第9話.誰にだって天井はあるものなのだ
ところで、そろそろ県大会の話をするべきだと思うのだけれど、残念ながらぼくが一年目の時の県大会はあまり記憶がない。
なぜだろうといろいろ考えた上でこれから順を追って話すのだけれど、まず最初にみなさんの期待を持たせないように結果だけを先に伝えたいと思っている。
負けたのだ。三回戦で。
地区予選ではあれだけの圧勝を見せたはずのタマキタも、埼玉県という大舞台に立ったとたん、あまりにもあっけなく吹き飛ばされる中堅校に過ぎなかったのだ。
ぼくにはその衝撃も大きかった。なにせ初めて見た剣道の試合があの九連勝達成の現場だったのだ。それはどんなスポーツ漫画の一コマよりも輝かしく、眩しく、そして強烈な熱量を持って、ぼくの心の底に焼き付いていた(もっともぼくはスポーツ漫画をそんなに真面目に読んだことはないのだけども)。
にもかかわらず、県大会という舞台は、地区予選よりもあまりにもあっけなく、そっけなく、そして味気ないものに思えた。
順を追って話そう。
まず地区予選が特定の高校の体育館をその試合場にするのに対して、県大会は上尾の県立武道館で行われる。行ってみるとわかるが、すごく大きくて立派な施設だ。
場所も、なぜか駅から遠い。地区予選の会場が駅からてくてく十分程度歩く距離だったのに対して、上尾の武道館は上尾駅から下手すると三〇分ぐらい掛かる。歩いて三〇分だ。
だから移動にはタクシーを使う。少なくとも駅集合のメンバーは。
「遅ッせえぞ! 星野!」
「はい! すみませんッ!」
集合時間は朝七時二〇分。ところでぼくはギリギリ都内なので、そこから逆算すると五時半には家を出てないといけない。
はっきり言って、いつもよりも早起きしなければならない。
ぼくはあくびをかみ殺しながら電車に揺られ、上尾駅でとりあえず防具袋(面から胴垂れ道着袴、一式を仕舞う黒い袋のこと)をズラリと並べた集団に合流する。
剣道部の集団はその荷物の大きさからかなり目立つ。人の体がスッポリ入る防具を丸ごと収める黒い立方体の袋を想像してほしい。その気になれば中学生ひとり丸ごと仕舞うことができるだろう。それを肩なり背中なりに担ぎ、さらに竹刀袋を捧げ持つ中学生の集団を想像してもらいたい。彼らは時として坊主頭だ。女子はショートカットかポニーテールが多い。とにかく被り物をしてひたすら汗を掻くわけだから、そんなに身だしなみを整えている感じはない。
ぼくもその中に紛れ込んだ一人だった。
ぼくがいそいそとやってきて、それを叱ったのは飛田先輩である。
「新人だからしょうがねえけどよ、今度から集合時間の二〇分ぐらい前には来いな」
「えっ」
「えっ、じゃないよ。おれらは補欠だけど、メイン張るのはこいつらだからさ。荷物持ちとか、やることたくさんあるんだよ。ホラ、竹刀持ってて」
「あっ、あっ……」
立て続けに二袋──一人当たり予備含めて最低二本、多くて三本入ったそれを、まとめて預かる。
ふと見ると、大木が三木先輩の荷物をフル装備している。なんだお前、代理で出るのか。
「ちげえよ。先輩の荷物持ちだよ!」
言葉は無くても通じたらしい。大木がぷっちょ面で反論した。
よく見ると湯浅も防具袋の番人をしている。ほかの先輩は、と飛田先輩に尋ねたところ、「便所」と帰った。その言葉をもみ消すように早々に北島先輩を筆頭にレギュラー陣が戻ってきた。
「あれ? 中嶋は……どこですか?」
「あいつは遅刻だと」
「あらら」
「ばかやろう。おかげで誰が残るか決めなきゃなんねーの」
「え、あ、はい」
「よし決めた。お前のこれ」
「……へ?」
「大丈夫、佐伯も待たせっから」
飛田先輩は、そのまま佐伯先輩を呼びつける。言われて出てきた先輩は、飛田先輩の命令にそれでも「はい」と言った。
ということで、ぼくは一度預けられた手荷物を剥奪され、先輩と二人きりである。
「……先輩」
「なに?」
「あ、いえ。武道館ってどうやって行くんですかね」
もしこれがスマートフォンが普及した現在であるなら、「ンなもん調べて来いよ」の一言で蹴散らされたはずである。が、いまここで語っているのはすでに過去の話、スマートフォンなんてお金持ちの家がお遊びで持っている程度で、ワンセグなんて言葉がまだまだ最先端だった頃なのだ。
佐伯先輩はそっけなく「タクシー」だと答えた。
「タクシー?」
「バスは待てないでしょ? タクシーは、今みたいに遅刻する奴もいるから、融通が効くの」
「す、すごい……」
「すごくないよ。慣れれば大したことないって」
実際、あとになって思うのは、ぼくらはよくタクシーを使って練習試合や公式戦へと行った。ときどきうまく噛み合えばバスを使ったし、同級生や先輩方のご両親が運転する車で移動したこともある。
もちろん歩くこともあったが、試合の日に歩いて行くなんてことはめったにない。
それから気まずい時間があった。主に黙ってるだけだったり、思いつきで確認取ってすぐ終わるだけだったりするような、途切れ途切れの、ちょっとストレスすら感じる時間。
思えばぼくは先輩方の趣味すら知らない。共通の話題といえば学校の成績と、部活動のあれやこれや──というか、これ以上のコミュニケーションを取るのは基本〝友達〟であり、同じ部活でそうしたやりとりはなかなか発生しないような気がした。
文化部だったら違うのかもしれない。しかし稽古と授業の往復しかその学校生活を知らないぼくにとって、手頃な話題は先生と同級生と先輩方のうわさばかりだった。これに加えてかろうじて、テレビのバラエティ番組でどの芸人が何をしたか、なんてことを、まるでカレーに福神漬けでもつけるように、ちょっと上乗せする程度だった。
これだけの手札の少なさで、学校生活のコミュニケーションが成り立つ。そして誰かの印象をよく覚えている。
今思えばとても驚くべきことだ。趣味が合うわけでも、考え方が一致するわけでも、ましてや人柄の好き嫌いが合うわけでもない。それでも同じ場で、同じことをやって、同じ人のもとで過ごす時間が、ふしぎとこうしたひとたちとぼく自身をひとつのまとまりにしてしまう。
やがて中嶋がやってきた時、ぼくは中嶋の何を知っているんだろうと思った。背丈がでかいこと。シューティングゲームと美少女ゲームが好きなこと。漫画マニアであること。なぜか同じクラスメイトなのに、別に友達同士であるつもりはないのに、なぜか縁がある隣人であること。
でもそれ以上に、同じスタートラインに立って、ときどき転んだり、たまにガンを飛ばしたりするような並走者だったのかもしれない。
「おっせえよ!」
「すんません!」
佐伯先輩がグーパンで肩を狙った。背丈の差があるので斜め上への攻撃だった。もちろん本気ではないが、中嶋は茶目っ気たっぷりに謝る。「ナメる」というしぐさがあるが、佐伯先輩は比較的優しいことが知られているため、中嶋はほかの先輩には厳粛に謝るくせに、何人かにはこうして砕けた仕方で対応する。それがときに「生意気」だとして、先輩方からボコボコにされるわけだけども、それは別にいじめとかではない。男子校ならではの、なんていうか、肉体言語なのだ。
結局ぼくと中嶋は佐伯先輩に付き従って上尾の武道館までタクシーで向かう。そして着いた場所から外付きの階段を上がっていくと、すでに防具袋と竹刀袋を寄せ集めた塊が所狭しと並んでいる光景に出くわした。
「すげえ」
「あーあ、また混んじゃってるよー」
佐伯先輩はげんなりする。
上尾の武道館は八時ごろ開場なのだが、早く入ったグループほど技練をするスペースがとりやすい。
だから勝つ気のある部活ならなるべく早いうちに武道館に向かい、場所取りをする。ぼくたちの集合が早いのもそのためだ。
しかし朝早いことには変わりない。先輩方の何人かは、集合時間までに何も食べてこない人もいた。というか、そういう人の方が多い。彼らは〝まず〟場所取りをして、それから近所のコンビニまで歩いておにぎりを買ってくる。待ち時間のあいだはすることがないからご飯を食べたり、無駄話をしたり、もしくは中学生らしく指遊びをするなどしてひたすら待つ。
ぼくたちが来た時も、先輩方と湯浅が指を立てながら「いっせーの、せっ」とか言いあってるそんな現場だった。
「あっ来た」
マイペースな遠藤先輩が口を開く。
「中嶋でけえよ」
飛田先輩がツッコミどころ満載のツッコミをする。
「すんません遅れましたぁ」
「は? ふざけてんのか」
「ふざけてないです! ふざけてないです! ああ、痛い! やめてぇ♡」
飛田先輩の本気のグーパン。ちなみに飛田先輩は小学校時代に空手で全国大会準優勝の記録がある。さぞかし痛かろうが。
そんな暴力沙汰も、男子校の運動部で呼吸と同じ程度のものだった。湯浅は楽しく指を立てて、「五!」と言っている。参加している先輩方の立てた親指の総本数は五本。「やったぜ」と言いながら湯浅は勝ち抜け。先輩方は「やるな」とふくみのある笑顔である。
そうこうしているうちに、武道館のドアが開く。慌てて荷物を担ぎ出す先輩方と、ぼくたち。防具袋も竹刀袋もぶつからないように抱え込んで、一斉になだれ込む人混みに、先輩方を見失わないようにせっせともがく。
なかでも中嶋はよく目立った。当然、中学生の中での一八〇センチメートルは誰がどう見ても(物理的に)頭が一つ抜けている。だからぼくは彼の頭とその周辺を見ているだけでよかった。
人混みは、そのまま観客席まで続く。ぼくたちはあらかじめ決められていたタマキタの応援席の場所へと荷物を持って行って、先輩の着替えるのを見ていた。あとはもう、応援や雑用以外にやることがない。
地区予選とちがって、県大会ではトーナメント調査もたすき付けも、補欠メンバーの仕事になる。というのも選手以外は会場に入れないからだ。ぼくたちはただ応援席に座って、他校の練習と試合を見ながら、有力選手かいないかとか、人の試合の仕方を勉強するとか、そんなことしかできなかった。
最初のうちは見ていて楽しい。第一試合、手前の会場で始まる試合の清々しさ。しかしそれも二回三回、中堅・副将となっていくと退屈になってきて、手持ち無沙汰なのもあいまって、どうしたものかと待たされる。
おまけに、繰り返すようでなんだけど、ぼくらは朝が早いのだ。ぼくの五時起きなんてまだ可愛いもので、隣の大木は四時に起きている。そんなこんなで眠たげなのか、試合を鑑賞しているはずが、頭が前へ後ろへ、船を漕ぎ出している。
「おい、起きろよ。おれらんとこの試合始まるぞ」
「え、あ」
いちおうぼくたちにも仕事はある。試合の記録を付けること。そして、お昼ご飯どきに応援に来た親御さんの手伝いをして、お弁当を配ることだ。
ときどきビデオカメラを持つことがある。これは部活の、というよりは先輩方のご家族の意向で、試合の振り返りに使うらしい。
タマキタの第一試合。最初は圧勝。
一応書くだけ野暮なのだけど、結果は次の通りだ。
先鋒・三木:面と小手。
次鋒・窪田:面。胴。
中堅・黒崎:面。面。
副将・久川:小手。面。
大将・北島:面。面。
特に北島先輩の勝ち方は、中学生とは思えない貫禄ぶりで、相手が「アッ」という間も無く、即座に面。二回目も瞬殺といった具合。
このあっけなさは、強さというよりも、地区予選のレベルの差だった。
そして第二試合も似たような感じでサクサク終わる。ちょっと次鋒の窪田先輩が負けたぐらいかな。でも、しょうじきこれはぼくにとっては記憶に残らない、小さな通過点だった。
「次の試合は?」
ぼくは中学の名前を言った。
「ああ、負けたくねえな」
三木先輩が答えた。
なんか意味深だった。
その予感を回収するように、ぼくたちはあっけなく先輩方が敗北するのを目の当たりにした。
二対三。
勝ったのは、窪田先輩と久川先輩だけである。あとの三人は負けたのだった。




