第6話.これでお前もクサい奴らの仲間入りだ。
ようやく道着と防具の一式が届いたのは、六月に差し掛かった頃だった。
「星野ー! 中嶋ー!」
夏野先生の上機嫌な声が、ぼくたち素振り組を呼んでいた。
ぼくと中嶋は揃って顧問室へ行く。失礼しますッ! と言って敷居をまたぐと、ジャージ姿の夏野先生がにこにことした面持ちでぼくらに大きな箱を示した。
「これだよ、コレ」
ぽん、としきりに叩く。その様子はふだんの怖い顔とは打って変わって、親戚のおじさんにでもなったかのようだった。
さながら南半球のサンタクロース。大きな段ボール箱を開いて、ビニールまみれの塊を表彰状のようにホイと手渡す。その大きさはもらった人の体格に比例していた。ぼくも決して小さくはないほうだけれど、中嶋のそれには敵わない。それがまるで、掛けられた期待の大きさのように思えて、堪らない気持ちにさせられたのだった。
「付け方、わかるか?」
夏野先生の言葉に、ぼくらはいいえと答える。身振りだけの返事は武道を学ぶものにとってはご法度だった。
「よし。なら……佐伯!」
師範室の外からドタバタと佐伯先輩を呼ぶ声が駆け巡る。
体育会系あるある。顧問が誰かを呼ぶとき、聞いた生徒が一斉に捜索を始める。声が声を呼び、道場一帯を覆うと、呼ばれた当人は心当たりを胸のうちで探しながら一直線に師範室へとなだれ込むのだった。
「ゴウ、おまえ一年に着装教えろ」
「はい!」
佐伯先輩について、ちゃんと説明する機会がなかったから、いまのうちに書いておく。
剣道とは五人で一個のチームとなる競技だ。補欠は多くて二人まで。ということは、七人目に選ばれなかった人たちは練習ざんまいのくたびれもうけといったところで、試合練習の厳しいしごきが無い代わりに、試合メンバーのサポートとしてあれやこれやをやることになる。
例えば、試合練習の審判。試合道具の管理。当日の試合参加メンバーの補佐。などなど。ほとんどマネージャーのような仕事である。他にも遠方の錬成会に出かけた試合メンバーとは別行動で、数ある後輩たちを率いて顧問抜きの稽古を指揮することだってある。
佐伯先輩は、ぼくたちの一個上の先輩だったが、そうしたことをよくしていた。実力がないわけではない……と思う。剣道は経験者だったし、父親が機動隊のため、親子で剣道をしているというぐらいなのだ。
しかし本人はどちらかと言うと剣道そのものが苦手だとこぼしていた。
「剣道部のみんなは好きなんだよ。だからなんとかやってける。でも稽古はキッツイ。やめたいもん。ほんとは」
何かの拍子でそう言っていたのは、いつのことだったろう。
少なくとも着装を教えた時ではなかった。けど、ぼくはこの時からなんとなく、ひよこが親を認識するみたいに佐伯先輩から何かを教わるものだという刷り込みを受けていた。だから、剣道部生活を振り返るにあたって、佐伯先輩の存在を抜きにしては何も語ったことにはならないのだ。
とにかく、剣道着の着方と防具の付け方は佐伯先輩から教わったのである。
ぼくたちは稽古場から離れ、部室を借りてひたすら道着と袴を付けたり、外したりを繰り返して紐の結び方を覚え込んだ。これがなかなか面倒で、襟元がちゃんと左右バランス良く整うよう、揃えつつ、しかも稽古中に解けないように固く結ぶ努力をするのだ。
おまけに、防具の付け方と言ったら!
剣道の着装とは、すなわち紐をいかに丁寧に、素早く、固く結べるかの特訓にほかならなかった。
まずは垂れと呼ばれる、股間から腰回りを保護する防具を付ける。ふつう防具は正座して付けるのだが、垂れに関しては膝立ちでやることが多い。腰巻というか、小さい頃好きだった変身ヒーローもののベルトのような形状をしているが、特徴的なのはその帯が腰を回って一周してしまうところだろう。結果、帯の先端は股間を守る真正面に集約しそこで蝶結びをすることになる。この帯をきちんと引き締めないと稽古中にずり落ちるし、かと言ってキツすぎると股関節が締め付けられるように痛くなる。見かけによらず、なかなか侮れないのだ。
垂れが終わると、胴である。垂れの上に据えるように位置を決めて、紐を結ぶ。
胴紐は右の背後から左の肩を回って表へ抜け、胸乳革をくぐる。そこからぐるっと一周して小さな輪っかを作り、紐をくぐらせて結ぶ。これをもう一方でも繰り返し、左右対称にするわけだ。
そして、胴の紐は腰元にもう二つある。それらは一直線に背後で蝶結び。
これでだいたい完成。ただ、肩に掛かる胴紐の長さを適切にできないと、胴が上半身に持っていかれ、へそのあたりががらんどうになる。これを胴が〝浮く〟と言った。
かと言ってゆるくしすぎれば、すぐ解けて落ちる。からだに合わせて付けるものだから、緩くしたらやっぱり動きにくいのだ。
ぼくはいちおうこの着装の練習を一時間掛けてやっていたが、出来はまばらだった。
「星野立ってみ? ホラ、胴が浮いてる」
佐伯先輩の教え方は優しくてとても人懐っこい感じがする。道場でしょっちゅう怒鳴る夏野先生とは大違いだ。
「中嶋も、それじゃ竹刀で打たれたら痛いぞー」
ふと隣りを見ると、中嶋の垂れと胴の間がすっかり空いていた。
まるで怪獣のまぶたが開き掛けのような、見事なまでのズレっぷり。
ブッ、と噴き出す。中嶋は「何笑ってんだよ」と文句を垂れる。
「いやだって」
「だっても何もないだろ」
「まあ、そうだけど」
今日の中嶋はどこか不機嫌だった。
「中嶋。良いから、もっかいやり直して」
結局これを二日間繰り返した。平日の稽古時間を合計すると、約二時間。中等部の強制帰宅時間というものがあるので、ぼくたちは比較的早めに稽古を切り上げて帰らざるを得ない。佐伯先輩は、だからその後に面をつけて参加することになる。
時間を分けてもらっている。この感覚は、中学生にはまだ理解できない。けれどもこのことがいかにすごいことかは、自分がその立場になってみるとよくわかることだ。
垂れと胴がだいたい慌てずに結べるようになると、今度は面をかぶる練習をする。
「まずは手拭いで〝帽子〟を作る」
「帽子?」
「うん。おれはもっとラクな方法でやってるけど、初心者は帽子作るところからの方がわかりやすいから」
「はあ」
ちなみに中嶋は昔とったなんとやら、でサっと頭に巻いて見せた。ぼくもやっきになってまねて見せたが、頭の上でターバンのようにグルグル巻きになるだけだった。
とりあえず帽子の作り方が慣れてくると、ようやく面を被る。ほんとに、ようやく、と言った心地は拭えない。
面については、剣道部の代名詞、と言って良いぐらいの独特な外見をしているが、見かけ通りというか、しっかりと、重い。
まず頭に被るわけだけど、これが首にずっしりと重しを掛ける。これはもちろん、正面の面金がそれなりの重量だからだ。とはいえ、被ってそのままだと前の方から重力に沿ってまっ逆さまのバカ丸出しなので、やはり紐を後頭部で結んで、固く、固く蝶結びにしておかなければならない。
この蝶結びが、なかなか難しくて、固すぎると痛くてしんどいし、緩すぎると話にならない。だから、固く結ぶ練習をするわけだけど、なかなか締まりが悪い。
あーでもない、こーでもない、と盛んに批判と講釈を受けながら、ようやく形になった頃には、はや一週間が経とうとしていた。
「せいれーつ!」
ぼくは、この時初めて道着を着て稽古に臨んだ。中嶋もそうだった。今まで見上げていたはずの世界に、自分も同じ衣装をまとって立っている。そんな気がした。
中学一年生は、上座正面に並ぶ高校生の、後ろの列で、もっとも下座に位置する。上座下座というのは、要するに神棚のある場所のことを上とするのだけれど、ぼくらのいるタマキタの道場の上座とは、正面に向かって左側──その方向には剣道場の出口があって、武道館の玄関口に最も近い。
正面には太鼓があって、稽古中は夏野先生が合図で鳴らす。いまはその前にどんと構えて正座する。お寺の仏像だってこんな覇気をまとったりしない。それほどまでの存在感と圧倒感が、場の空気を重くしていた。
ぼくはその空気感に、初めて参加した。これまでもいなかったわけじゃない。ただ、体育着を着ていたことがこんなに〝仲間じゃない〟感じになるとは思ってもみなかったのだ。だからなのか、いまはものすごく誇らしい気持ちで、胸がいっぱいだった。
「やー、やめとけよ。ぜってーすぐキツイってなるから」
今日の稽古が始まる直前、久川先輩がそう言って茶化してきた。ぼくは「そういうものなんですかね?」と言った。うんうん、そうなんだよね、まあ気楽にいきなよ、と久川先輩はへにゃっと笑っていた。
そんな久川先輩も、黒崎先輩も、佐伯先輩も、窪田先輩も──もちろん三木先輩も齋藤先輩も、飛田先輩も北島先輩も、みんなみんな、ふざけっこなしの真顔だった。
「黙想ーーーッ!」
沈黙。静寂。反響。無音。
高等部の大将がパッと一声掛けると、空気が変わる。何もない時間。三秒。五秒。それとも十秒? 心臓の高鳴りと水面がさざめくような緊張だけが、ぶるっと鳥肌を立ててぼくを取り囲んだ。
とたんに夏野先生の手が鳴る。やめッ、という合図──
「正面に、礼!」
神棚に、頭を下げ、
「先生に、礼!」
先生に、頭を下げ、
「宜しくお願いしますッ!」
夏野先生が、顔をあげる。
「ハイ。今日は──ようやく、期待の新人の防具が届いて、着装ができたから、全員、稽古に参加してもらう。初日だから、無理はしないように、いいな」
「はいっ」
「はいッ!」
負けたくなくて、声が出る。
自分でもびっくりするぐらいに。
「良い返事だ。星野」
「ありがとうございます!」
初めて、ちゃんとこっちを見てもらえた気がした。それがなんだか、飛び上がるぐらいの緊張感と、良かったと思うような感動と一緒くたになって、心臓が跳ね上がってしまったのだった。




