第3話 正規決裁書類の不存在
翌朝、私が書記局の自席についてちょうど三分後に、アーレンス監査官が来た。
書記局の扉を開けて入ってくる監査官服の姿に、同僚たちの視線が一斉に集まった。無理もない。魔術監査局の人間が書記局に直接足を運ぶことは珍しい。通常は連絡書を局間便で送るのが慣例だ。
けれど彼は昨日、「正式な書面でお持ちします」と言った。持ってきた、ということだろう。
「ホルン書記官。お約束の書面をお届けに参りました」
彼が差し出したのは、魔術監査局の正式な局間照会書だった。監査局長印と、担当官としてのアーレンス監査官の署名。宛先は宮廷書記局・大広間使用管理担当。
文面は簡潔だった。
来月十五日に大広間にて行事が実施されるとの情報を監査局が認知したところ、当該行事に係る書記局決裁の有無について照会する——要旨はそれだけだ。
余計な推測も、断定的な表現もない。事実の確認のみを求める、模範的な照会書だった。
「確かにお受けしました。本日中に回答書を作成し、局間便でお届けします」
「お願いします」
彼は一度頷き、背を向けた。来たときと同じ速度で去っていった。滞在時間はおそらく一分に満たない。
彼が出ていったあと、ハンナが小声で尋ねてきた。
「……監査局から照会って、何かあったんですか」
「業務です」
それ以上は答えなかった。答える必要がないからではなく、答えられることがまだないからだ。
照会書を受理した以上、回答する義務がある。そして回答するためには、調査しなければならない。
これは私の判断ではない。制度が要請する手続きだ。
私は大広間の予約台帳を取り出した。二日前に確認したものと同じ台帳。しかし、今回は違う。前回は自分の目で見ただけだ。今回は、正式な照会に対する正式な調査として、記録に残る形で確認する。
台帳を開く。来月のページ。十五日の欄。空白。前後三日も空白。
次に、決裁記録簿を確認した。大広間の使用許可に関する決裁は、すべてこの簿冊に綴じられる。直近三か月分をめくった。来月十五日に対応する決裁記録は存在しない。
さらに、申請書の受付台帳。大広間の使用申請書が提出されれば、まず受付台帳に記載され、その後決裁に回される。受付台帳にも、該当する記載はなかった。
三つの記録。予約台帳、決裁記録簿、申請書受付台帳。そのすべてに、来月十五日の大広間使用に関する記載が存在しない。
これは「見落とし」や「未処理」ではない。申請自体がなされていないということだ。
私は調査結果を書き留めた。業務記録の控えに、今日の日付と調査内容を記す。それから、回答書の作成に取りかかった。
回答書の文面には細心の注意を払った。
書くべきことは事実だけだ。「照会のあった来月十五日の大広間使用について、予約台帳、決裁記録簿、申請書受付台帳のいずれにも該当する記載は確認されなかった」。それ以上のことは書かない。「断罪イベント」という言葉も使わない。「第一王子殿下」の名前も出さない。回答書に記すのは、照会された事項に対する事実の報告のみ。
推測を書けば、それは書記官の越権になる。感情を書けば、文書の信頼性が落ちる。
事実だけを、正確に、簡潔に。
書き上がった回答書に、大広間使用管理担当としての私の署名を入れた。決裁権限は局長にあるが、調査担当者の署名は職務上の義務だ。そしてこの回答書は局長決裁を必要としない。照会に対する事実回答は、担当書記官の権限で発出できる。
——もし局長決裁が必要な類の文書であったなら、ブルーメ局長はこの回答書を握り潰しただろう。けれど制度はそうなっていない。担当者に回答権限があるのは、照会制度の独立性を担保するためだ。
前の世界の行政制度より、この点においてはガレスティア王国の方が優れている、と思った。
回答書を封筒に入れ、局間便の棚に置いた。監査局には本日中に届く。
昼を過ぎた頃、書記局の空気が再び変わった。
局長室から出てきたフリッツが、妙に硬い顔をしていた。その後ろから、見慣れない男が一人、足早に廊下へ消えていった。服装は近衛騎士団の略装。ただし、肩章の紋様はアルベルト第一王子殿下の側近を示すものだった。
フリッツが書記官たちの前で、短く告げた。
「来月十五日に予定されていた大広間での行事は、延期となった。第一王子殿下の側より『準備の都合で日程を再調整する』との連絡があった。正式な文書による通知は追って届くとのことだ」
書記官たちがざわめいた。
「延期?」
「断罪の儀が?」
「準備って、何の準備が——」
私は黙って自分の業務を続けた。
延期。中止ではなく、延期。
つまり、やめたわけではない。日程を変えるだけだ。おそらく次は、手続きを踏もうとするだろう。あるいは、手続きを飛ばせる別の方法を探すかもしれない。
どちらにせよ、今日の私の仕事は終わった。照会を受け、調査し、回答した。それだけのことだ。
ただ一つ、胸の中に残ったのは、フリッツの言葉の中にあった「正式な文書による通知は追って届く」という部分だった。
追って届く。裏を返せば、今日の連絡は口頭だ。口頭の連絡は、書記局の事後追認がなければ公式には無効。
まだ、紙の上には何も起きていない。
退勤の鐘が鳴った。
六つ。今日も正確に六つ。
羽根ペンを置き、インク壺に蓋をし、書類を揃え、鞄に控えを入れた。
渡り廊下に出ると、夕暮れの光はうっすらと曇っていた。春の空に薄い雲がかかっている。
向こうから歩いてくる濃紺の影。今日で千と何日目かの、すれ違い。
けれどアーレンス監査官は、今日も足を止めた。昨日に続いて、二日連続。
「ホルン書記官」
「はい」
「回答書、先ほど受領しました」
「ご確認いただけましたか」
「はい」
それだけ言って、彼は少し間を置いた。何か言葉を探しているように見えた。この人が言葉を探す姿を、私は初めて見た。
「あなたの仕事は正確だ」
短い言葉だった。声の温度は相変わらず低い。抑揚もほとんどない。
けれど、それが世辞でないことはわかった。この人は世辞を言う人間ではない。三年間の挨拶で、それくらいは知っている。
「ありがとうございます。監査官殿の照会書も、大変正確でした」
彼の眉がほんの少しだけ動いた。驚いたのか、照れたのか、どちらでもないのか。わからない。表情の読めない人だ。
「では」
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
彼は歩き出し、私も歩き出した。反対方向に。
正門を抜けて、夕風を吸い込んだ。曇り空の下でも、春の風は青い匂いがした。
正確だ、と言われた。
たったそれだけの言葉が、五年間で一度もなかったものだった。
二百四十七件の改善を提出して、一度も。三度の登用試験を受けて、一度も。誰からも言われなかった言葉を、手続きを正しく守っただけの今日、初めて聞いた。
別に、嬉しいわけではない。
嬉しいわけではないのだが、今日は少しだけ、帰り道が短く感じた。




