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第十五話 パチモノ聖女とヴァサヴァルト連合王国の賢者

 聖女の隠れ里を後にしたわたしは衰弱していた。

 馬車で一週間の道のりを王都へ向かって帰還するほどの体力はなく、ロープを使って崖登りについては絶望的、食事ができて雨風を防げるとはいえ、外は雪が降る家の中、静かに凍えていくだけの状態。なによりも蓄積された毒を抜くことができないというのが問題だった。どんなに寝ていても体力は減少していくばかりなのだ。

 隠れ里は聖女を穏やかに死なせるための場所だが、まだ死ぬつもりがないのであればこの場に留まる理由がない。

 シャルロッテ姫の身に起きていることを改めて警告するためにも王都へ帰還する必要がある、というのがマリエ・マイツェンさんの判断である。

「この場所からは、王都よりも西の国境を越えた先の方が近い。そちらへ助けを求めにいく」

「……助け、と、言いましても」

「アクアシュタットの西は、幻獣の伝説が多く残る地だ。ヴァサヴァルト連合王国――幻想国とあだ名され、世界中の書物が収められた大図書館と、そこに住まう賢者殿がいる。敵味方の分からぬ王都へ戻るより治療を受けられる可能性が高い」

「賢者、さま、ですか」

「宮廷薬師のラインホルト殿が留学に訪れた土地の一つだとも聞いている。おそらく、なんらかの治療手段はあるはずだ」

 と、そういうことらしい。

 

 村は崖を滑り降りた先にあったため、地理がよく分からない。たとえ分かったとしても雪景色に彩られた光景を見て現在地を割り出すことのできる者は地元民くらいなものだろう。

 そう、地元民である。

 道を教えてくれたのは”闇梟”であるはずのフクさんだった。

 家を提供したきりどこかへいなくなっていた彼女が顔を見せたのだ。

 曰く、「私の故郷で死ぬのは我慢ならない」「大嫌いな女が故郷の墓に入るなど、御免被る」とのことだった。もしかしてちょっとツンデレなのでは、という期待は口にしないでおくことにする。

「ありがとう、ございます……」

 心から感謝して頭を下げたところ、フクさんは「フンッ」とばかりにそっぽを向いてしまい、そのままどこかへと消えてしまった。

 わたしを背負い、雪の中の道を進むこと一日強。

 マリエ・マイツェンさんは国境を越えた。



 ※ ※ ※


 

 ドドドドドドド……


 滝の音が聞こえる。耳を打つ激しい水音が意識を呼び戻した。

 眼前に広がるのは白に彩られた山並みである。白と黒の濃淡でしかないはずなのに、なんと多様な色合いだろう。木々には葉が残っておらず、今はただ代わりに枝を白く染め上げるものがあるばかり。

 静けさがなんとも心地いい。雪に閉ざされた中に静かに息づく命の鼓動が伝わってくる。 


 ――あれあれ? わたし、何してるんだっけ? ここ、どこだっけ?


 手のひらでちゃぷんとすくいあげたのは濁った色をしたお湯である。身体に毒素が入り込むビリビリした感じはまったくなく、少しとろりとした感じが肌の老廃物を洗い流していく気さえする。そのままむき出しの腕に触れた。滑らかな肌は自分のものとは思えないほどで、まるで赤ちゃんのそれかゆで卵のよう。

 立ち込める湯気は硫黄の香りをさせていて、どこか懐かしくそれでいて慣れないものだった。

 目を閉じると全身から疲れが抜け、癒えていくのが分かる。酷使していた目も、森歩きで荒れた肌も、きちんと手入れを行うことのできなかった髪の毛さえ。

 ただでさえ聖堂内で誘拐されて以来お風呂とは無縁だった。全身が凍える冷たい泉ではなく熱い湯に浸かっているというのはこの世の極楽といっても過言ではない。

 生まれ変わるってこういうことだろうか。

 なんて気持ちいいんだろう。このまますべてを忘れてしまっても良いかもしれない。


 ――あ~~……しあわせぇ~~……。

   やっぱり日本人ならお風呂だよねぇ……。それも温泉だなんてさいこう……。


 時間を忘れていたわたしは、ドドドドドドドという絶え間なく続く滝の音に我に返った。

 滝の音と雪景色って矛盾してないだろうか?雪が降る季節って滝は凍るよね?

 

 ――そもそもわたし、いつの間に山奥の秘湯になんて来たんだろう?


 キョロ、と周囲を見回した。

 わたしは一人で温泉に入っているらしい。全裸というわけではなく、ファニーさんに仕立ててもらった特製の水着を身に着けている。温泉に水着なんて邪道だ、と思わないでもないけれど、『聖女もどき』生活を送るうえで必要なことだったから仕方がない。

 岩で囲まれた露天風呂だ。天然そのものではなく、木で作られた仮屋根もあるし、木桶も石鹸やタオルのようなものも置いてあるとくれば、どうやらここは誰かのためにわざわざ誂えられたお風呂だろうと推測ができる。

 山の斜面を降りる雑なつくりの階段を見つけて確信を強めた。この階段を降りた先に脱衣所代わりに使える場所があるんだろう。お風呂からあふれたお湯はそのまま斜面下へと流れ落ちているようで、滝の音はそのあたりから聞こえてくるんだろうと思われた。

 してみると、旅館にあるお風呂とかではなくどこかの山奥にある天然の露天風呂を個人的に改造した代物ではないだろうか。ニホンザルが一緒に入ってきちゃうようなやつである。

 そう思うと一人で楽しんでいるのが勿体なくなってきて、誰か来ないかな?と期待を込めて辺りを見やった。

 サルとか、キツネとか、リスとか、カピバラとか。……カピバラはさすがにないかな。


 ぬっ


 ん?

 水面――湯面?――に波紋がひとつ。木の枝から雪でも落ちてきたんだろうか。


 ぬぬぅ


 んんんん?

 今度こそ気のせいではなかった。小さな音とともに、温泉の湯気の間に影が見える。人影ではないようで、サルでもキツネでも、ましてやリスではなさそうだ。

 雪に埋もれるような白い毛並み。お湯のせいでぺったりと肌に張り付いて見える、猫に似た顔立ち。白と黒とで描かれた縞模様はこの場に大変ふさわしく、それでいてなんだか違和感を覚えてならない。大きな鼻づらとつぶらな瞳がわたしを見ている。

 くはぁ、と大きなあくびをした後、けだるそうに前脚を岩に乗せた。


 ……虎?だ?


 動物園で見たことがあるホワイトタイガーを二倍くらいに大きくしたような顔である。体つきの方もそれ相応に、二倍くらいの大きさはありそうだ。一気に湯舟が狭くなった。

 温泉が気持ちよいようで、わたしに気付いても特にリアクションをとる様子はない。眩しそうに目を細め、くてっと前脚の上に頭を載せる様子は、あ~幸せ、このまま寝てしまいたい~……という、今のわたしとよく似た心情ではないだろうか。

「虎って、温泉に入ったりするんですねぇ……」

 ぼんやりと視線を向けるわたしの視界を、今度は白くて丸っこいものがちょこちょこと横切っていく。

 岩の上にいるのは白い塊。――雪だるまだった。

 ぴょこぴょこぴょこ。

 ひょこひょいひょい。

 ぽすぽすぽす。

「え、なにこれ。可愛い……」

 雪だるまである。十センチくらいの小さな雪だるまで、頭の上には黒いシルクハットがちょこんと載っている。目は黒い。鼻はニンジン……だと思うけど小さくってよくわからないオレンジ色のちょこんとしたもの。口はないし、手足もない。

 雪玉を二つ重ねただけの雪だるまが、ぴょんぴょこ跳ねながら遊んでいる。

「雪だるまって、……動くっけ?」

 可愛いので問題なし!と思いながら目で追いかける。時折温泉の熱のせいで溶けかけているのも愛らしい。でもちょっと心配。うっかりお湯に落ちたら、消えちゃうんじゃないかな……?

 雪の積もった白い枝には小さな鳥がとまっている。真っ白くてコロコロと丸い鳥だ。

 視線が合ったとたん飛び立ってしまい、とさとさっと雪が落ちるのが見えた。残念。

 雪のせいか、温泉を囲む岩場に色彩を生み出すような植物は他にないようだった。枯れ木のような白い枝を伸ばす足元に、枯れ草のようなものが落ちているのが見えた。

 のんびりした気持ちでお湯をひとすくい。指の間からすり抜けていく。

 状況はよく分からない。マリエさんはどこへ行ったのだろう。

 そもそも現実だろうか?わたしは日本に帰って温泉に入る夢でも見てるんだろうか?

 首をひねるわたしへ、ますます困惑する声がかかった。


『ようやくお目覚めか、客人』


 え、誰。

 思わず目を向けたのは、もちろん白い虎である。

「もしかして、今のはあなた?」

 大真面目に尋ねたわたしへ、彼女?は興味なさそうな顔でただお湯を楽しんでいるばかり。

 改めて周囲をキョロキョロ見回す。虎じゃないなら雪だるまだろうか?でも雪だるまたちは勝手に楽しく遊んでいるだけでわたしの方を見向きもしていない。

 それに今のは頭に直接響いたというよりは、インターフォンや電話越しに聞こえるような声だった。


『そろそろ食事の準備ができている。湯冷めせぬうちに上がってくるがいい』


 声がどこから聞こえてきたかは分からないが、お呼びのようだ。

「お先に失礼しますね。どうぞごゆっくり」

 わたしは温泉を楽しむ白い虎に会釈をして、ゆっくりと岩風呂から上がることにした。

 できることならずっと温泉に浸かっていたいけど、そういう場合ではないということは理解できる。

 ここはどこなのか、今はいつなのか、マリエさんは一緒なのか。分からないことだらけの状態でお風呂を楽しんでいられるほど、わたしは無頓着にはなれなかったのだ。



 ※ ※ ※



 脱衣所を探すのは一苦労だった。お風呂の端に置かれていたタオルで身体を拭き、一気に凍える寒さの中、雑なつくりの階段を降りる。

いくら温泉でホカホカしていてもその後がよろしくない。素足で岩階段を降りては温泉の恩恵も台無しではないだろうか。せめてサンダルを用意するべきだと思う。

 時折ゆらゆらと足元が揺れている気がするのも不安だ。壁に手をついてゆっくり降りていくのだが、何度か転びそうになった。こんなところで転げたらシャレにならない。

 たどり着いた簡素な脱衣所の中にはわたしの着替えが置いてあった。聖女の隠れ里で身に着けていたものだ。替えの水着も入っている。

 着替えて改めて周囲を見回せば、山の斜面に開いた穴と扉があった。トンネルの入り口か、あるいは世界遺産に認定された石窟寺院のような趣き。扉の前にはサンダルが置いてあって、どうしてこの履物をわたしは履いていなかったのだろうと少しばかり悲しい。

「お邪魔します」

 見覚えのない建物のどこへ行けばいいのか分からなかったが、不思議と目的地はすぐに分かった。この建物は岩をくりぬいて作ってあるようでどこにも窓がない。壁に等間隔に明かり置き場が設置してあるのだが、灯りが点っていたのは一か所だけだったのだ。木の扉がはめこんである。

 滝のように流れ落ちる温泉のせいで蒸し暑いと思いきや、そうでもない。寒くも暑くもないちょうど心地よい温度。どういう作りになっているんだろう、この岩穴は。

「ええと……」

 ノックをしようとして、深呼吸。呼ばれたのだから入ってよいと思うだけど、この部屋にいる人はどういった人だろうか。王宮の時のように礼儀作法ができていない人間が面会しても大丈夫だろうか。

 どきどきしながらノックを躊躇っていると、また声がした。


『早くせんか。飯がさめる』

「っ!すみませんッ!」

 

 大慌てでノックして扉を開いた先には、童女がいた。



 艶やかな長い黒髪をした、十歳前後と思われる美しい少女だ。東洋系の顔立ちをしている。

 ゆったりとしたガウンのような衣服は濃い青や鮮やかな黄色の糸で織り上げられていて華やかだった。自信に満ちあふれた目つきと威厳を感じる物腰を見れば、只者ではないと一目で分かる。凄味があるというか。神々しいオーラのようなものを感じる。おそらく身分の高い人なのだろう。

 髪飾りも豪奢だ。金銀や玉を散りばめた珊瑚のような変わった飾り。中華風というか、乙姫様みたい。アクアシュタットよりはフォアン帝国の装束を思わせる。首元を飾るのは真珠の首飾り。その先端には虹色に輝く珠が飾られている。

 大理石を使って作られたテーブルの上には湯気が立つシチューの大鍋が置いてあり、白いパンが山のように置かれている。食欲のそそるにおいを嗅ぎ付けたおなかが勝手にぐうううと鳴った。

 室内にいたのは件の童女とマリエさんの二名だけ。テーブルには空席がふたつ。

 もっともマリエさんの姿をみとめたとたん、わたしの頭の中からは童女のこともシチューのことも一度に吹き飛んだ。


 マリエ・マイツェンさん。牢獄に入れられたわたしの看守を務めていた女性である。

 出会いの経緯はともかく、クライフさんの副隊長であるエルヴィンさんや、シャルロッテ姫の侍女であったサリサさんのご友人という点から言っても、今現在わたしが頼れるのは彼女しかいない。

 なにより彼女はわたしを背負って国境を越えてくれたのだ。雪が降りしきる中一日以上歩き通しだったのは間違いなく、気を失ったわたしを連れていくのは本当に大変だったはずである。

「マリエさん!お身体の様子は大丈夫なんですか!?凍傷とか……そうでなくても、か、風邪とかっ!霜焼けとかっ!肺炎とかっ!」

 慌てて駆け寄り、両手を取ろうとする勢いのわたしに、マリエさんはそっと静止を入れた。

 マリエさんの服装はアクアシュタットでは見慣れないデザインの民族衣装である。暖かそうな布地でできた貫頭衣で、ロングスカートの上に鮮やかな色のエプロンスカートを巻いている。鮮やかな色合いは童女のそれと通じるものがあった。

「まずは、ご挨拶を」

 ハッと青ざめる、わたし。扉の前で悩んだ意味がなくなってしまった。

「そ、そうでした。失礼しました!」

 ピンと背筋を伸ばして、深々と頭を下げる。土下座したっていいくらいだ。

「わたしはミスズ・ニイガキと申します。このたびは雪道で行き倒れるところをお助けいただきましたようで、本当にありがとうございました!

 そのうえ、その、温泉まで入れて、いただいて?」

 これについてはちょっと未確定なので疑問の心が言葉に滲んでしまったが、状況からしてそうだろう。雪山で気を失うという凍死寸前だったわたしは、まさしく湯治中だったわけだ。

「ふっ。礼はそのくらいで良い。言葉ではなく行動で返してもらうつもり故な」

 童女はそう言うと、チラリとマリエさんを見やった。

 先ほど響いてきた声と同じ。温泉で呼んでいたのはやはり彼女なのだろう。どういった仕組みになっているのかは分からないが、説明されても分からないかもしれない。

 マリエさんは幾分小声で童女を紹介してくれた。

「聖女ミスズ、こちらは賢者スノッリ殿と呼ばれている方だ。

 この幻想国のみならず各国で知恵を授けておられる。特に治水に関してお詳しいようでな、賢者殿の助言により山の事故や海の事故が減った土地は数多い」

「け、賢者?さま?ですか……」

 目をぱちくりさせながら改めて見やる。見かけはとてもとても若く見えるけれど、実はそうでもないというやつなのだろうか。それとも四、五歳児のころから神童と呼ばれている系とかだろうか。

「此度の症状についても、ミスズ殿の症状であれば薬よりも湯治がよろしいと断じられてな、意識のない者をと渋ったのだが、こうして意識が戻ったところを見ると、賢者殿の知見というものは凡人には到底及ばぬものだと実感する」

 しみじみとマリエさんは続けた。

「それを、私が家事手伝いをする程度の報酬で引き受けてくださるとは、本当にお心の広いお方だ」

「ふふん」

 ニヤニヤと童女――賢者さまは笑みを浮かべた。 

「屋敷や風呂の掃除と洗濯、炊事と。実に細やかで感心しているところじゃ。本職か?」

「いえ、前職です」

「このまま吾の召使いになる気はないかな」

「申し訳ありませんが、すでに国に仕えている身でございますれば」

「つれないことじゃな」

 賢者さまはニヤニヤと楽しそうに笑った。童女のような見かけのわりに変わったしゃべり方をする方である。

「無論、そこな娘には別の働きをしてもらうぞ?働かざる者食うべからずというからの」

 …………。え?

 パッと視線を向ける。賢者さまの笑みはどこか意味深で、含みがあるように見える。

「何を驚いておる?タダ飯食らいするつもりじゃったか」

「ああ、いえ!とんでもないです!そうではなくて!」

 大慌てで首を振りながら、自分は何に驚いたのだろうと考える。助けてもらったのだからお礼をするのはもちろんだし、できることならなんでもしたい。

 そうではなくて。

 ”働かざる者食うべからず”……地球では聞いたことのある諺だけど、この世界にもあるんだろうか?

「さて、肝心の飯が冷めては惜しい。まずは食事じゃ」

 賢者さまは楽しそうに舌なめずりをした。



 シチューは病み上がりの胃にはちょっと重たかった。でも腹ペコには抗えず、しっかりお皿を空にした。パンの方もふわふわもちもちで、この世界に来てからついぞ食べたことのない美味しさである。

 庶民のパンはとても堅いし、定番は野菜粥なので、ふわふわの美味しいパンなんてめったなことでは口に入らないのだ。

 賢者さまは食後の一杯という雰囲気でグラスを傾けており、その透明なコップに入っている液体は琥珀色をしたお酒のようだった。本当に大丈夫?見かけ通りの年齢だったら止めた方がいいんじゃないだろうか?

 後片付けはマリエさん。手伝おうとしたのだけど断られてしまった。「賢者殿には何かお話されたいことがあるらしいので」とのことだった。

 かしこまって座りなおしたところで、賢者さまは口を開く。

「さて、――『聖女』に要件と言えば、予想はつくじゃろうな?」

「《女神の泉》の浄化でしょうか?」

「ハズレじゃ」

 ふん、と賢者さまは鼻で笑った。聖女に求めるものなんて他に思いつかなかったわたしは驚いて目を見開く。

「では、なにを?」

「《女神の泉》の浄化なぞ、聖女の血を引く娘でもできることじゃ。他国から人を呼び寄せてまでやることではないわ。

 『聖女』の特徴と言ったらただ一つ。ニホン語が読めること、に決まっておろう。

 ヴァサヴァルト連合王国には世界中から本を集め、写本を勧める大図書館がある。そこで、一冊分写本をしてくれれば良い」

「……写本」

「そうじゃ。よもやできぬとは、言わぬであろう?」

「え、ええと。それは、日本語の本を日本語で書き写すってことでよいですか?翻訳ではなくて」

「無論じゃ。それでこその写本じゃからな。

 ニホン語の書物は歴代の『聖女』の直筆本ゆえ、原本はどこの国だって手放そうとはせぬ。じゃが、それでは図書館に蔵書が増えぬ。写本を進めることで蔵書が増えるのじゃ。

 内容をそのまま複製できる道具でもあればよかろうが、そのようなことはヴァサヴァルト連合王国の幻獣たちにだってできぬ。装丁まで真似ることはできぬじゃろうから、内容だけで構わんぞ」

 なおも驚いているわたしへ、賢者さまは呆れた顔で付け足した。

「そもそもじゃ。そなた、保護された国の文字が読めぬそうじゃな?」

「えっ」

 どうして知ってるの!?

 賢者さまは愚か者を見るような目で一枚の羊皮紙を取り出した。

「対応表じゃ。ニホン語で言うならば『あいうえお表』といったところじゃな。褒美替わりにこれをやろう。合間にでも勉強するがいい」

「え、でも、あの、わたし、文字は」

「できるできないは基本が身についてからの話じゃろう。そなたは幼子のころに『あいうえお』も読めぬうちに漢字が読めたのか?ひらがな、カタカナ、漢字と順繰りに覚えていったのではないか?順序を守らぬからろくすっぽ進まぬのじゃ。

 本当にできぬ輩もこの世にはおるが、基本を試してからでも遅くない」

「……」

「そなたの保護者たちも、どうせなら赤子用の絵本のような、目で見て分かりやすいものを用意すればよいものを。まあ、アクアシュタットには元々存在せぬゆえ仕方なしといったところなのじゃろうが、さすがに赤子扱いはどうかと渋った結果がこれじゃ。情けない」

 はーっと大きなため息をついて首を横に振る賢者さま。十歳前後にしか見えない女の子に心底呆れられるというのもかなり悲しい。

「な、なんで、そんなにわたしについてご存じなんですか……?」

「アクアシュタット王国の宮廷薬師は、かつてこの国に留学しに来たことがある。言わば教え子じゃ。やつが持っている片眼鏡はこの国で誂えたものじゃからな。やつが帰国してからも文のやり取りはしておるのじゃ」

「賢者さまは、ラインホルトさんの先生ってことですか……」

「そうじゃ。尊敬する気になったじゃろう」

「はい」

 こくこくこく、とわたしは激しく首を縦に振る。

「そなたは勉強を疎かにして、状況に流されるままじゃ。自分が何をしたいのか、何をするべきなのか、きちんと自分で判断しようとしておらん。他人に言われるがまま、何も考えない。子供じゃ。

 ひとが、ほかの動物や幻獣たちと違うのは文字を持っている点じゃ。築いた文明を子孫に伝え、過去にあった過ちを繰り返すなと忠告を行うことができるところじゃ。それを、そなたは怠っている」

 この世界の文字は難しい。ミミズがのたくったような文字で、法則も読み取れない。だから、分からない。初心者用の本で勉強してみてもさっぱりで、一応の努力はしたから許してもらおうと、わたしはずっと甘えていた。その通りだ。

「ハーブの調合方法を学べば、自分で毒抜きだってできる。生きるための最低限の自衛さえ、そなたはできておらん」

 賢者さまというのは、何もかもお見通しなんだろうか。 

「学べ。口を開くのはそれからじゃ」




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