。
三日間の不在だった。どこにいたのかは公式には出張とされていたが、行き先の記録は書記局内の出張簿に記載されていなかった。これも手続き不備だが、局長自身の出張を局長自身が承認する構造上、指摘する者がいない。
局長室の扉が閉まり、しばらくしてフリッツが呼ばれた。
私の席からは局長室の中は見えない。けれど、フリッツが出てきたときの顔色で、おおよその推測はできた。白い。唇が引き結ばれている。
フリッツは自分の席に戻り、帳簿を開いたが、しばらくのあいだページをめくる手が動かなかった。
ブルーメ局長がフリッツに何を言ったのか、私にはわからない。わからないが、フリッツの手元に、昨日まで置いてあった私の業務改善実績の総括表の写しが見当たらないことには気づいた。
局長室に持っていったのか。あるいは、持っていかされたのか。
いずれにせよ、ブルーメ局長は今、私の実績が数字として可視化されたことを知っている。フリッツがどこまで報告したかはわからないが、二百四十七件という数字を知らないままではいられないだろう。
局長は一度も私の席を見なかった。廊下ですれ違っても、視線をよこさなかった。
それが何を意味するのか、前の人生の経験が教えてくれる。無視は安全の印ではない。嵐の前の凪だ。
けれど、今日の私の仕事は終わっている。
退勤の鐘が六つ鳴った。
席を立つ。鞄に控えを入れる。
今日は渡り廊下ではなく、宮廷の裏門から帰ることにした。理由は特にない。春の夕暮れが少しだけ長くなって、裏門の通りに並ぶ屋台が気になっただけだ。前の人生では屋台で何かを買い食いする余裕などなかったが、この人生では退勤後の時間は私のものだ。
裏門を出たところで、足が止まった。
門柱の脇に、濃紺の監査官服を着た長身の男が立っていた。
アーレンス監査官。
渡り廊下ではなく、裏門。いつもと違う場所で、いつもと違う時間に。
彼は私に気づき、一瞬だけ動きを止めた。その手には紙包みが握られていた。裏門前の屋台で買ったものらしい。湯気が細く立ち上っている。
「——お疲れさまです」
「お疲れさまです」
いつもの挨拶。場所が違うだけで、言葉は同じだった。
アーレンス監査官は紙包みを見下ろし、それから私を見た。何か逡巡しているように見えた。この人が逡巡する姿を見るのは、初めてではない。先日の渡り廊下でもそうだった。言葉を探す時間が、この人には必要らしい。
彼は紙包みを開いた。中には焼き栗が入っていた。小ぶりで、皮に焦げ目がついていて、甘い匂いがした。
彼はその中から一つを取り出し、私の方に差し出した。
無言だった。
何の説明もなかった。「よかったらどうぞ」も「お一ついかがですか」もなかった。ただ、焼き栗を一つ、指先でつまんで、私の前に差し出しただけだった。
断る理由がなかった。
「いただきます」
受け取って、皮を剥いた。中身は黄金色で、ほくほくと柔らかかった。口に入れると、素朴な甘さが広がった。
おいしい。
前の人生で最後に甘いものを食べたのはいつだったか、思い出せない。コンビニの栄養ゼリーだった気がする。あれは甘かったが、おいしくはなかった。
「……おいしいですね」
思わず声に出た。アーレンス監査官は自分も一つ口に入れて、小さく頷いた。
それだけだった。
二人で裏門の前に立って、焼き栗を食べた。会話はなかった。夕暮れの風が屋台の煙を流していて、遠くで荷馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。
彼が紙包みの最後の一つを食べ終え、包みを丁寧に折りたたんだ。
「では」
「お疲れさまでした」
彼は右に、私は左に歩き出した。いつも通り、反対方向に。
帰り道、口の中にまだ栗の甘さが残っていた。
なぜ彼が裏門にいたのかはわからない。偶然かもしれない。いつもと違う道を選んだのは私の方だ。彼は最初からあそこで焼き栗を買う習慣があったのかもしれない。
わからないことは、わからないままにしておく。
ただ、今日は夕暮れが少しだけ暖かかった気がする。
春が深まっている。




