第20話.辞めようと思うんだ。
剣道部を辞めたいと思ったことは、実を言うと数えるのが馬鹿馬鹿しいほどあった。
練習がきつい時。中嶋相手に怒鳴られる時。朝起きるのが辛い時。日曜日も稽古しなきゃいけなくてユウウツな時。
だが、それは「辞めたい」というよりは「やりたくない」だった。
例えるなら、毎日ハンバーグを食べてちょっと胃もたれした時のような、舌が慣れきってもう飽き飽きした時のような、そういう嫌悪感に近いもの。
委員会やクラス行事を言い訳に数日休めば、どことなく物足りなくなってすぐに戻ってしまう程度の、たいしたことのない気分の問題にすぎない。
ところが今になって感じたそれは、まごうことなき「辞めたい」で、それはどんなに日頃の稽古がちゃんとしてても、勉強にしがみついても、日曜の残りをテレビゲームに使い込んでも、決して晴れない気持ちだった。
原因は分かってる。設楽だ。
でも、それだけじゃない。
勝てない。とにかく勝てない。
かつては掛かり稽古や追い込みが一番怖かった。いや、いまでも怖い。ただそれ以上に試合練習が怖かった。
錬成会で味わい続けた敗北と、公式戦前になって繰り返される試合練習の間に揺られながら、ぼくがいままで積み上げてきたはずの自身は形無しだった。もともと「勝つ」ということに執着してこなかったツケが今になって支払われた感じだった。
戦うこと。それ自体が、怖い。
でも、勝つことに興味のないヤツなんて、そんなにいない。
思い出してみてほしい。公園でかけっこをしたり、鬼ごっこをしたり。かくれんぼしたり、テレビゲームで対戦プレーをしたり。そんな時、ぼくたちは勝って嬉しく、負けて悔しい思いをしてきたはずなのだ。
もちろんそうじゃない人もいる。
だが、少なくとも勝負ごとに手に汗にぎり、身を乗り出して興奮に身を震わせてきた男の子たちは、みな、「勝ち負け」にこだわり、そして勝つことの重要性をその身と心に染み込ませてきた。そこに例外はない。
ただ、その勝負の舞台に乗るか、乗らないかという、それだけなのだった。
ぼくはいま、またユウウツな気分を引きずって、剣道着を着ている。
日曜日。公式戦まであと一ヶ月となったこの時分、ぼくはなんでこんなことをやっているのかと自問自答しながら、練習の準備を始めていた。
設楽をはじめ、後輩たちは後輩たちのドラマを繰り広げている。なにせひとりだけ抜群の経験者、それ以外は全員初心者という格差社会である。一年生に与えられる掃除・洗濯・雑用といったものも、設楽だけがスルーするといった無軌道ぶりで、同級生同士でも大なり小なり溝が発生していた。
ぼくは、はやくもその傾向を察知しながら、設楽には強く言えなかった。そういうことを言えるのは、中嶋や湯浅ぐらいだったが彼らはそんなに後輩に強く当たる性格ではなかった。大木に至ってはぼくよりもひどく、設楽と会話をした場面すら記憶に思い浮かばなかった。
ただ、こんな生意気な後輩とはいえ、可愛い一面もある。
久川先輩に、すっかり懐いているのだ。
設楽はただ生意気で他人を蹴散らす悪いヤツなのではない。ただ、実力もないくせに偉そうにする人間が気に食わないのだろう。実際、彼は先輩を必要以上に悪く言わない。試合で勝てない相手には一定の敬意を払う。
そこに彼自身の基準で尊敬できるモノがあれば、たちまちにしてやんちゃな弟のような清々しい笑顔と、頼もしいコミュニケーションをする。
久川春樹という人物は、その設楽の尊敬のまなざしを一点集中するに値するらしかったのだ。
少なくとも、一緒に帰りたがるし、同じブランドのショルダーバッグを買いたがった。その様子は、なんだか文字通りの「兄に懐く弟」みたいで、微笑ましかった。
けれども、彼のその態度は、ぼくや大木のような人間に対してはただ冷淡で、せいぜい「邪魔はしないでくれよ」と言わんばかりの振る舞いようだった。
「あいつ、きらいっす」
今年入った一年生の、練習開始まえの雑用の手伝いをしてやりながら、ぼくはそんな後輩の言葉を聞いた。
「自分が実力者だから偉そーにしやがって」
「まあ、実際に強いですからね」
「そうっすよ。先輩が強くなってあんなやつぶちのめしてやればいいんすよ」
「ははは」
無茶言いやがる。
「頼みますよ。初心者にとって参考になるの、星野先輩だけなんですから」
「う。おれはそんなに強くないからなあ。もっと強い先輩を参考にしてほしいな」
「たとえば?」
「黒崎先輩とか?」
と、そこに三木先輩が割り込んだ。
「……そこはおれの名前出せよ!」
「わ、すみません!」
「おれだってレギュラー張ってんだぞゴルァ」
そのまま跳び膝蹴りを喰らった。
そんなこんなで始まる今日の稽古は、いよいよやってくる試合を意識して、ひたすら技練習と地稽古に徹していた。
「試合のように練習し、練習のように試合をしろ」
夏野先生の注意は徹底していた。ぼくはもうさすがに自分に白羽の矢が立つことはないだろうな、とどこかで冷めた気持ちになっていた。
しかし、手頃な相手で時間を潰すようなことはしなかった。高等部の先輩にも練習をお願いし、それでもボコボコにやられて、対面で「もうちょいせめぎ合え」と叱られた。勝てると思って打った面はだいたい先読みされて小手を打たれた。なんでこんなにできないんだろう。やってて教わって、それでもできない自分の惨めさを泣きたくなった。
それで、ふと思った。そんなことはない。ぼくだけが頑張っているわけではない、ということを。
地稽古のあるフェーズで、どうしても相手がいなくてぽつんと立つしかなかった時、ぼくはふと、面を被って道場の三分の一を占めていた先生との練習相手を見た。
設楽だった。素早い面打ちをかますも、夏野先生に往なされて尻を叩かれていた。
「足を使え足を!」
怒鳴られていた。あいつでも怒られるんだとふと思った。いや、あいつほど強いとより大きな期待が掛けられているんだ、と僻んだ気持ちも湧いて出た。
しごかれて、イライラして、竹刀で床を叩いて、キレそうな声で発声して、それでも掛かり稽古に挑む設楽は、日頃の態度はさておき、立派だと思った。口も悪いし、人を見下した態度もどうかと思ったが、それでも、勝負するということそれ自体において、彼はしっかりしていた。
ようやく彼と先生の稽古が終わり、次に北島先輩との地稽古が始まる。熟練の差はあれど、やってることはそんなに変わらない。負けてなるかと必死になって食ってかかる。技を出す。打たれる。その繰り返し。
同じなのだ。要するに、誰だって「自分だけが」一番辛い練習をしている。それは人によっては大したことじゃないかもしれない。しかし当人にとっては世界中で一番深くてタチの悪い泥沼を泳ぐような心地なのだ。
ぼくはまた先輩に練習をお願いする。「星野はせめぎ合いがない」。「もっと相手の中心を取りに行け」。たくさんの、思ったこと感じたことを見て聞かされる。構える。打つ。打たれる。その繰り返し。
太鼓が鳴った。先生が地稽古の終わりを伝えたのだ。
さあ、大詰めだ。
掛かり稽古は、足が棒になるまでくりかえされた。ぼくはもともと走るのが苦手だ。掛かり稽古なんてもっと苦手で、回数を繰り返せば繰り返すほど技の精度が落ちて、声も小さくなって、足もとろくなる。でも、それはみんな同じだった。みんな同じ苦しい中で、それでもなおと踏ん張る力が、どこまでできるかの問題だった。
ふと、中嶋を見る。ぼくをあんなに怒鳴っていた中嶋も、大柄なぶん、足を使うことに難儀している。
大木を見る。彼は技の打ちが強くないから繰り返すたびにハエも潰せないような打ちになる。
湯浅は、声が枯れていた。足がすり足ではなくて走っていた。
とにかくみんな疲れていた。「練習が早く終わらないかな」とどこかで思っていた。次の太鼓が最後であることをどこかで願ってすらいた。それでも太鼓が鳴ったら声を出して、竹刀を振って、できる限り最高の面を、小手を、胴を打った。
ときどき、外した。それで同級生に怒鳴られていた。なんてことはなかった。ふつうなのだ。ふつうにミスをするし、ふつうに体力がなくなってひいひい言ってるし、ふつうに勝つとか負けるとかそんなことを悩みながら戦っていたのだった。
それでも。このなかで、勝ちと負けが決まるのだった。
ついに最後の太鼓が鳴り終わり、稽古納めをすると、ぼくたちは防具を脱いで道場に寝っ転がっていた。
手首が痛い。ふくらはぎが痛い。筋肉痛がひどくて、足の裏もひび割れているから、歩くのもしんどい。
それでも、この終わったという感じには、ふしぎと達成感すらあった。
後輩たちが道着を洗濯する傍ら、夏野先生の帰宅を見計らって先輩達がゲームを始めた。ほんとうはゲーム機の持ち込みは禁止されているのだが、そんなことはお構いなし。学校にいればだれもがやる小さな校則違反は、ゲーム機と漫画の持ち込みだろう。
サッカーゲームに夢中になる先輩方のなかで、ひとりだけ浮いている人がいた。黒崎先輩だった。彼もまたゲーム機を持っていたのだが、やってるゲームが違う。思わずふと見る。ぼくはあっ、と声を漏らした。
「あ、アニフォレ」
「ほのぼの村、しってんの?」
動物たちとほのぼのライフをするそのゲームは、なぜか黒崎先輩の泣きぼくろと、シンクロするようだった。
「ん、星野もやってんの?」
「やってますやってます」
「んじゃ今度持ってきてよ」
「いいんすか?」
「うん」
翌週、ぼくも携帯ゲーム機を持ち込んで、黒崎先輩とやり込んだ。
その日は練習試合だった。中等部のレギュラーメンツと高等部のメンバーがぶつかる大試合だった。その場には設楽の垂れネームが堂々と翻っていた。そして大将は黒崎先輩だった。
ここのところ結果の浮き沈みが激しい黒崎先輩だったが、実力は健在だ。飛田先輩の審判のもと、高等部二年の先輩と順調にせめぎ合い、一瞬のうちに飛び交った面を応じて胴で返した。そして次に面で打ち勝った。
そのあとに、ほのぼのライフの通信プレーというわけだった。
「星野ってさ、意外と負けず嫌いだよな」
黒崎先輩がふと口を開く。
「えっ、そうですか」
「そうだよ。もっと気楽にやりゃいいのに、ていつも思ってんだけど。なんで試合とかなんとかいつも、肩肘張って、実力出ねーんだろ、て思って」
「いやあ、あはは」
「あーあと、辞めそうだったよね」
「えっ、バレてました?」
「バレバレ。まあ、設楽みたいな後輩いたら自信無くすよなー」
実際設楽が入りたての頃は、黒崎先輩も一本負けをしていた。彼の実力は、いきなり大将と言われても納得のいくものだった。
「ま、負けんなよ。試合は道場だけじゃねーから」
「……ありがとうございます」
最後のひとことがやけに意味深だったが、ぼくはあまり引っかからずに有難い気持ちで満たされていた。
なんと言うか、実力だけが人間を測る基準ではないと教えてもらったみたいで、嬉しかったのだ。
ところが──事件はその翌日、試合まであと二週間ぐらいが迫った時に起こった。
月曜日だった。その日も六限まで授業を受けて、クラスの掃除当番で少し回りくどい掃き掃除を終わったあと、やや駆け足で道場に向かった。べつに楽しくてやってるわけではないが、遅刻すると体を温める時間がなくなるのが嫌なので、走っていた。
しかしその日はいつもと違う空気感が、部室を占めていた。というか、圧倒的に重かった。窪田先輩が師範室の方をチラチラと見やり、佐伯先輩がうなだれるようにしており、久川先輩も緊張した面持ちで、三木先輩も不機嫌そうにしていた。遠藤先輩ですら、無表情に見えて少しなりゆきを気にするそぶりを見せていた。
道着に着替えても、稽古が始まる気配もない。だが、うかつに訊けそうになかった。後輩たちも何も言わなかった。
やがて、師範室のドアが開いた。出てきたのは黒崎先輩だった。彼はまだ制服を着ていた。これから稽古じゃないですか、何やってんすか、そう言いたかった。だが黒崎先輩はスッキリしたような表情だった。
ぼくがポカンと口を開けているのを見て、先輩は言った。
「おれ、辞めるから」
繰り返すが、それは春の公式戦二週間前のことだった。




