第19話.まだ、暖かくもアツくもなれない。
全然勝てない。当たり前と言えば当たり前だし、一年間何やってんだ、と言われればぐうの音も出てこない。
あれから何度も錬成会におまけでついてって、試合練習も繰り返した。ほぼ瞬殺された。足を踏み出そうとしたところを、そらみたことかと打ち込まれ、瞬く間に二本負け。中嶋や大木がなんとか一本取ってきたかなと思ってもむなしく、ぼくの番が来ればたちまちにして足がすくんだ。
日々の稽古では中嶋相手にしている手前、試合中に気圧されるようなへまはしてない。
ただ、自分がその勝つ瞬間に飛び込めない──それだけなのだ。
「星野は、もーすこし、やればできると思うんだけどなあ」
ある錬成会の午後。二本負けしたぼくを見て佐伯先輩が言った。
もうこの頃になると、佐伯先輩とは戦友に近い存在になっていた。別に対等になったとか偉そうなことを言うつもりはない。佐伯先輩もぼくと同様、負け越していたが、せいぜい勝率が四割から三割の範囲内と言ったところだった。ぼくなんか足元には及ばない。
「勝つつもりで行ってるんですけどね……」
「おれもそんなにえらそーなこと言えないんだけど、星野は稽古中の方がもっとやれてると思う。試合になると、へんにガチゴチしてて、もったいないんだよな」
「そうなんですかね」
「いや、だって見てみろよ。大きな声じゃ言えないけど、ここにいる半分ぐらいは星野よりも基礎がグダグダだよ。ひでえくらい。でも、なんでそいつらが星野に勝っちゃうんだ、て思ったりしない?」
「…………」
「まあ、ひとのことは自分のことよりもよくわかるからね。頑張ろうよ」
ゆるく気を遣った言葉が、やけにしょっぱくて耳から心の傷に染みた。
窪田先輩は、少なくとも三月の間は、一軍と二軍の間を行ったり来たりした。一軍の成績が安定しないメンバーと、ときどき入れ替わって戦うのだ。
ただ、割合多かったのは、湯浅との交代だった。湯浅が二軍に降りてくると、中等部一年生が勢揃いする。そうなると、今度は同級生の中でも競争心が隠しきれず、特に中嶋と湯浅のライバル意識が白熱した。
湯浅が勝つと中嶋が勝ち、
中嶋が負けると湯浅が勝つ。
「あれ、中嶋センセ、負け越しですか?」
「うるせえ」
ところが湯浅が負けて中嶋が勝つと、
「湯浅パイセン、これで負け数越したら一杯奢ってくだせえよ」
「はん。言ってろ」
大木はどこまでもマイペースで、それでいて負けず嫌いに戦っていた。小柄で小回りのきく動きをしているのだが、面を打つ時に左腕をしゃくりあげるクセがあって、それを見抜いたやつには大抵負けている。ぼくがぼーっと見てるだけでもそれがわかるから、湯浅もいつのまにか口出しをしている。
「おまえさ、」
「なに」
「なんで打つ時だけしゃくってんだよ。それやめろって」
「いや、そんなつもりはないんだけど」
「いややってる」
「やってねえって」
「鏡見ろ鏡」
いや、だれがどう見ても左腕がしゃくってるんだよね。
大木はそれ以上何も言い返さなかった。しかしクセはクセ、なかなか直らない。
いっぽう、一軍から降りてくるメンバーはさまざまだった。三木先輩のときもあったし、遠藤先輩のときもあった。窪田先輩が戻ってくるときは少なかった。おそらく、夏野先生自身だれをどこに配置するのが正解なのかを模索していたのだと思う。
しかし一番驚いたのは、大将格にあった黒崎先輩が二軍に降りてきたときだった。
「おっす」
黒崎先輩の声は不自然に感じるほど明るかった。佐伯先輩はけげんな顔をした。そのとき二年生は佐伯先輩とふたりきりで、湯浅もでに一軍に返り咲いていた。
「おお。黒ちゃん、なんで」
「晋二に言われてきたんだ。『おまえ気合いが足りねえよ、二軍でやり直してきてこい』ってさ」
「いやそれにしても」
「副将からだって。二軍大将、指示よろしく」
戸惑いながら団体戦が展開する。大木が一本勝ち、中嶋が引き分け、ぼくが二本負けと言った流れの中で、黒崎先輩が「どんまい」とリラックスした調子でフォローする。
そして、何事もなかったかのように、二本勝ちの瞬殺で戻ってくる。
「あー、こっちだとやりやすくていいわあ」
佐伯先輩は黒崎先輩を意味ありげに見つめていたが、何も言わなかった。
べつに特にトーナメントも景品もないこの錬成会、団体で勝つことそのものに大きな価値はないものの、それでも、この試合には団体として勝利した。
黒崎先輩は二軍で二試合ほどやって、圧倒的な実力を示してからまた一軍に戻って行った。代わってきたのは窪田先輩だった。
「ぜんぜんかてないや。あはは」
あっけらかんと言う。あまりに拍子抜けするので、二軍のみんなで笑った。
そうこうしているうちに、錬成会の三月が終わり、新学期が来た。
四月になると、いよいよ公式戦の予兆があって、日々の稽古にも緊張が走った。
ただ、いっぽうで新入生がやってくる。あの頃ぼくは全然気が付かなかったが、ぼくや中嶋が練習見学に来た時、先輩達はこうした空気の中で暮らしていたのだ。
いま、ぼくたちは。
どうせ公式戦に出るのは二年生だろう、あわよくば湯浅だろう。そんな気持ちをどこかに抱えて、新入生を迎えていた。
今年の新人は、早々に実力者が入ってきた。小一から経験している設楽圭介という人物が頭ひとつ抜けていた。逆に言えば、彼ひとりが経験者で、あとに六人ほど入部したが、全員初心者だったのだ。
早速始まった稽古でも、体育着を着た六人が道場のあちこちの隅を陣取って素振りをする中、ひとりだけ設楽が実力者の枠で技練をした。当初はぼくや大木、中嶋のいるグループともやってみたが、シンプルに実力差が目立った。設楽の剣道は速い。スパッと蹴り出し、綺麗に面が入る。しょうじき、やっててぼくも頭が回らないぐらいだった。
人柄も、設楽に関してはしょうじき苦手だった。
それ以外の初心者については、まだ自分が同じ立場だったのもあって、教えるという立場がある。だが、設楽に教えるようなものはほとんどない。特に技術的なものは。
そして、まだ特に実感していなかったのだが、設楽はプライドの高い人間でもあった。
実力で劣った先輩をまるで認知しないかのような、そういう生意気さと、勝つことへの拘りと──そして付け加えると、プライドの根拠がただ実力にすがっているような危うさすら感じる、そんなやつだった。
もともとぼくは、自分がそんなに気の利くいいやつだと思ったことはなかった。ただまじめに言われたことをやり、できることをするということにこだわって、本気を出すつもりでいながら、周りからはそんなに本気であるようには見えないような、煮え切らないやつのように見られていた。
それは、後輩から見てもそうだったのかもしれない。
稽古をするたびに中嶋から「遅い!」と怒鳴られた、あの恐怖心はいまだに抜けきらない。秋口を過ぎたあたりから中嶋に嫌味を言われることは少なくなったが、今度は設楽という強敵が生まれた。唯一幸いしたのは、ふだんの稽古で一緒のグループではなかったということだけだった。
しかし、それがついに嫌な形で爆発する。
公式戦前の日曜日。ひとしきりの稽古を終えたところで夏野先生が試合練習と言った。
「今日は紅白戦だ。一軍、二軍、関係なく、ふたつのチームに分かれて戦ってもらう」
編成は次の通りになった。
紅組:窪田、遠藤、中嶋、湯浅、黒崎
白組:佐伯、三木、星野、設楽、久川
まさかの組み合わせだった。実力を考えた時、当たる相手は当然とも言えたが、この枠に自分が入っていることに引け目を感じる。
審判は、今年高校一年生になった北島先輩と飛田先輩、そして大木だった。
別に大木の目に羨むようなまなざしはなかった。ただうなだれるように先生の指示に従ったまでだった。
その試合は紅組が二連勝した。佐伯先輩はともかく、三木先輩も惨敗した。「悪い」と気さくに返していた。ぼくはそう言われる前から、戦局が悪くなっていくのを予感して胃が痛くなっていた。
中堅というポジションは、わりと実力が試される。先鋒が試合の流れを作り、大将が締めくくりを担当するいっぽうで、一見地味な中堅は、試合の悪い流れを変える要石の役割を果たすからだ。
この時、ぼくは試合の悪い流れを変えなくてはならなかった。
でも、そんなこと、できるのだろうか?
脚が図らずも震えた。呼吸も落ち着かず、心臓がバクバクした。竹刀を握ってるはずの手に握力を感じられず、ふわふわしていた。
せめて。せめて足だけでも動かさないと。
ぼくら剣道部は同じ苦しみを背負ってきた仲間のつもりだった。だから試合で勝ったら互いに喜び、負けたら慰め合う。しかしそれはひとつの目標を共有して、そこに向かって戦っているからだ。仲間という意識があるからだった。
ところが、ぼくはまだ甘かったのだ。当時のぼくは自分の実力を冷静に俯瞰できるほど落ち着いてはいなかった。設楽圭介という人間をどこか、親しみのある人間だと思い込んでいたのである。
もちろん、この考えが悪いわけではないと思う。しかし肝心の設楽の方で、ぼくに対して信頼関係ができていなかった。それだけなのだ。
「設楽、おれたちがんばろうぜ」
三木先輩の負けを確信した時、ぼくはそう言った。もちろんこれは空元気だった。中嶋相手で、勝てないとは限らないが、相当頑張らないと勝てるとは言えない。そんな相手を前にして、緊張をほぐしたかった。
設楽の返事は、しかし棘に満ちあふれていた。静かに、怒りを込めて、こう返した。
「がんばろうなんて生ぬるいこと言ってる場合じゃねーよ!」
この時ぼくは、初めて設楽に「格下」と見られていたことを知った。
思わぬ後輩からの罵声に、すっかりメンタルはやられていた。ぼく自身、中嶋相手に負けたくなかったと言えば嘘になる。しかしやることなすことが裏目に出て、結局二本負けで終わった。試合の時間は一分と経っていない。中嶋も、本気を出し切らないまま、まるでぼくが自滅したかのような負け方で、夏野先生も何も言わなかった。
だが、ぼくが試合終了の挨拶を終えた時、設楽とすれ違うその瞬間。
露骨な舌打ちが聞こえた。
ぼくは、初めて剣道部が嫌になった。負けてなるもんか、とか、くそくらえとか、そんな闘志は驚くほどなかった。ただ、辞めたいと心の底から思ったのだった。




