第23話.まぐれ、たまたま、それでも。
他はどうか知らないけれども、剣道の公式戦は準々決勝になったあたりから少しずつ空気が変わる。特に地区予選は、玉石混交と言った様相からようやく選りすぐりの試合が見られる、という感じなのだ。
タマキタのような西部地区予選の常勝校はともかく、その頃合いになると、今年のダークホースもいよいよ頭角を表す。時間帯も午後になり、授業や部活を早抜けしたとおぼしいOB・OGもやって来て、応援にも一段と強い厚みが生まれるのだ。
男子団体の日、六面使っていたコートも準々決勝になると四面になる。準決勝、決勝はともに二面。決勝では三位決定戦も同時に行うから、最低二面は使わざるをえない。
正式な仕切り直しは準決勝からだった。しかし、準々決勝は、だからといって緊張に欠くと言う言葉からはほど遠いものを感じる。
第三試合場、埼玉北園中学・対・北丘中。
前年春の公式戦では優勝旗を争った二校がはやくも準々決勝を争うこの状況、当事者でなくとも注目を集める理由がわかるだろう。
五人の選手が前に出る。
我が校、タマキタの五人は、設楽、窪田先輩、中嶋、遠藤先輩、そして久川先輩。
対する北丘中の五人は、朝倉、田尻、高木、島崎、そして進藤。
一年前に比べれば剣道知識も身についてきた。だから人の名前を覚える余裕もある。
特に、公式戦の時にマークしていた北丘の進藤(三年生)は、その時は副将だったが、いまは大将に出世している。
相対する二校、それを凝視する応援組と、その他もろもろ。
「礼」
主審のひと声が、重々しい空気にさざなみを立てた。
選手が頭を下げ、コートを後退して飛び出したとたん、ぼくたちは相手の応援団に負けないよう、大きく「ファイト!」と叫んだ。
団体戦。それは、選手だけの試合ではない。応援する側も、応援を通じて試合に参加するのだ。
両者応援組の拍手喝采雨あられ。降りそそぐなかを、颯爽と入場するのは朝倉と設楽、この両名である。頭を下げ、竹刀を腰に帯び、三歩歩いてソンキョの姿勢。そして。
「はじめ!」
発声。全身から気があふれ出て、互いの顔面にしぶきでも浴びせるような声の戦いが始まった。
声だけではない。
絶え間なく交差する剣尖と、止まらない足さばきが、互いの間合いに火花を散らす。抜き差しならぬ接近戦。先手を打つのはどちらなのだろう──
すかさず設楽が面へ飛びかかった。さながら獲物に襲いかかる、児童文学のオオカミだった。鋭い面が先端だけを捉えたが、打ちが軽くて審判は無反応。すかさず第二撃、三撃と踏み込みを連打するが、設楽はうかつにも、朝倉のどんと構えた竹刀にのどを抑えられた。
剣道の試合で、中心線を取るということは、それ自体が防御になる。教科書で図解したようなきれいな状況として、それは見せつけられた。
このまま離れればピンチだ。だから設楽は鍔迫り合いに持ち込もうとするが、朝倉は容赦なく反撃した。
深々と刺さった面が、否応なく審判団三人の白旗を上げさせた。
設楽が、くやしそうにしている。
だがこれは彼の実力不足だった。結局彼は取り返す術を持たないまま、せめて取られないということに徹して先鋒の試合を終えた。
続いて入場したのは、窪田先輩だった。
前年個人戦では圧倒的な成果を残した窪田先輩だったが、それ以降の戦績は芳しくない。本人曰く「良い時と悪い時の差が激しい」というその剣道は、少なくとも公式の舞台では決してその腕を奮ってこなかった。
ところが今日は、調子が良かったみたいだった。
嘘みたいな開幕一番、一本面を取り、立て続けに小手を取った。田尻なる人物はその本来の実力もクセも発揮することなく勝負を終えてしまったのだ。
「頼んだよ」
中嶋に渡したパスは重い。
肝心の当人は、緊張でガチガチだった。
肩に力が入り、怒り肩がなおその体格を大きく見せてしまっている。対する高木は笑ってしまいそうなほどの小柄で、まるで大人には向かう小学生のような、歪な対戦だった。
開始早々、大声でかます中嶋。しかしぼくはなんとなくこれまでの付き合いから、これは空いばりだと察していた。相手もバカではない。声だけ出してちっとも足が動いてないのを、見逃しはしなかった。
飛び出した高木──しかし、その竹刀はどう足掻いても面には届かない。あわてて小手に逃げようとするが、中嶋の巨体はそれを許さない。すかさず間合いを詰めて鍔迫り合いになるが、この身長差ではせり合うべきものがせり合わない。
すぐに離れる。離れきらないうちに、飛び出した面──中嶋の、鉄槌を下ろすような破壊的な一撃が高木の面を打ち抜いた。
「面あり」
ぼくはさんざん中嶋に面を打たれたからわかるのだが、彼の面をまともに受けると、しなった竹刀が後頭部まで食い込むような打撃を喰らう。それで脳しんとう、とまではいかなくとも、少し判断力や神経がまいってしまうのだ。
高木もそれだったのだろう。二本目に入ったとたんに小手に攻めたが、そのまま体当たりの姿勢に入ったところで中嶋に跳ね返された。まるで壁にぶつかったゴム毬みたいに、ぽんと跳ねた。竹刀ごとコートの床にたおれ、一回の反則となる。
試合は仕切り直された。しかし中嶋はその圧倒的な巨体をにじり寄せ、ついに高木は怯えることしかできなくなっていた。中嶋は調子に乗っていた。怒鳴るように叫ぶと、それだけで高木は退いた。こんなに見事な気迫負けは、剣道の試合上、珍しかった。
そのまま三分が経って、試合終了。ここまで少なくとも、夏野先生の布陣はうまく行っていたと言っていい。
続いて遠藤先輩は一本負け。三分間ギリギリのせめぎ合いと、際どい攻勢とを順繰りに交代し合いながら、最後の二秒のほんのちょっとしたところで抜き胴を喰らった。
だが、久川先輩は挫けなかった。最後の大将戦で進藤と向き合う瞬間、彼は遠藤先輩の胴にぽんと小手を置いた。「どんまい」。そう聞こえた。
大丈夫だ。久川先輩は、いつもの久川先輩だったのだ。
かまえ。ソンキョ。「はじめ!」
立ち上がる。奇声にも似た甲高い発声。対する進藤は、済ましたような低い発声。高低チグハグな声が混じり合い、剣尖に稲妻でもはしったかのようなビリビリした緊張を伝染させている。
竹刀が掛け合わさる点が、線となり、両者の間をぴんと張る。裁縫針から飛び出した糸のように一直線に張った、その線が、久川先輩と進藤の手元に集中し、小刻みに震えるような動きの中に、互いの中心線の奪い合いがあった。わずか数ミリのずれが命取りとなる駆け引き──その果てに、久川先輩が先に攻めた。
ように見えた。
実際に面を打ちに出たのは進藤だった。そしてその面は久川先輩の面を見事に打ち抜いた。白旗三本、一本あり。
「取り返せ! 負けんじゃねえ!」
三木先輩が身を乗り出して叫んだ。
二本目。今度は久川先輩の逆襲だった。
あっという間もなかった。二匹目のドジョウ、ということわざがあっただろう。まさに同じようなせめぎ合い、同じような駆け引きの中から、進藤は突き動かされるように面へと駆り出された。しかし今度は久川先輩の方が見切っていた。飛び出した竹刀は空を切った。代わりに胴がすり抜けたのだ。
ワッ、とタマキタの応援組からも歓声が上がった。
「いいよいいよ」
「勝負!」
しかし、進藤との対決はそこで時間切れだった。引き分けである。
次鋒、中堅が勝ってくれたから、団体としては勝ちになる。だが、この調子で最後の二戦を勝ち抜けるのか。
準々決勝が終わり、会場がしんとなった。ここからは学校関係なく、あらゆる観客が注目する中で試合が行われる。
初めて見た時は、どうってことのないように思えた。しかしいま、ここに至って、とんでもないプレッシャーであった。
ぼくは、もし自分がこの舞台に立ったらどうなるかを少し考えた。
結局その機会はなかったし、今後も最後の最後までその機会はなかったのだけど、この全身がすくみ上がるようなプレッシャーを身に浴びて、それでも勝負の場に立つことを、想像してゾッとした。
何を食べたらそんなことができるんだろう。
何をし続けたらそんな場所で活躍できるんだろう。
ぼくは、あの白いビニールテープで囲われた四角形の中に入る人と、そうでない人の違いを考えていた。もちろんそんなこと大したことじゃないかもしれない。しかしここは勝負の世界だった。勝負があるということは、勝ちと負けがあって、少なくとも勝てると見込まれた人間だけが、その四角形の中に入って脚光を浴びることができる。
ぼくは、少なくとも四角形に入るまでは誰でもなかった。勝ちも負けもない世界に生きてきた。それはひとつの安心でもあったし、ある意味では正しい。生活の舞台は、勝ちも負けもない。そういうふうに、学校でも教わって来た。
でも、そうなのだろうか。
勝つということに意味があるのは、それが勝負の世界だからである。ところがそれは勝負の世界だけのことのようでいて、ありとあらゆるものが勝ちと負けの二分法で考えられていることを知って驚いた。お金持ちの親の元で生まれてくること、才能を持っていること、家族に愛されていること、同級生に一目置かれていること、受験でトップの成績を取ること、今年十四歳になるぼく自身の歴史を辿ってみたところで、勝負でなかったことなどなにひとつなかった。
ぼくはそれを、見ないふりをしてきたのだ。見ないようにして、誰かと手をつないで仲良くして、どうか悪目立ちしないでくれと願うようにただ過ごして来た。小学生の時はそれで失敗し、いじめられた。その過去は二度と振り返りたくなかった。
ぼくはそこからどれだけ進歩したのだろう?
ぜんぜん、まったくだった。
いまだに女の子が苦手で、運動がからっきしの、星野正志というつまらない中学生が、ぽつんとひとり、場違いな運動部で叫んでいるにすぎない。
変わらなきゃ。何かを変えなきゃ。
ぼくはひしひしと、そういう気持ちを初めて自分の内側から湧き上がるのを感じた。
準決勝は、タマキタは辛くも勝った。
だがそれ以上に注目されたのは、隣のコートの雁行中だった。
佐藤だ。
期待の新人ホープ、彼がこの公式戦、二年生にして大将だった。悠々とした自信で前に出て、圧巻のパフォーマンスとでも思えるような秒殺二本勝ち。北島先輩を思わせるような圧勝、しかしその背丈も体格も別物だ。
「あいつ、強えな」
「ああ」
北島先輩と飛田先輩がぼやいた。
そしてついに決勝戦だった。
「集合」
直前の休憩時間、夏野先生の号令があった。選手・応援組関係なく、先生の号令があれば素早く集まるのがタマキタである。
「選手の編成を元に戻す」
またしても土壇場の決定だった。
夏野先生はさっきまで試合から外されていたふたりに目を向けた。
「三木、湯浅」
「はい」
「お前たちに足りないものはなんだ?」
「……」
とっさに答えが出なかった。しかし三木先輩が胸を張って、答えた。
「根性です」
「違う。『やるぞ!』て気持ちだ」
ぼくにはまだその二つの違いがわからなかった。
「窪田と中嶋の試合を見たな?」
「はい」
「どう感じた?」
「それは……」
「ただ、勝った、負けたの試合か?」
「……」
「窪田はな、言っちゃなんだが、そんなに強くないぞ」
……え?
「中嶋も、もっとやりようがあったはずだ。準々なんて二本勝ちできたはずだ。そうだろ?」
「はい」
しょんぼりするように、中嶋は返事した。
「でも、ふたりは今日のいまの試合は、結果を出したんだよ。結果を出すことが先なのか、頑張ると決めたから結果を出したのか、そんなことはおれはわからない。でも、片手の指で数えるほどしかない試合で、今持てるすべてを出し切ろうとした。それでいいんだ。窪田も中嶋も、今持ってるものは全部出てた。その結果勝ったんだ。運良くな」
「……」
「その点、お前たちふたりはどうなんだ。最初からスタメンだって思い込んで、決勝まであと何戦もあるから最初は力を抜こうとか、決勝までは温存しようとか、そんなつまんない計算をしなかったか?」
「……ッ」
「いいか。試合にはすべて出るんだぞ。そして勝ち負けってのは、その試合に出たすべてのもので決まるんだ。手抜きで勝つほど甘くない。全力出しても負ける時は負けるんだからな」
ふたりは心の底を見透かされて、気まずそうに沈黙を守っていた。
惨めな静かさだった。何も守れず、そして素っ裸の心をむき出しにされた寒々しさすらこにはあった。
「次は全力を出すんだ。燃え尽きても良い。やれ」
「はい!」
こうして始まった決勝戦は、あまりにも悲惨なスタートを切った。
まず設楽と三木先輩が二本負けした。設楽だって決して弱くもなければ脆くもないのに一分三十秒を目安に二本目を取られてストレート負けになったのだ。
続いて三木先輩は、以前とは打って変わったキビキビとした発声でせめぎ合いを展開して序盤に小手を取るなど、善戦をした。
ところが続いて二本目の宣言が主審よりなされたとたん、相手の面が入ってしまった。ギリギリのところで面金に当たったかのような際どい打ちで、副審ふたりの旗によって仕方なく上がった一本だった。
その後も小手や面で追い上げようと必死だったものの、残り十秒かと言うところで雁行中次鋒の担ぎ面がパコーンと音を立てた。もはやこれ以上言い逃れはできないぐらいの惨敗だった。
夏野先生はうなずいていた。
「さあ、勝負だぞ、勝負」
湯浅の肩にかかった重石は、あまりの負荷だったはずなのだ。
かまえ。ソンキョ。そして──
「はじめ!」
その時、湯浅は珍しく必死で、どうもうな声を上げた。あまりの緊張で声が裏返ってしまったような、そんな悲鳴のような声。
雁行中の中堅は、山形という名前だった。湯浅と同等の体格で準決勝で見た限りはかなり安定した剣道をする。決して乱れることのない、不動の剣道を。
湯浅はそこに、がむしゃらに殴りかかるような剣道をした。彼らしくないと言えば彼らしくなかった。いつもムッツリとして、お茶目なところはあったかもしれないが、何を考えているのか分かりかねた湯浅。しかし試合場に立つ彼は、勝負強くはないのかもしれないが、絶対負けるものかと吼える闘志にあふれていた。
軽く打ち込んで鍔迫り合い、唾が顔に掛かるレベルの発声とせめぎ合いが続き、ついに山形が気負けした。たった一歩。それだけなのだ。それだけ退いたとたんに、
湯浅の竹刀が前進した。
「面あり」
この一本勝ちが、試合の流れを変えた。
続いての遠藤先輩が得意の抜き胴、払い胴で副将を秒殺する。まるで湯浅の闘志のバトンをきちんと握りしめたかのように、試合は新しい流れを作った。まるで死にかけた人間が復活する、宗教的な奇跡を目の当たりにする興奮がそこにあった。
燃え尽きたように試合場を出た遠藤先輩を、久川先輩がなだめるように迎えた。差し出された小手に、小手が応えた。
剣道部のあいさつ。「まかせろ」という無言の合図だ。
そして、ついに久川先輩と、雁行中大将:佐藤との戦いが始まる。
かまえ。ソンキョ。「はじめ!」
とたんに、相面。互いの竹刀がクロスして、同時に相手の面を捉えていた。
副審ふたりが同時に赤と白、両方の旗をあげていた。主審は手元でこれを交差し、無効であることを示す。
もし久川先輩が佐藤の大胆さに応えなかったら、負けていたかもしれない。
戦いは即座に鍔迫り合いにもつれ込むかと思ったが、すかさず佐藤は引き面を打った。決して油断ならない先制攻撃──これは、タマキタが後半戦で追い上げたその勢いを削ぐための計算し尽くされた心理戦だった。
久川先輩は慌てない。団体戦のセオリーで考えた時、久川先輩は一本でも取れば勝ちなのである。ここで湯浅が意地を見せて取った一本が効いてくる。
ところが、佐藤は焦っているように見えて、ひたすらに巧妙だった。先制攻撃を取り続け、まるで隙があるように見せて、誘い込んでいる。久川先輩もそれを見越していたから決して深追いはしないが、それが祟って本来取るべき一本がまるで取れない。
これはふたりの一騎打ちなんかではなかった。ふたりの「大将」の戦いだったのだ。先鋒から着々と積み重ねられた本数に、最後の勝ちを捧げるために奮闘するふたりの「大将」がなし得る、心理的な戦いである。
これではラチがあかない。
さいわい、三木先輩が一本取っているから引き分けによる負けはない。だが団体の総取得本数を並べて代表戦に行っても、いまここで戦っているメンバー以上の実力者はいないはずなのだ。
そうなれば、結論はただ一つ、どちらかが勝つまで続く。それだけなのだ。
久川先輩も痺れを切らしている。だが佐藤の方が悠々と先手を打つものだから、まったく隙がない。隙がないところに打ち込むのは悪手だ。返し技を喰らう可能性が高い。
そうこうしているうちに二分が過ぎた。度重なる連戦でスタミナが試される決勝戦、そのクライマックス。集中力も途切れるか否かの、その間際──
「集中ッ!」
夏野先生の声が、喝を入れた。
まるでそれが、この後に続く全てのスイッチであったみたいだった。
久川先輩の背筋がほんの一瞬だけスッと伸びたような気がした。佐藤が珍しく先手を取り損ねた一瞬だった。とっさに片手をあげて竹刀で面を守ろうとした。ところがそれこそが罠だった。久川先輩が神経ギリギリまでせめぎ合った末に、張ったたった一本のブービートラップ。
瞬く間に、久川先輩の身体が沈んだ。竹刀が斜めに飛び込み、空間を切り取るように袈裟懸けに振り下ろされた。
右から左へ。それは、ぼくらがふつう『胴』と呼ぶ、あるべき有効打突部位とは真逆の場所を、竹刀は切り裂いたのだ。
だが、その技こそは中学生の剣道でも正式に技と認められた、変則的な一手だった。
名付けて『逆胴』。
文字通り、正位置とは真逆の胴を打って有効とさせる技だった。
「胴、胴ッ!!」
旗が三本、上がった。
ワッ、と爆発するような拍手喝采──
「二本目!」
だが、佐藤は容赦なかった。
精神的なスイッチでもあるのか、焦りとは無縁のような正確な、容赦のない技で小刻みに久川先輩を襲いかかる。小手面からの鍔迫り合い、引き面からの体勢立て直し。フェイントの小手から竹刀を外して、思い切った面を狙う。
さっきの逆胴で取ったはずの余裕も、この猛攻の前には一息つく間もない。そのうち体当たりを立て続けに二回受けて、場外に身体を吹っ飛ばされた。
「やめ」
満身創痍にも等しい身体を起こし、久川先輩はまたコートに入った。
「はじめ!」
ふたたび、相面。しかしこの瞬間、久川先輩がほんの少しだけ出遅れたみたいだった。
「面あり」
佐藤の一撃が、久川先輩を捉えている。
「やべえな」
飛田先輩がぼやいた。
北島先輩もうなずいた。
「おれなら、ここで取らせないのにな」
だが、久川先輩は北島先輩ではないのだ。
「ファイトです!」
ぼくは空気を読まず、思わず叫んだ。あとで先輩方にこっぴどく叱られたが、そう言ったことは、別に後悔してない。
その声が久川先輩に届いたかどうかは知らない。だが、最後の瞬間は間近に迫っていたのである。
時すでに試合終了五秒前だった。
そんなこと、タイムキーパー以外誰も知らない。しかし、試合場にいるふたりには、まるでこの一瞬以外何もないとわかっていたかのような、そんな決死の気配が漂っていた。
ふたりがソンキョする。応援組は愚か、三位決定戦を終えた隣のコートも、全ての人間が固唾を飲んで、決勝戦を見守っていた。
主審が重々しく、口を開いた。
「勝負!」
そこからの五秒を語り尽くすには、あまりにも言葉が必要だった。
まず佐藤が前に出た。久川先輩の竹刀が中心線を捉えてこれを妨害する。しかし佐藤は闘志を剥き出しに小手面を繰り出した。久川先輩は「まあおちつけよ、時間はたっぷりあるんだぜ?」と言い返すかのように、安定した構えでこれを押し返した。
ところが久川先輩は容赦なく攻め込んだ。きれいな面が決まったかに見えた。しかし副審のひとりが渋った。佐藤はその動きを目の端でちらっと確認し、すかさず追い討ちを掛けた。久川先輩は油断しなかった。続けて相小手面で迎え撃った。どっちも最高の有効打突に見えた。拍手が鳴った。「オオ」という歓声が上がった。まるで応援組の声が決定打になるかのような、そんな拍手喝采のせめぎ合いがあった。だが審判はこれを無効とした。まだ終わらなかった。
もはやなりふり構っている暇はなかった。互いに声にならない闘志が剥き出しになっていた。どんなに分厚い道着を着込んでも、どんなに太々しい防具がその身を守っていても竹刀は相手を狙っていた。心は、たましいは裸のままだった。
その気迫は、見るものの息を止めた。わずか五秒が引き延ばされて、窒息するんじゃないかというほどの緊張が体育館を支配していた。ぼくたちは試合場の外から声を上げていた。でも、これはぼくたちの試合だった。
相小手面でぶつかり合ったふたりは、鍔迫り合いを避けた。片方が頷くと、もう一方も応えた。無言のやり取り。しかしぼくには「これが最後だぞ」と互いに納得して、最後の勝負に臨むかのようだった。
汗。呼吸。声。緊張。体育館を満たす全てが、たったふたりの選手の動向に集中していた。それは人の形をした立体だったが、徐々に平面になり、狭くなり、竹刀が結び合う線となった。そしてそれが徐々に切り結んだ剣尖が触れ合う、点になった。
収斂した。
まるで箱の容積を超える何かを、力づくで目一杯、詰めるだけ詰めて、ガムテープでがんじがらめにして、パンパンにふくれあがった緊張があった。あとは開けるだけだった。でも開けたらどうなるか、わかっているだけに尻込みしたくなるような、そんな箱でもあった。
それでも、箱は、開けなければいけない。結果を恐れてはならない。
竹刀が交差した。
タイムキーパーが時間を告げた。
旗が三本上がった。
「面あり」
そのひと声で、喝采を挙げたのは、ぼくたちだった。
これがぼくたちの栄光の歴史だ。
そして来年、ぼくたちはその歴史を失うことになる。惨めで、それでも戦うぼくらの物語はこれから始まったのだった。
第一部:完




