第17話.春は来ても青春はやってこない。
剣道部にとってクリスマスシーズンは錬成会と試合練習の連打だ。でもぼくはレギュラーとは違ってそこには出かけない。飛田先輩や佐伯先輩みたいなレギュラー落ちした先輩方と、先生のいない道場の稽古を行う。
ハッキリ言って、夏野先生がいない稽古は楽しくてやり甲斐があった。
プレッシャーがあるからだろうか。いつもだと、面だとか切り返しとかがそうとうにキツくて、振るので精いっぱい、すり足も乱れてバタバタ走ってしまうようなことも多々あった。
しかし先生がいないならいないで、留守を預かる先輩が稽古の指揮を取るわけである。そうなれば百本やる切り返しが五十本で済んだり、掛かり稽古の追い込みも、「正確に」やっていれば別に五、六本で終わらせてもらえる。楽だ。気持ちも体も、清々しい剣道になる。
もちろん、それが自分のためになるかと訊かれるとわからない。ただ、先生がいないならいないでのびのびとした空気になり、互いの良いところ悪いところを指摘したり改善策を模索したりと建設的な雰囲気になる。それはとてもありがたかった。
稽古も楽に終わると、今度は生徒たちでサッカーが始まる。どこに隠していたのか、サッカーボールを取り出した高等部の先輩が、神棚や胴垂れを仕舞うロッカーに向かってシュートを決める。ときどきお供物が飛び散るばちあたりな事故が発生するけれども、これはこれで先生のいない牧歌的な時間を体現していた。
ただ、いつ先生が帰ってきても良いように、「見張り役」はいた。
その見張り役には、上下関係なく、サッカーをやりたい共犯者によってなされていたのであるが。
「来たぞ!」
高等部の「見張り役」が声を上げる。おそらく体育教官室手前の駐車場に入ってきたのを見つけたのだろう。その一声であわてて先輩方がサッカーボールを片付け、散らかしたであろうものを元に戻し、漫画をロッカーに隠した。そしていかにもいまさっき稽古を終えたばかり、というふうを装って、ゆっくりと道着を脱ぎ始めたのである。
ところが車から降りた錬成会メンバーの顔は暗かった。まるで途中で関係者のお葬式にでも出席してきたかのようなどんよりとした空気をまとっており、暖房がろくに効いてない道場と負けず劣らずの冷たさだったのだ。
「おう、お前ら帰っていいぞ」
あとからやってきた夏野先生が、補欠組に対してこう言った。その言葉はあっさりとしていたが、つまりこういうことである。
レギュラーの反省会をするから、主戦力以外はさっさと帰れ、と。
この場合、一年生も例外ではない。
お言葉に甘えて帰るぼくらと、入れ替わるように中学生のレギュラー陣が目を背けた。
必ずしも全員ではない。ぼくは興味半分でチラッと覗いてしまったので、わかってしまった。
別に経験者ではないので大してわかることなど多くないのだけれど、なんとなくわかっていることがある。それは、負けた時の態度やムードと、そこに巻き込まれた人間の態度は必ずしも一致しないということだ。
特に団体戦、ここか決め手、というところで負けた時の〝戦犯〟の顔は酷い。
実力で勝てない、圧倒的な力の差だったらまだいい。それは例えるなら、ぼくが北島先輩に挑むのと同じだ。どんなに大声を出しても、どんなに適切に打ち込んでも、相面で負ける。ただの一振り、ただのひとつの踏み込みで、圧倒的な経験、実力、判断力、すべてにおいて負けている。
ぼくは地稽古で先輩に挑む時、それなりに頑張っているつもりだ。しかしもともとが勝負強い性格ではないからか、「イケる」と思ったところで出てもすぐに抜かれる。ここでいう抜かれるというのは、面を打って空いた胴や小手にすり抜けて打たれる、ということだ。ただ、それは単純に事前のせめぎ合いが下手くそだというだけだ。ぼく自身、自分がまず勝てるのか負けるのかの判断基準ができていない。だから、駆け引きとしては話になっていないのだ。
ところが、タマキタのレギュラーにもなるような実力者では、負け方の意味が違う。
言ってしまえば、中学生の剣道なんて天井が知れているのだ。
北島先輩のような神がかったセンスと経験があったとしても、県大会では優勝できない。それは実力差ではない。ここぞというところの踏ん張り、際どいせめぎ合い、たまたまやってきた打ち込みのチャンス、そこに飛び込むと判断する目とやると決めたら徹底的にやるという勇気──ひとつの勝利にはこれだけの複雑で読み取れない糸が絡まり合っている。ぼくらはこれを最も容易く「実力」という言葉で丸めて放り投げてしまうが、違うのだ。
裁縫の針に、素手で糸を通すような繊細な一瞬。そこに勝利の二文字がある。
これはたとえどんなに実力があったとしても難しい。逆に言えば、一定以上の実力なるものを持つと、この「針の穴」をどうやって見つけるか、見つけたとしてどうやってそこに全力を注ぎ込むのか、そしてそれを最後までやり切る根性が残ってるのか──そうした絶妙な加減の問題がだいじになってくる。
だから、メンタルが意味を持つのだ。
テクニックではない。経験でもないし、判断力でもない。それらすべてを底で支える、「自信」のようなもの。ただ、ふつうに「自信」というと「うぬぼれ」のようにも聞こえてしまう。それよりも、もっと薄くて、透明で、両足の裏にしっかりと根を張っているもの、それが「自信」なのである。
ひとつの勝ちは「自信」をつくる。自分がやっていること、やってきたことを証明してくれるインパクトのあるできごとだ。しかしこの「自信」は脆い。どんなに勝ちの数を重ねても、たった一回の負けに崩される。一回でもそれが揺らぐと、積み木の城でも壊したみたいに、そらみろと言わんばかりの壊れ方をする。積み上げてきたことを「なかったこと」にしたくなる。
いまの黒崎先輩は、そんな顔をしていたのだった。
ぼくはそのあとの彼らの稽古を知らない。しかしこの日から、だんだん冬休みの稽古が一段と重苦しい雰囲気に包まれるようになっていくのを感じた。
その空気をどうこうしようもないまま、年末年始が過ぎ、冬休みが終わった。
三学期が始まり、またしても勉強と稽古の板挟みを繰り返す。単純に稽古がキツいのもあって、ときどき仮病を使って休むことすらしてしまったものの、それでもぼくはしがみつくように部活を続けていた。
せめて「お前辞めちまえ」みたいな暴言を言われなかったのが、救いだった。
「星野はやれるよ。もうちょい自信を持て」
地稽古のたびに、窪田先輩はやさしくそう言ってくれる。ぼくの面はまだほかの人と比べても大振りで遅い。中嶋よりは早いし、大木よりは強く打てるが、それでも、微妙だ。
同学年のあいだでは湯浅が一番バランスが取れていた。しかしこれは湯浅が学年で最強だったことを意味しない。シンプルな体格差では中嶋の方が有利で、湯浅がどんなに面を攻めても角度の都合で面が入らない。
逆に大木は小柄で、いつも胴か小手で決めようとする。これは体格差を考えた時にしょうがないかもしれないとはいえ、じゃんけんで言えば最初からグーの選択肢がないのも同然だった。勝ち筋が見えやすい。ぼくは同学年の剣道では経験や技術では勝てなかったが、それでもボロボロの金魚掬いで一匹くらい釣り上げる程度には、まぐれ勝ちをするようになっていた。
ただ、その一本もすぐに取り返されるのであんまり自信にはならないんだけども。
二月の氷を張ったような冷たい道場を経験しても、すぎるのはあっという間だった。
そして、三月。
五回目の定期考査間近になり、日々の稽古も一段と激しくなっていく。もちろん四月の公式戦に向けてあれやこれやの騒ぎなのだけれども、それ以前に、春休みがある。そこには錬成会も練習試合もやまほど予定が詰まっていた。聞くところによると、もう一年生は例外なく出場するとのことだった。
「もうお前らも二年生になるしな。後輩できるんだぞ」
久川先輩がにやにや笑っている。この人が追い詰められることなんてあるんだろうか。
湯浅がこれに応えて笑う。
「まあでも、ようやく洗濯しなくて済むかな」
「そうとも限らねーけどな」
飛田先輩が、久川先輩をチラッと見て言った。
そう言えばいまの二年生の代は全然洗濯も掃除もしてなかったんだっけ。
「せいぜい舐められないようにしておけよ。特に星野と大木」
「あ、宇宙人フェイスがなんか言ってる」
「三木ィ! てめえ!」
ちなみに飛田先輩は顔貌が、今年最大級に期待されている某映画のエイリアンにそっくりなので、盛んに後輩にいじられているのである。
ぼくはそんな飛田先輩と三木先輩の微笑ましいやりとりを見ながら、改めて三月の怒涛のスケジュールに想いを馳せた。
他校との初試合。すごくドキドキする。
だが、まずは勉強をし、日々の稽古を納めなければ。




