第十六話 パチモノ聖女と大図書館
幻想国――ヴァサヴァルト連合王国は変わった国だ。連合王国と名がつくのは複数部族の国が集まってできているかららしい。数か月に一度、各部族の代表者が集まって重要事項の話し合いをする会議があるんだとか。(連合王国内では氏族と呼ぶ方が正しいとのことだった。どう違うんだろう)
賢者さまは部族代表ではないので、頼まれればオブザーバーとして参加するが、基本的には欠席。
風土も変わっていて、春地方・夏地方・秋地方・冬地方という四種類に分かれ、それぞれの土地を好む幻獣たちが住まわっているという。賢者さまの住まいは冬地方にあり、年中雪が止まず、温泉が湧き出す。年中雪というくらいなので、作物はほとんど育たないのだけど、岩山の中には鉱山もあり、希少な金属や宝石が掘り出せたりもするらしい。
幻獣とはなんぞ、という話になると、これが実にファンタジーなことに、ケンタウロスやユニコーン、妖精といった生き物らしいのだ。特に春地方と夏地方に多く生息する。冬地方にいるのは雪や氷が得意な生き物ばかりなのであまり種類も多くない。思わず興味津々になったわたしへ、賢者さまは「さもありなん」という笑みを浮かべてくれた。
「残念ながら冬地方にいる幻獣は多くはないがの。フェンリルとか、氷のブレスを吐くドラゴンとかとかじゃな」
「もしかして、温泉にいた雪だるまもそうですか?」
「……雪だるまとはなんのことじゃ?」
「小さくて丸っこい、黒いシルクハットをかぶった子がちょこちょこしてて。温泉で溶けちゃったりしてたんですが」
「ジャックフロストの幼体じゃな。あやつらは人間が好きでの、一見人畜無害じゃが素肌に触れると凍り付くから注意した方が良いぞ。腕くらいなら簡単に腐って落ちる」
「えっ……」
「幻獣自体が他国では珍しいゆえ、密猟者の類には頭を悩ませておるが……。それも冬地方には少ない。いらぬ心配はせずに養生するがいい」
大図書館は特定の部族の管理下にあるわけではなく、連合王国全体の資産ということで、職員は各部族から有志が派遣されているらしい。昔は公平に各部族から同じ人数といった制度があったそうだけど、本に興味のない輩はいらん、と賢者さまが突っぱねたらしい。
「特に人魚氏族は本を濡らすからのう。使えん」
賢者さまは嫌なことを思い出すような顔をした。
大図書館へは賢者さま自ら案内してくれた。なにしろ賢者さまの住まいには使用人部屋はあってもゲストルームはないそうで、わたしは図書館の空き部屋を使用しろとのことだったのだ。
移動手段がすごい。なんと、虎に乗って!である!
温泉で遭った白い虎も幻獣の一種らしく、わたしと賢者さまが背に二人乗りしても十分すぎるほど大きい。ただ、馬と違って鞍も手綱もないので、ふさふさの毛並みにしがみつくしかなかった。彼女?は山の斜面も雪もまったく負担じゃないらしく、ひょいひょいと恐ろしいスピードで飛び移りながら移動する。
残念だけど乗り心地は最悪だった。というか、酔う。
上下運動って、どういうことだ。左右でもヤバイのに、馬車に乗るのだってキツイのに、ぐわんぐわんと跳ねる乗り物にしがみついて移動だなんて、しかも夕食後すぐだと言うのに……。逆流させなかっただけがんばったと思う。
到着してからしばらくうずくまって身動きできなかったのは仕方あるまい。
マリエさんは賢者さまのところでお留守番である。わたしを助ける報酬として家事手伝いをすることになっている、とのことなので、わたしが写本を終えるまでは解放されないらしい。本当に申し訳ないと頭を下げたところ、彼女自身も雪や氷による怪我を治療された恩があるとのことで、問題ないのだそうだ。
「……聖女ミスズがこちらに逗留している旨は、信頼できる筋にあてて連絡を行っている。ただ、距離もあり隣国なので知らせが届くのにしばらくかかってしまうかと……」
マリエさんは申し訳なさそうに、そう付け加えた。
大図書館は地球でいうイギリスの大英博物館を想起させた。
パルテノン神殿みたいに柱が並んだ印象的な入口。ただ、正面だけのようで内側は武骨な石の建物になっているようだ。
内部に入ってしまえばただの石造りの建物といった印象だった。虎の背に乗ったまま移動して、やがて本のにおいがする一室へと案内された。
羊皮紙とインク瓶、それに羽ペン。……羽ペンかぁ。すぐペン先が痛むし長く書けないので、ボールペンかせめて万年筆みたいなのがあればなあ、とこっそり思う。
「本として綴じるのはこちらでやるから気にするでない。こちらが原本、こちらが書き写し用の紙じゃな。疲れたら白虎の背に乗れば部屋まで案内してくれる。完成したらまた会おうぞ」
そう言って、賢者さまは白い虎を残して部屋を後にした。帰りはどうするんだろうと思ったけど、なにせ賢者さまなので何か方法はあるんだろう。
部屋につくまでに会った職員さんはひとりだけ。それも時間制らしくてすぐにいなくなってしまった。
「では、さっそくはじめますか……」
机と椅子だけのシンプルな部屋。必要な道具だけを置いて、目移りしそうなものは何もない。ホテルに缶詰という言葉が頭に浮かぶ。
写本のもとになるのは、確かに日本語の本だった。何年前の聖女が残したものかはわからないけど、古そうだということは分かる。紙が劣化して黄ばんでいて、なんともいえない臭いがした。印刷された文字ということは、この世界にやってきた聖女が持っていた蔵書ってことだろう。
タイトルは『メンゲルベルクの丸薬 上巻』とある。
マス目のある原稿用紙でもあるまいし、左右を綺麗に写せるとは思わないのだけど、小学校の書き写し練習とでも思ってやるしかない。
なるべく読みやすい文字を心がけて丁寧に書く。インクが掠れたらすぐにペン先をインク壺に浸し、ペン先が潰れた時には新しい羽根ペンに変えるという作業だ。幸い文章は難しいものではなかった。この本がいつ発行されたものかは知らないけど、昭和以降のものだろうし、明治文学の復刻みたいなこともなさそうだ。
何時間か経過した。
この世界に来てから書き物をほとんどしてなかったので手が疲れたが、元は現役受験生だったのだ、詰め込み勉強だと思えばなんのことはない。森の中を歩くよりは楽かもしれない。ストーリー性のある本だったのも幸いだった。
どうやらこの本は推理小説のような恋愛小説のような――……。主人公の調査員が殺人事件を追っていくうちに戦争に介入しようとする国の陰謀の気づいてしまうというストーリーだった。
問題は、上巻だけだということで、この場に下巻がない。続きが気になるッ……!
殺人事件は謎が謎を呼んで真相がさっぱり分からないし、主人公の相手役っぽい女性もミステリアスで意味深で、もしかしたら犯人サイドの人間なんじゃないかと思わせるし!
机の上に用意されていた羽ペンの予備はすべてペン先が潰れてしまった。そのたびにペン先をナイフで削り、尖らせて使う。そういえば鉛筆も昔はナイフで削って使っていたはずだなと思い出し、この世界には鉛筆ってないのかなと首を傾げた。黒鉛で作るんだったっけ?羽ペンより歴史が古かった気がするのに。
さて、一冊は写し終わった。賢者さまに依頼された内容はこれで良いはずだけど、せめて続きがないかどうか調べてみたい。
そう思い、立ち上がったわたしは、そもそも図書館の書棚の場所が分からないので探しようがない、ということに思い至った。司書さんみたいな人がいれば教えてくれるだろうと思ったんだけど、職員さんはもう帰ってしまっているし、そもそも聖女の持っていた本って、普通に書棚に入っているものなんだろうか?
室内を見回してみると、部屋の隅で白い虎がくーすかくーすか寝ていた。水も食事もなしで部屋にいたのでかなり疲れているのではないだろうか。
「そういえば、今、何時なんでしょう?」
水も食事もなしだったのはわたしも一緒だ。喉も乾いたしお腹も空いている。そもそも温泉で目が覚めた時点が何時だったのかもよく分かっていない。ここ、室内だし。
せめて水が飲みたい、と部屋を出る。
廊下を進んでいるだけのはずなのに、たまにゆらゆらっと足元が揺らぐ。ふらっとバランスを崩しかけて壁に手をついて首を傾げた。
なんだろう?まだ虎酔いしたのが残っているんだろうか?それともこの床、もしかして傾いてる?
一本しかない廊下の途中にいくつかドアがあり、一番奥は小さな書庫に繋がっていた。
大図書館という触れ込みには見合わない大きさだ。畳十畳程度の大きさの部屋に本棚がぎっちり並んでいて、ズラリと本が収められている。閲覧室ではなくて蔵書を保管する保管庫の一つという感じだろう。
並んでいる本はこの世界の言葉なのでどれもこれも読めない。背表紙がないためいちいち取り出して確認しなくてはならないのも手間だ。賢者さまにもらった『あいうえお表』を片手に、解読できる文字がないかと調べていく。
手がかりをもらったとはいえ、長い文章の途中に似た文字がある、という程度ではとても読めない。ミミズがのたくったような文字、という印象通り、そもそも文字に見えないのだ。これまでに何度も挫折してきたことを繰り返しながら、わたしはふうと息を吐いた。
「……こんなに本があっても、読めないんじゃあ……」
いや、いやいやいや。わたしは大きく首を振った。
賢者さまに『あいうえお表』まで与えられて、そこで諦めて良いんだろうか。言うなればわたしは今、自宅学習から予備校へ切り替えた状態だ。きちんと道筋を与えられ、素直に勉強すれば成果が出るはずの環境を得た。それなのに、「やっぱりできない」と放り投げてしまったらダメだろう。
「もう少し、読みやすい……」
そう、文字が少ない、絵が多い本が望ましい。アクアシュタットには子供向けの絵本はないらしいと聞いたけど、専門家向けの図鑑などがある可能性はある。日本にだって植物図鑑なら平安時代に本草和名ってものがあった。
昆虫、宇宙、乗り物、魚。花、人体、恐竜、鳥、鉱物。
小さいころから図鑑は好きだった。図や絵が描かれていれば文字だけよりは分かりやすいはず。……専門用語が理解できるかは期待できないけど。
かなりの時間、本を出してパラパラと確認しては戻す、を繰り返した。
書庫はあまり整理されているとは言い難かった。内容ごとにブロック分けされているわけでもなく、作者順でもタイトル順でも高さ順でもない。ただ入れてあるだけ。
意味があっての配置であれば、こんなことをしてはいけないんだろうけど――……。
「気になりますよねえ?こういうのって」
せめて数字くらいは!順番どおりに!しても罰は当たらないはず!
幸いこちらには『あいうえお表』がある。作者に共通点が見受けられないので、タイトル順にして並べなおしてしまおう。最初の一文字二文字くらいなら、『あいうえお表』で対応可能だ。
収穫は、あった。
棚一面を並べなおした時点で気づいたのだが、どうやらこの書庫は国別に分けてあったらしい。わたしが今見ていた本棚はヴァサヴァルト連合王国に関する書棚。本自体が少ない。少数民族の集まりなせいで個々の民族について調べるひとが少ないからかもしれないが、連合なんだから相互理解のためにもあった方がいいとは思うんだけどね。
ヴァサヴァルトっていう文字がタイトルに入った本が十何冊もあったので分かった。文字の共通点から『ヴァサヴァルト』『国』の単語がかろうじて認識できる。そのつもりで隣の書棚へ目を移せば、これも『国』が入っているわけで、では残りの部分から共通している単語を読み解けば――……。
おおお?もしや、単語帳が作れるのでは?
わくわくしてきたわたしは、先ほどの作業室から書き損じた羊皮紙とインク壺、先の潰れた羽ペンを運んでくると、発見した単語を書き写す作業に入った。
書庫中の本を『あいうえお表』で並べなおし、表紙の文字を比較するだけの単語帳。それだけでも二十単語くらいが判別できた。『国』とか『山』とか『女神』とかだ。
なによりの大発見は数字である。『1』『2』『3』くらいはもともと読めたんだけど、『4』『5』『6』『7』『8』『9』『10』以下略、とアラビア数字に相当する文字が解読できた。一度読めてしまえばこれは楽!やった!この世界の数字は古代のエジプト数字みたいな象形文字で、アラビア数字に慣れてしまった身には落書きのようでちんぷんかんぷんだったのだ。だが整理して改めて調べてみれば、これは数字がちょっと違うだけの10進法である。街中で買い物する時に薄々気づいてはいたんだけど(会話は自動翻訳されるので、書かれている文字と聞こえてくる言葉が違ったのだ)ようやく自信が持てた。計算の仕方もわたしが日本で学んでいたものと大差ないし、もう少し前に気づいていれば騎士隊で書類作りのお手伝いだってできたのに。
ちょっとしょんぼりしながら、数字に関してはこれだけを抜き出して別の羊皮紙にまとめておく。
隣の書棚は聖王国。その隣はフォアン帝国。ネロ王国。アクアシュタット王国……という分け方だ。それぞれの国ごとに文字が違うということはないようで、この世界には共通語というものがあるのだろう。どこの国の書棚にも『女神』と『聖女』と『水魔』の文字は出てくる。読むことができればそれぞれの国がどのように接しているのか分かるような気がするが、今はまだ難しい。
なお、『国』と『連合王国』『王国』は単語自体がよく似ているので、実は違いがないかも……?という気もした。
最後の書棚がまた興味深かった。聖女の棚なのである。聖女自身が残した書籍や、この世界に持ってきた本の類。すべて日本語だ。先ほどの小説の続きがないかと見てみたが、残念ながらそれはなかった。下巻は諦めないといけないようだ。
手書き本の中で一番多いのは『聖女のレシピ』シリーズだった。どうやら料理本のようで、栄えある一番目のレシピはなんと『お米の炊き方』である。炊飯器がないこの世界で米を炊くため、「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」と赤二重線を引き、それぞれ所要時間が(アラビア数字で)メモされている。あまり上手じゃない土鍋のイラストつきだ。一冊目を書いた人物は和食が得意だったのか、最初から最後まですべて和食。悔しそうに『醤油の味が違う』『誰か味噌の作り方教えて』『豆を育ててるところはないの?』と書きなぐられているのが涙ぐましい。
二冊目は別人が書いたようで、こちらは洋食。三冊目は醤油や味噌、豆腐作りに果敢に挑んだらしい人物による豆料理の本だった。フォアン帝国にいた人のようだ。一冊目の時点では魚醤を使っていたものを、たまり醤油を発明したことによって劇的に発展させたようで、本の冒頭に一冊目を書いた聖女への感謝の言葉が記されている。
四、五冊目のあたりは以前のレシピを改良したようなものが多く、六、七冊目にお菓子作りという具合だった。七冊目のレシピを書いた聖女はかなりお菓子作りが得意だったようで、生クリームを作るためと称して泡立て器と遠心分離機、ミキサーの重要性を書き記したうえでそれらを開発した旨を書いていた。すごい。
彼女はついでのように手回し洗濯機を設計してくれていた……回転?するから?なの?この世界が踏み洗いから解放されたのは彼女のおかげのようだ、感謝しかない。
聖女には他にも社会人経験のある人物や、アロマテラピーの趣味を持っていた人物、ハーブに詳しい人物など様々いたようだ。書類の効率の良い作り方やアロマオイルの配合の仕方、ハーブの種類など、『聖女のレシピ』シリーズの内容は多種多様だった。
ラインホルトさんが喜びそう、ということでアロマオイルの作り方は自分用に書き写しておくことにした。
これらすべてが過去にやってきた聖女のもたらしたものだとすれば、聖女たちはずいぶんと世界に影響を与えていることだろう。
「こちらは書き写さなくていいんでしょうか?」
それともすでに行われた後か。
「……聖女って、《女神の泉》を浄化するのが役目だと思っていたんですが、それだけじゃなかったのかもしれませんね」
異世界からの知識をもたらす。そんな役割もありそうだ。ただ、それが良いことばかりとも限らない。この書棚の中にはないようだけど、この世界にはない恐ろしい兵器についての知識だって中には持っていたひともいたはず。銃や核兵器、細菌兵器などを持ち込んで戦争に使ったとしたらどうだろう?
「……あるいは、存在は知っていても詳しくなかったから実現しなかったという可能性もありますよね」
例を挙げれば、わたしは銃の構造も核兵器の作り方も知らない。どんなに便利であってもテレビやスマートフォン、エアコンや掃除機を作ることはできない。
「クライフさんは……。《女神の泉》の浄化以上のことを求めてくることはなかったけれど」
それは、聖女がニホン……。そう、地球の日本という国からやってくる存在だと知らなかっただけかもしれない。
わたしは『聖女もどき』であって、本物の聖女じゃない。浄化の真似事ができる迷子だと思われていた。そのためかもしれない。
「……」
ため息が出そうになった。
聖堂から連れ出され、牢獄で過ごし、聖女の隠れ里を訪れてからさらに数日。
こんなに長い間、クライフさんと顔をあわせなかったことはなかったのだ。
ずっと守られていたせいだろうか。彼が一緒だというだけで心強いのに。
「……護衛していた対象が投獄なんてされたら……」
連帯責任みたいな形で彼に災難が降りかかっていなければ良いのだけど。
『聖女のレシピ』シリーズには、何枚も薄い紙が挟まっていた。聖女の誰かの走り書きだろう、日本語で書かれたメモだ。ひらひらと舞い落ちたそれを慌てて拾い、もとの場所に挟みなおす。短く書かれた文字にふと手が止まった。
誰に向けたものか、それは手紙のようだった。
『
この地へたどり着いた娘へ告げる
大聖堂を知れ
聖の対義語は魔ではない
』
書かれた文字に書き手のの意思は感じられない。丁寧で綺麗な文字だ。
わたしはそれを指でなぞり、それから元のように本棚へと戻した。
※ ※ ※
作業室に戻ったわたしは驚いた。白い虎さんは起きていたが、それだけではなく傍らには賢者さまがいらしたのだ。
相変わらずアルコール臭を漂わせて何か飲んでいる。童女の外見でほろ酔い顔をされると罪悪感がしてならない。
「書き写しのほうは、こちらになります」
仕上がった原稿を見せると、賢者さまは楽しそうに微笑み、それからこう続けた。
「文字は読めるようになったかの?」
「……いえ、まだ」
「ではまだ帰してやれんな。次はこの本かこの本じゃ」
賢者さまは二冊の本をわたしに見せた。
「こちらはラインホルトが留学中に愛読しておった教科書じゃが、やつの眼鏡についての作り方だそうじゃ」
「眼鏡?」
「そうじゃ。あれはな、ヴァサヴァルト連合王国にある一氏族にしか作れんのじゃよ。ガラスやレンズを作る技術を持っておる一族でのう。手先が器用なんじゃが性格の方も癖があっての、頑固一徹というか職人気質というか偏屈でひきこもりというか。あと無類の酒好きじゃ」
楽しそうにくっくっくと目を細め、賢者さまは続ける。
「大図書館の本の読みすぎで目が悪くなったらしくてのう?なんとかならんかと相談を受けて、紹介してやったんじゃが。最初は門前払い。図書館中の本を漁って知識をつけてからもう一度頭を下げに行ったんじゃと」
「……ラインホルトさんが、頭を下げて?」
「まあ、比喩じゃがな。たぶん下げとらん」
勉強して再度トライしたら受けてもらえたっちゅーのはホントじゃぞ、と賢者さまは笑った。
「これはこっちの言語で書かれとる本じゃからな。書き損じることもあろうが……。あとで確認するから丸写しせい」
「はい」
もう一冊は、と賢者さまはくっと笑みを浮かべた。
「幻獣についてじゃ。先ほど興味深そうにしておったからのう?」
本はヴァサヴァルト連合王国に住む幻獣について記したものだった。
ぺらりとページをめくったわたしは驚愕した。
これは!これは実にいい!
何がいいって、まず、イラスト付きなのである。それぞれに幻獣の名前やその習性、住んでいる地域などが書かれている。加えてその幻獣に関する有名なエピソードがコラムのように追加されている読み物のようだった。言ってみれば図鑑みたいなものである。
詳しくは、もちろんかなり時間をかけて書き写してみないと分からないが、内容がパッと見るだけで推測できるなんて、『聖女のレシピ』シリーズ並みの親切さだ。
これを最初に出してきてくれれば良かったのに!!
あ、いや、そもそも賢者さまの目的は写本なわけだから、この幻獣図鑑を書き写すのはあくまでもわたし自身の勉強のため、が大きいのだけど。
二冊の本はどちらを書き写しても良いらしく(もちろん、両方でもいいと言われた)ここはご厚意に甘えて二冊目の幻獣図鑑の方にさせてもらうことにした。
大図書館の中に寝る部屋を用意してくれるという話がどうなったのかは分からないのだが、夕飯のシチューも食べているし、温泉でお風呂にも入っているのでまだ余裕はある。
「あの、お水とかありませんか?何か飲み物が欲しいんですけど……」
「ん?」
賢者さまはわたしの言葉へ不思議そうにすると、部屋の隅を指さした。
「好きに飲むがいい」
「???」
水差し、ではない。ぱっと見ドリンクサーバーみたいなガラス製の箱が置かれている。コップもあるので自由に飲めるというのは本当のようだ。琥珀色なのがちょっと不安だが、……お茶?かな?ハーブティとか。
「お水ですか?」
「酒じゃ」
「いやいやいや、飲めませんので」
「成人しとるんじゃろ?」
「どちらにしろ写本作業中には飲みませんので!ノンアルコールの飲み物はないんですか?紅茶やコーヒーとは言いませんけど、せめてお水とか」
「温泉ならあるぞ」
「…………ええ、と。飲める温泉ですか、それは?」
「雪もあるぞ」
「……お水はないんですか?」
「ヴァサヴァルトの冬地方では、万年雪を溶かして飲用にしておるのじゃ。地下水が半ば凍り付いておるし、厄介なのが住み着いておるのでな」
「そうなんですね……」
なるほど、ともう一度ドリンクサーバーを見やる。……お酒、は止めておいて、温泉水をいただいてみるとしよう。
賢者さまにそう申し出ると、彼女は瓶に温泉水の入ったものとコップを提供してくれた。それにしてもこのガラス瓶もヴァサヴァルト連合王国の特産品なのかな。アクアシュタット王国ではほとんど見たことがない。確かガラス製品は王侯貴族のもので、庶民は木製を使う――……と、クライフさんに以前教わったような気がする。
わたしが作業を再開する気であると判断したようで、賢者さまはそのまま白い虎の背に乗って外へと出て行った。
読めない文字を書き写すという作業は思いのほか難しかった。活字のアルファベットのように形が分かりやすければよいのに、ミミズがのたくったような独特の文字はどこまでが一文字かわかりづらいのだ。似せて写しているつもりだけど、似た字がたくさんあるためきちんと写せているか自信がない。例えるなら『書』という文字が横線一本足りなかったり、『日』という字が『目』になっていたりするような意味の取り違えがあったら困るなあと思う。修正液がないため一文字間違うと一ページ全部書き直しというのも厳しい。
そこで、まず最初に『あいうえお表』を百回ずつ書き写してみることにした。日本ではじめて文字を習う時だって、最初は『し』とか『の』あたりを延々と練習するはずだ。『め』と『ぬ』の違いや『は』と『ほ』の違いを頭に叩き込んだ、ような気がする。
それから写本に戻ったところ、期待以上に上手くいった。先ほど単語帳を作った経験も生きた。一枚書き上げるごとに内容を確認し、大丈夫そうなら次へ進む。最終的には賢者さまに確認していただくしかないけれど、自分としては達成感がある。
難題だったのはイラストである。
……これ、途中で気づいたのだが、図鑑でイラストがないのって、価値がほとんどない気がするのだ。従ってイラストの方も写し書きしようと思ったのだが、……わたし、あまり、イラストは上手じゃないのである。だってだって、生き物を描くのって難しくない?バランスよく描くなんて素人には無理じゃない?
写し絵ができるような厚みじゃないし、似せて描こうにも似ない。特徴が表現されていないイラストなんて意味がない気がしたし。
十何枚も紙を無駄にしたあげく、わたしは結論を出した。
――文字のみ、写そう……。
気になる幻獣はいくつもいたが、中でも目を惹いたのはライチョウだった。
雷鳥。
雨雲とともに現れ、雨の日に飛ぶ巨大な鳥。
舞い降りる時、光と音を伴い、熱によって地上を焼き尽くす。この現象を雷という。
人里には滅多に現れず、荒野で狩りをする。
馬などの動物を食べる肉食の鳥で、獲物がいなければ人間を襲うこともある。
巣は地上に作り、その大きさは人間にとっては小さな屋敷くらいになる。巣の形は小枝で作った鳥のものと似ている。
夏は灰褐色・冬は純白と季節によって羽毛の色が変化するのが特徴である。雷鳥の純白の羽毛は高値で取引されるが、この時期に巣にいることは稀であり、滅多に手に入らない。
オスメス共に縄張り意識が強いため繁殖期以外はペアで過ごすことはない。子はメスが育て、冬を迎える前に巣立つ。
以上、意訳。(日本語訳:新垣水涼)
……あくまでもわたしが行ったのは文字の書き写しなので、内容まではすべて理解できていない。でも、だいたいこんなことが書かれてるなっていうのは理解できた。
なお、この世界の文字は漢字ではないので、『雷鳥』は当て字だが、分かりやすいのでわたしの中ではこのまま使用したい。
「雷鳥って、幻獣だったんですね」
クライフさんは、ライチョウを魔物であるとは言わなかった。説明を聞き、実際に会ったことのあるわたしには特殊な野生動物みたいな印象だった。言葉も喋っていたし。それを幻獣と呼ぶのであれば納得だった。
――そして、やはりイラストが描けない。
実際に見たことがある分、他のよりマシだと思うのに。頭の中で思い描くグラフィックをペンに伝えることができないというか。指が裏切るというか。単純にイラストが下手なのである。
敗北感に打ちのめされたわたしは、悲しい思いで二冊目にも手を付けることにした。せめてこれくらいしないと悔しくてならない。
こちらはこちらで図入りだったので絵とは無縁ではなかったのだけど、レンズについてのあれこれが書かれた論文のようで、直線と曲線が描ければ特徴はなんとかなった。生き物を描くよりははるかにマシだった。羽ペンなのでものすごく書きづらかったけども。
「でも《女神の泉》の浄化以外にできることがあって良かったかもしれません」
もちろん、わたしの第一目標は日本に帰ることで、そのために《女神の泉》を浄化することだ。だけど冬の間はほとんどできることもなく、現時点では国外追放中の身だ。このまま『聖女もどき』を退任となった場合、その浄化も行えなくなるわけで、日本に戻れる見込みはかなり少ない。
騎士隊で書類作りのお手伝いとか、それが無理なら写本作りの職とか、そういうのがあったらよいのに。
用意された瓶がほとんど空になった時点で書き写せたのはわずか10枚分。……正直言って、かなり遅いペースだろう。三分の一も終わっていない。はあ、と自分への不甲斐なさにため息をついてしまった。
すでに一冊分の写本を終えているせいか、しばらく勉強から離れていたせいか、頭がズキズキするし身体が糖分を欲しがっている気がする。
今、何時なんだろう?
これが日本の自分の部屋であれば、気分転換にカーテンを開けて外を見たり、階下の部屋へ行って家族と喋ったり、ストレッチでもして身体をほぐしたり……。
うーん、とせめて伸びをして、天井を見上げた時である。
パラパラパラ……。
おかしな音を聞いた。
「……あれ?」
大図書館の外観は見事なものだった。パルテノン神殿みたいな入口は一度見たら忘れられないだろうし、中は強固な石造りになっていて簡単には崩れない印象だった。
だが、見上げた天井にはビシビシと確かなひび割れが見受けられたのだ。
「……今の、は」
パラパラというのはひび割れが一部剥がれ落ちている音ではないだろうか。
――え?それって、どうなの?大丈夫?
全部が石や岩でできているような建物が万が一崩れ落ちた場合、中にいるわたしもたくさんの蔵書も一瞬で石の下敷きだ。かなり楽天的に考えても命にかかわる。
「……」
椅子から立ち上がり、天井を見上げながらゆっくりと後退をはじめる。
手元にあるのは資料として使っていた『あいうえお表』と『数字表』だけ。あとは懐に入っているアロマオイルの作り方写し。書きかけの写本は机の上に広げたままだ。あまり大荷物を持っていては逃げられない。
――ぐらっ……。
とっさに手をついた。――床に。
足元から何かが沸き上がるような違和感と、ゆらっと頭がふらつく感覚。
地面が揺れている。
――日本を離れて数か月。しばらくぶりだったとはいえ、覚えのある揺れ。
とっさに天井を見上げ、周囲を見やる。身を隠せそうな机は――作業用机しかない。
急いで机の下に隠れてから外をうかがう。
地震だ。さほど震度は大きくないと思うが、ここは日本ではない。耐震診断なんて縁のないような場所で、ヒビの入った岩天井のある室内なんて、生き埋めになる未来しか想像できなかった。
「え、え、えええ……?」
青ざめる。これは真剣にマズイ。
地震が発生した時の基本はどうだった?
一、まず慌てない。
二、出入り口、火元を確認する。
三、頭を守り、揺れがおさまるのを待つ。
……部屋の出入り口は閉まっている。ドアを開けておくべきだったかもしれない。揺れがいったん落ち着いたところで開けに行こう。
揺れはしだいに大きくなった。
――ガタガタガタガタッッ……
――ガラガラガシャァアアアアアン!
――ガシャンガシャンガシャアアアン!
遠くの方から酷い音が聞こえた。おそらく本棚が倒れた音だろう。本が無事なら良いんだけど、どれもこれもかなり古いうえ、羊皮紙で、そのうえ紐で装丁されている。丈夫そうにはとても思えない。
――パラッパラッ……
――ドオオオオオオオオオオンッ!
ひぃいいいいいっっ。
片手で机の脚を握り、もう片方の手で頭を抱え、目をぎゅっとつぶって小さくなった。もうもうと立ち昇る砂塵のような何かのせいで目の前がまったく見えなくなる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。揺れがおさまっても完全に埋もれてしまっていたりするかもしれない。
がたがたという音はしばらく続いた。
揺れの方は、正直なところ日本で体験していたのに比べたらどうってことなかったのだけど、やはり耐震強度だ。これが不安すぎてもう。倒壊する建物の中に生き埋めになる未来しか想像できず、怖くて目を開けることもできずにいた。
数分が経って、どうにも音が聞こえなくなったと思ったところで、そうっと、そうっと目を開く。
目の前は煙でいっぱいだったが、おそらく粉塵の類であり、火災によるものじゃあないだろう。身体に悪そうだけど毒ではないと思う。というのは、わたしの身体が吸収していないからだ。ピリピリした感じがしない。
口元を袖で覆い隠し、机の下からそっと覗く。
机の上には瓦礫の類が山になっているが、机そのものは無事のようだ。
建物の外観は見る影もなかった。天井が四分の一程度崩れ落ちていて、扉はひしゃげている。室内のものはあれこれ散乱していてガラスのドリンクサーバーも割れてしまっているようだった。辺りにむわっとお酒のにおいを撒き散らしている。
身体が揺れを感じないうちに外に出るべきだろう。わたしは頭を守ってくれた机に感謝しつつ、どこへ脱出すればいいのかと悩んだ。
ヴァサヴァルト連合王国が火山帯かどうかは知らない。だが、温泉が湧くということはこの雪山が火山、ないし死火山という可能性は高いだろうし、地震が多くても驚かない。
噴火とか、大丈夫だろうか……?
賢者さまのお住まいにいるはずのマリエさんは無事だろうか?賢者さま自身は?白い虎さんは?
不安を抱きながら机の下から抜け出し、廊下を見やる。
書棚のあった方は酷い惨状だろうし、選択肢は勝手口の方に決まっている。
そう思い、一歩、歩き進もうとした瞬間だった。
――ぐらぐらぐらぐらっっ……。
また揺れたッ!
ある程度以上大きな地震であれば、余震の類は予想の範疇だ。だけど、脱出途中の通路で揺れた場合、防災頭巾のない今のわたしに自分を守るためのものは何もない。とっさに頭を抱えてダンゴムシのポーズで縮こまる。天井が落ちてこないことを祈って息を殺したわたしは、次にきた衝撃に対処できなかった。
――ビシビシビシビシ……
不吉な音は足元から聞こえた。
――ビシビシビシビシ…………
――ビシッ……
次の瞬間に起きたことは、推測でしかない。
地割れというやつだったのだろうか。それとも地下室の天井が落ちたのだろうか。
結果として何が起きたのかはよくわからなかったが、わたしのいた廊下の床にヒビが入り、当然のようにわたしは割れ目に落ちてしまったようだった。
ダンゴムシのように小さくなっていたわたしは、とっさに立ち上がって逃げ出すような真似はできなかったし、足元が急に消えて落下していく気持ち悪さに意識が飛んでしまったらしい。
果ての見えないジェットコースターってこんな気分だろうか。
地面に落ちた衝撃か、落ちてくる瓦礫の衝撃か。いずれかのものが自分に与えられるのを、どうにか耐えなくてはとそればかりを思っていた。




