第十四話 パチモノ聖女と隠れ里(前)
護送用の馬車は、聖女としての浄化の旅に使われるものとは少し違っていた。
こちらの方が丈夫だ。ところどころ金属の金具が使われた木の箱で、扉の鍵は外にあるため内側からは開けられない作りになっている。空気の入れ替え用の窓などはなく、そのためちょっと息苦しい。数時間に一度くらい空気の入れ替えが行われるところを見ると、放っておくと本当に息ができなくなってしまうくらい密封されているのかもしれない。
丈夫な布が張ってあるため隙間風は入らないが、やわらかなクッションなどはないため、やっぱり揺れて腰もお尻も痛い作りだ。
ただ、衝撃吸収のスプリング機能などが入っているのか、振動はダイレクトではなかった。この機能だけはぜひ、浄化の旅用の馬車にも取り入れるべきじゃないだろうか。
どこを走っているのかさっぱり分からないため不安ばかり募る。このまま谷底に落ちられても脱出できない。
見えないけど、外は雪が降っている。
早朝からチラチラと降り始めた雪はそのまま粒を大きくしていった。粉雪というよりはぼた雪。重たそうな雪が地面を白く染めていくのを見れば、その上を馬車で進むなんて行動がいかに無謀か分かるだろう。行きはよいよい帰りは怖い、というか。確実に帰りの便はないんだろうなと思わせる。馬もいい迷惑だ、凍えてしまったらどうするんだろう。
時折、馬車の上に何かが落ちてくる音がする。ストン、だとか、ボトン、だとかいう音だ。おそらくは周囲の木々から落ちた雪の塊だと思われる。
出立してから何回目かの空気入れ替え。外は予想通り雪野原で、チラチラと舞い降りる雪が街道沿いの木々を白く染め上げていた。木の根元には白っぽい生き物が隠れている。おそらくキツネかリスのようなものだろう。ここだけ切り取ればなんとものどかな冬の景色だった。
食事は一日三回分。分、というのは、朝のうちに三食分渡されたためである。水も同様。毎食ごとに扉を開けてくれるつもりはないということだ。お手洗いのため外に出るくらいは認めて欲しいんだけど、期待薄である。空気入れ替えの時だけが例外なのでここぞとばかりに深呼吸させてもらう。
馬車の外のメンバーが休憩のため馬車を停めることがあり、おそらくそれが食事タイムでもあるんだと思う。説明がなかったので勝手にそう理解して、食事はありがたくいただいた。
馬車は雪深い山へと向かっているようだった。
外は見えないが座椅子に座っていてもどことなく傾斜を感じるため、そう思った。
山岳と聞いて最初に思いつくのはつい先日まで滞在していたガイさんの住む地域だが、おそらく異なる。なぜなら馬車に乗りこむ前、牢屋を連れ出されるときにこう言われたからだ。
「聖女ミスズ、あなたはこれより西の国境沿いにある村へ向かっていただく」
※ ※ ※
詳しい説明はなかったが、どうやらわたしへ与えられた処分は国外追放に近いものらしい。アクアシュタット王国の『聖女候補』としては都合が悪いから、いなくなってもらおうというものだ。
牢屋に二日というのが短いのか長いのか、わたしには判断がつかない。
だけど、聖堂内から直接王宮の地下牢へと移動させられていることを考えると、わたしの投獄はひっそりと行われていたはずだ。そのまま不在が世間に知れ渡る前に処遇を決めてしまおうと判断されたのだと思う。
着替えと称して看守から渡されたのはぶ厚い布で出来たコートだった。毛糸で出来た帽子とスカートも厚手の生地であり、外出が目的であることは分かった。スカートの下には長い靴下を穿くらしく、膝上くらいまである。毛糸でできたそれもかなりぶ厚い代物だった。聖女の正装たる浴衣もどきを脱ぐようには言われなかったけど、形が違うせいで重ね着するにはちょっと向かない気がした。
「わたしは、どこへ連れていかれるんでしょう」
「馬車で一週間ほどかかる場所だ」
「そこで、何を?」
「なにも」
「何も?」
「アクアシュタット王国には不要となった『聖女候補』を移住させることを目的とした村がある」
不穏極まりない言葉に思わず眉を寄せてしまった。
「なるほど」
わたしは、アクアシュタットで死期を迎えた聖女はフォアン帝国あたりに行くのだと思っていたのだけど、国内にもそういった危険物取扱所みたいな場所があったわけだ。
納得を示したわたしに看守さんは何か考えている風だったが、ともかくといった感じに背を向けた。
「道中は決して馬車から外に出ないように」
「ええと、それは?」
「途中、魔物の目撃証言がある危険なエリアを通る。万が一の場合、あなたのフォローはできかねる」
ごくりと息を呑んだ。
「五分後に出発する」
「えぇ、五分ですかっ!?」
早すぎでしょう、それは。
わたしは大慌てでコートを着込み、帽子をかぶる。サイズが合っていないためゴワゴワのもこもこのチックチクで、せめてここにクライフさんから渡された白いコートがあったなら、と思わないでもなかった。
くうくうと腹の虫が鳴る。
朝食はもらえるんだろうかとチラリと視線を向けてみたけど、看守さんは背を向けたまま何も言わなかった。
そんな過程で馬車に揺られること、丸三日。護送の旅は思ったよりも負担ではなかった。
大前提として外は雪が降っている。そんな中を護送メンバーは野宿などしない。そのため夜は必ず宿場村に泊まり、わたしには個室が与えられた。食事も用意されるしベッドもあるし、部屋には暖房もあるという好条件だ。水浴びは無理だが湯の張ったタライが用意され、身体を拭くことも許されていた。
魔物の目撃証言とやらも関係があるのかもしれない。村の中ならばひとまず安全ということなんだろう。
さらに、護送メンバーには『聖女と必要以上の口を利いてはいけない』『聖女は御簾の後ろにいるもの』という常識があるらしく、わたしの方を見ようとしない。話しかけてくることもない。質問しても答えてはくれないので、いるけどいないふりをしているような感じだ。非常に気まずいし、居たたまれない気持ちはするけれど、大人しく馬車の中に引きこもっていればお互いにストレスを感じないような、そういった雰囲気だ。
向こうがそれを望んでいるのが分かるので、仕方なくわたしは押し黙ったまま馬車に座っている。
ああ、だけど。どうしても気になるのは、シャルロッテ姫のことだった。
そばに水魔がいて、アリアさんにその身を操られていて、彼女は無事だろうか?誰か彼女の現状に気づいて対策をとってくれた人はいるんだろうか。牢屋の中では何も知らされなかったうえ、そのまま馬車で運ばれているわたしには知りようもない。
はぁ、と何度目か分からないため息をついた夜。
三日目の夜の宿は、これまでの宿と変わりはなかった。
ベッドがひとつ、椅子がひとつ、小さな水差しが置かれたサイドテーブルがひとつあるだけの小部屋。明かりといえばドア近くの壁に設置されたランプだけだ。屋根も壁も石製だけど、厚手のタペストリーを壁にかけているため室内は外程寒くはない。
一階にある食堂には大きな暖炉があるようなのだけど、護送されている身のわたしは部屋から出るのを制限されている。そのため、普通なら部屋に入ってまずコートを脱ぐところを、わたしはギリギリまで脱がずにベッドに座る。暖炉のない部屋では浴衣もどき一枚姿は寒すぎるためだ。苦しいのでブーツだけは脱ごう、と思った時だった。
「ずいぶんと物憂げな様子だな、聖女殿」
その人物は暗がりに突然いた。
黒い覆面をしている異様な風体。女性のものと思われる声。ドアも窓も閉めてあったはずなのに一体どこから入ってきたのか、そんな質問はそれ自体がナンセンスだろう。
ランプの明かりに浮かび上がる姿には見覚えがあった。
「”闇梟”さん……」
フォアン帝国の供養塔で出会った刺客だ。
シュタンと飛び上がる音がして、暗がりの覆面姿は部屋の天井に張り付いた。わざわざ距離をとらなくてもわたしには彼女を害する武器はないし、部屋に飛び込んできて戦ってくれる護衛もいないのだけど。
「くふふ、まったくいいザマ。わざわざ命を狙わずとも、勝手に落ちぶれてくれるとは」
楽しそうな物言いをする。
供養塔で出会った時のわたしは必死に逃げた。とにかく逃げなくてはいけなかった。なぜなら彼女の目的はわたしの命だったからだ。
だが、今は?
わたしはじりじりと部屋の入口まで移動し、ドアに背が当たったところで立ち止まった。手の届く範囲にあったランプの明かりでしっかりと見やる。
覆面女性は武器を構えてはいないようだった。隠している可能性は十分にあるけれど、見せつけて脅す意図はないようだ。
「あの」
わたしが静かに声をかけると、覆面女性は黙って見返した。少しばかり不思議そうな雰囲気を醸し出す。口には出ていないが、「何か?」くらいの返答をしてきたような気がした。
「もしかして、あなたはまたわたしの命を狙ってきたのでしょうか?今更?」
「おや」
覆面女性は不思議そうな声音で告げた。
「今更とはどうして?」
「わたしがどういった理由で馬車で移動しているか、あなたはご存じなのでしょう」
「知るわけがない。そのための秘密裏の移送では?」
「あなたは今、『勝手に落ちぶれてくれるとは』と言った。わたしが落ちぶれていると判断しているわけです。聖女の落ちぶれといったら、その役目をはく奪されることを意味する、と考えるのが自然でしょう」
「おや」
今度の「おや」は感心のようだった。褒められた気はしないけれど、彼女は本気で褒めているような気がする。視線がそう言っている。
「あなたの依頼人が求めるのが聖女、その死であるならば、申し訳ありませんがもうわたしを殺しても一銭にもならないと思います」
「くふふ」
覆面女性の笑みは小馬鹿にするような響きを持っていた。
「聖女殿はご自分の価値を知らないと見える」
価値。
覆面女性の言葉にわたしは思わず黙り込んだ。
『聖女もどき』として泉の浄化を行うわたしには、確かに価値もあっただろう。泉の毒化により困っている人々はたくさんいたのだ。クライフさんたちの期待に添えるよう頑張ることだって意味があったはずだ。
だけど。
わたしは今、『聖女もどき』として頑張ることを、望まれていないのだ。
「私はあなたの目的地を知っている」
「え」
「西の国境沿いにある村だろう。アクアシュタットには供養塔がないから、力のある聖女の身体を保管しておく場所がない。そのため作られた小さな村。
聖女が人知れず死を迎えることができるようにと設計された穏やかな牢獄」
「やはりご存じじゃないですか」
「このまま護送されていくのも悪くはないが、それではつまらない」
ニヤリと覆面の下で彼女は笑った、気がした。
「あなたは私を知っているはず」
「え?」
「私は生まれも育ちもアクアシュタット。聖女の血を引く身でありながら、決して聖女にはなれないのは何故だと思う?」
「……」
ハッと息を呑んだわたしへ、彼女はどこか憐れむような視線をくれた。
おもむろに黒ずくめの服の中から黒い手袋をはめた手を繰り出す。その手に握られているのは紫色に染められた短い刃。その正体は――考えるべくもなかった。
「聖女ミスズ。あなたを私の故郷へ連れていくつもりは、ない」
次の瞬間。
バギャンと破壊音が響いた。
ゴオッと雪の塊が窓を砕いて部屋の中へと押し寄せてきた。
竜巻のような白く蠢くものが壁ごと破壊してきたのだ。
肌を切り裂く熱い痛みが、刃によるものか白い竜巻によるものか、わたしには判断できなかった。
※ ※ ※
家の壁を破壊する白い竜巻。
凍える寒さや竜巻の破壊力以上に、視界が効かず足元さえ分からない恐怖が足をすくませる。
逃げようにもどこへ逃げたらよいのか分からないのだ。
右も左も、上も下も、どこもかしこも真っ白。その上蠢く白い塊や細かい粒によって地形も分からなくなっている。ホワイトアウトという言葉が頭を過ぎった。あれは濃い霧のことだったろうか?雪と雲の区別がつかない状態だったろうか?
白く蠢くものは、紫色の両眼をこちらに向け、近づいたり遠ざかったりしているように見えた。白い竜巻の中で一緒に渦を巻いているのか、あるいは竜巻の中心が紫色の眼にも見える。
「聖女ミスズ、何をしているっ!」
え、と我に返ったわたしは、誰かに右手を引かれて動き出した。
足元には石の感触があり、どうやら雪が積もっている上にいるわけではないらしい。走ることができた。
「あ、あの。あの?」
わたしを引っ張っているのは黒ずくめの姿だった。”闇梟”その人だ。
なぜ彼女がわたしを助けるのか、理解できず困惑する。
視界が真っ白だったため分からなかっただけで、場所はあくまで宿屋の二階だったらしい。階段を駆け下りた先には暖炉のある大きな部屋があった。
「雪兎は熱に弱い。火のある場所であれば近づかない」
早口にそう言った覆面女性の方を見やろうと右を向いたわたしは、パカッと馬鹿みたいに口を開いた。
そこにいた女性は覆面をしていなかった。そればかりか黒ずくめでもなかったのだ。王都でもチラホラ見かけたアクアシュタット王国で多く見られる伝統衣装の上に外套という、村娘でございと主張する服装。当然刃物も持っていない。顔立ちこそ東洋系だからフォアン帝国出身者に見えるけど、この服装であればアクアシュタットの人間だと疑う人は誰もいない。
驚いているわたしをよそに、わたしの周りは騒々しくなった。
部屋から出るなと言われていた聖女が勝手に出てきてしまったため怒られるかと思ったが、救出に行けないので向こうから来てくれて助かったと伝えられる。
ちゃっかり居座った元覆面女性はたまたまこの宿に居合わせた地元民を名乗った。
宿屋破壊されたのは雪兎という生き物のせいらしい。魔物だと短く説明されたが、雪と言われるだけあって熱には弱く、通常は人家に近寄って来ない。ただ、最近出現頻度が多くなっている、ということだった。
日本にもユキウサギというのはいたけれど、野ウサギの一種で、冬の間だけ真っ白の冬毛になる生き物だったと思う。
「残りの行程を急がなくては……」
護送メンバーの一人が重苦しい表情を浮かべる。
国境へ向かう護送馬車の周りを囲むメンバーは三名。護衛としては少数精鋭にも程があるだろうという感じだから、もしかしたら護る気はないのかもしれないと思わないでもない。襲撃でもあった際にはひとたまりもないだろう。
内訳はシンプルで、馬車の御者と、馬車前方を行く先導、それにわたしに飴玉を差し入れてくれた看守さんだった。看守が護送までするのかと驚いたが、もしかしたらわたしに飴玉を差し入れたことがバレて一緒に左遷されたのではと思うと大変心苦しい。お詫びをしようにも、わたしの声は聞こえているのかどうか分からないそぶりをするのでよく分からなかった。
馬車の御者さんは三十代から四十代の男性、先導さんは三十前後の男性、元看守さんは二十代そこそこの、女性である。
そう、女性なのだ。中性的な顔立ちと看守服が凛々しく似合うことに加えて女性特有の丸みを感じさせないスレンダーなスタイルのため、牢屋の暗がりではよく分からなかったのだけど、明るいところで見れば一目瞭然だった。飴玉がお好きなのか、ここまでの三日間もふと気づけば食べているのを見かける。
「魔物の出現で足止めを喰らった旨、王都に伝えに戻るべきだ。この人数で村まで護送するのは難しい」
先導さんがそう言うのを、元看守さんが首を振る。
「いや、いち早く向かうべきだと思う。現れたのは雪兎で、地元の者によればあくまで街道沿いに出現するだけだということだった。ならば、村と村の間の移動を速めれば問題はないはずだ」
「バカな!雪道だぞ?これ以上速度を上げるなんてことは」
「そ、そうですよ!魔物が出るのにこれ以上行けなんてそんなこと、そんなことは契約違反です!」
必死なのは御者さんだった。どうやら御者さん自身は国の兵士さんというわけではなく、馬車ごと契約をしているというわけだったらしい。そうなれば彼の優先順位は任務よりも自分と馬車の無事に決まっている。
「ただでさえも足場が悪く、馬が嫌がる道なんです。魔物まで出ると言われてはこれ以上はいけません!どうしてもとおっしゃるなら違約金はお払いしますから、どうか、どうかお許しください!」
そこまで言われては元看守さんもごり押しできず、急ぐ案は却下されたようだった。先導さんが三日かけてきた道を戻って王都へ連絡に向かうことになり、わたしはそれまで村に滞在しろということらしい。元看守さんが苦々しい表情を浮かべているのを見ながら、わたしは暖炉のそばで身体を暖めていた。もと居た部屋が壊れてしまったので代わりの部屋を用意するよう元看守さんが交渉しているのだけど、部屋を修繕する必要があるため宿屋としては二階自体を封鎖したいということらしい。
「私が裏道を案内しましょうか」
ふいに、そう元看守さんへ話しかける声があった。
にこにこと笑顔を貼りつかせた村娘風の恰好をした女性。このひとの敬語なんて実のところ違和感しか感じないのだけど、元看守さんは訝し気にしただけで不審に思った様子はない。
「馬車用の回り道を使わなくていいのでしたら、ショートカットできる道をいくつか知っています。どちらの村へ行かれるんですか?」
他の客もいる場所で聞かれたことで、元看守さんは機嫌を損ねたようだったけれど、「先ほど彼女を二階から連れてきてくれた者だな。地元の者だと言っていたが」と確認するように尋ね返した。
「はい。このあたりについてでしたら、誰よりも詳しい自信があります。徒歩でもよろしければ、ですけど。雪狼が出たってことは今夜は吹雪くかもしれませんし、歩きなれてないひとにはちょっと難しい道かもしれないですね、止めておきます?」
「案内役の報酬は後払いになる。それでも構わないか?」
「いいですよ」
にっこりと、貼りつけた笑みで元覆面女性は言う。
「私、フクと言います」
元覆面女性こと、フクさんは、元看守さんが荷物をまとめるなり出立を告げた。
あの黒ずくめのどこに隠していたのかぶ厚い防寒着を着込んで、何食わぬ顔で先導用のランタンを手にする。雪が降ってきた場合に視界が悪くなるからと、雪兎避けらしい。
わたしはと言えば、着たままだったコートの上から肩掛けバッグを持ち、中に当座の食料と水とを入れて持っている。これは、元看守さんが馬車の中から運び出してきたもので、乾燥野菜粥よりもさらに携帯に向いた品、乾燥肉である。見かけはビーフジャーキーに見える。さらに予備用の火種も入れておいた。
元看守さんは選別した品をリュックのような背負い袋に詰め込んで、手には短い槍を持っていた。看守をしている時も持っていた品だ。よほど愛用品なのかもしれないけど、金属でできた槍先は凍りついてしまいそうだし、うかつに触れたら張りついてしまうのではないかと思うと怖い。
「聖女にまで荷物を持たせるとは……」
そう、わずかに葛藤している声が漏れていたが、自分で飲み食いする分くらいは自分で持ちたいと思うのが人情ってものではないだろうか。馬車ならともかく、徒歩なのだし。
「お名前をうかがってもよろしいですか?」
しれっとした顔でフクさんが尋ねてくる。迷いを隠そうともしない表情を浮かべた後、元看守さんは「マイツェンだ」と答えた。
わたしはといえば、聞かれなかった。「彼女の名は聞かない方が身のためだ」と元看守さん――マイツェンさんが断ってしまったからだ。悲しい。フクさんは例のごとく「そうでしたか」としれっと答えた。
三人だけになってから、マイツェンさんは目的地の村の名前を告げた。彼女としてはおそらく、名前を知らないという可能性も考えていたのだと思う。隠れ里みたいな場所だろうから。けれどフクさんはなんでもないことのように「分かりました」と答え、そのまま雪道へと歩を進めた。
容易な話ではなかった。
冬用の装備を整えているとはいえ、スキーウェアを着込んでいるわけではない。しかもスカートである。当然寒い。
サンダルよりははるかにマシだとはいえ、ブーツだって頼りない革製。内側にもこもこがあるわけでもなく、外から雪が入りこんできたり、染みこんだ雪が靴下越しに肌を凍らせようと企んでくる。ぶ厚い靴下で良かった。
山道ってだけでも大変なのに、雪。さほど積もっていないのが救いだった。真っ白ではあるけれど、もともと道だった跡がうっすらと分かるし、前の人の足跡を追いかければ歩ける。滑るので一歩一歩確実に進まないといけないのと、長いスカートで歩きづらい点は慣れるしかないんだろう。
一番問題なのは降ってくる方の雪だ。粉雪というよりはぼた雪に近いそれが、視界を白く染め上げて前方を見づらくしてしまっていた。目の前にいて槍の柄を杖代わりにしているマイツェンさんは見えるけど、その前を行くフクさんの姿が霞んでいるのだ。
はぁ、はぁ、と息が切れる。
寒いし、凍えるし、手足の感覚がないし、全身が重たいしで、ああせめてここにスキーウェアがあれば、上も下ももっこもこで包まれたい、いっそのこと家の中に閉じこもりたいと思いながらも、ひたすら歩く。
わたしにはフクさんの狙いがまったく分からなかった。
わたしたちが向かう予定にしているのは、彼女が行かせたくなかった『フクさんの故郷』のはずである。
ということは?案内役を引き受けたと見せかけて、このまま奈落の下かなにかに案内されてしまうのだろうか?どうしても疑惑は浮かんできて、すぐにはフクさんを信用することはできなかった。
一方のマイツェンさんについては、フクさんを信用しているのかいないのか、よく分からない視線を向けている。ピリピリと短い槍の先端を向けてはいるが、刺す気があるようには見えないし、そもそも信用していなければ雪道へ一緒に行くような真似はしないだろう。こちらも狙いが分からない。
同伴者の狙いが二人とも分からないのについていくというのは不安が募り、わたしはどうしても足が鈍る。
その上、フクさんが案内する道は整備された道ではなく、斜面に開いた獣道のような道なのだ。歩きづらいことこの上ない。ただ、確かに人が使っているようすで、周囲の木に邪魔されることはなかった。
時折マイツェンさんが振り返る。物問いたげな視線ながら、何を言いたいのかはよく分からない。一方のフクさんの方は分かりやすい。視線が雄弁に語るのだ。具体的には「くふふ、やはり聖女なんてものはロクに歩きもできない足手まといだ」といった視線である。その通りなのでごめんなさい。
「あ、あの」
「どうしましたか?名前を尋ねてはいけないお方」
「……、い、いえ、その。目的地まではどのくらいの距離があるんでしょう?」
「そうですね。この道を進むことができれば、夜には」
「夜?」
訝しげに口を挟んだのはマイツェンさんだ。「馬車で四日はかかる道だぞ」
「ええ」
疑問の答えはすぐに分かった。
雪ばかりの道を進んで小高い丘を上り切ったところ、目の前に見えたのは崖だったのである。
「あ、あの」
まさかと思いながら視線を向けた先で、フクさんは今度こそ楽しそうに笑っていた。
「崖の下まで落ちれば、すぐです」
そうして、彼女は軽々と飛び降りたのである。
種を明かせば、崖の下に下りるためのロープのようなものがあったし、かなりガッチリと結んであったので、ロープを手がかりに滑り降りることもできた。雪があったので転げはしたけれど怪我をしたりもしなかった。だけど、雪のせいで視界も悪い崖の下に、飛び落ちろというのは相当に覚悟が必要だったことも確かで。わたしとマイツェンさんが思い切るまでは、各々十分くらいは躊躇い時間がかかったような気がする。
ズザザザザザザザザ……。
地面らしき固い場所に足がつくまでの間、ぎゅううううっと目を閉じてロープの感触だけを握りしめる。ロープが途中で切れたり、なくなっていたらどうしようと、湧きたつ不安に唇がガチガチと音を立てた。このまま雪に埋もれてしまうかもという恐怖もあった。
気を失ってもおかしくなかったのに、わりと図太いわたしのこと、グラグラと気分が悪くなってしばらく身動きできなかっただけで、意識を手放しはしなかった。
崖のうえから、わたしは一時間以上転げ落ち続けた。




