#095 虎は伏し、影は踊る(前)
百ちゃんのスパイ大作戦。
元亀四年(西暦1573年)四月 信濃国 上伊那
信濃国は一見広大だが、その大半を険しい山々が占め、耕作に適した平地が点在する地勢となっている。
そんな限られた平地の一つ、南信濃の上伊那に建つ寺院にて。
一人の尼僧と巫女が、縁側で話し込んでいた。
「では、古より受け継がれて来た諏訪の血を継いでおられるのは、高遠のお城にお住まいの諏訪四郎殿を措いて他にはおられないのですね。」
「ええ、ええ。わたくしもまさか御料人様…諏訪四郎殿の母君があれほど若くしてお隠れになるとは、思いも寄らず…。」
どちらかと言えば、尼僧が一方的に話し、巫女は時折相槌を打っているだけだったが、その拍子が絶妙であるがゆえに、尼僧は喉の乾きすら忘れて話し続けていた。
「真に…人の世というものは何がどう転ぶやら。四郎殿は諏訪の惣領として信濃で名を上げていかれるものとばかり思っていたのだけれど…信玄公も不承不承ながら跡継ぎとしてお認めになられたようだし、武田の家を継ぐ事に疑いの余地は無いでしょう。」
「不承不承、でございますか。」
「ええ、ええ。何せ四郎殿の諱には、武田の嫡流が代々継いで参られた『信』の字が用いられておりませんもの。嫡男として盛り立てる心積もりが、信玄公に無かった証にございましょう?お労しや、母君と早くに死に別れ、父君の都合で彼方へ、此方へ、と…諏訪や高遠に所縁を持つ者は皆、四郎殿に心を寄せておいでですわ。」
「成程…諏訪高遠の方々にそれ程慕われるとは、四郎殿の器が大きい証にございましょう。」
「ええ、ええ。甲斐国のお歴々も、早くその事を受け入れてくだされば良いのだけれど…。」
柔らかな陽射しの下、雑談はいつ果てるともなく続いたが…正午を告げる鐘の音で尼僧が我に帰ると、巫女は別れの挨拶を述べ、寺を後にした。久し振りに胸の内をさらけ出した尼僧は、すっきりとした心持ちで日々の雑事に戻る。
と、そこに先程の巫女と同じ格好をした一団が現れ、「御免、誰かおられるか」と応対を求めた。
「まあ、まあ。何の御用にございましょう。」
先程の巫女と歓談していた尼僧が応対に出ると、一団の先頭に立っていた巫女が微笑みながら口を開いた。
「我ら一同、修業のために諸国を廻っておりまして…この辺りを一門の者が通りはしなかったか、と。」
「ええ、ええ。ついさっき、ここでお話を…左様にございましたか、同門の…」
「その者はどちらへ?何をお話に?」
被せるように浴びせられた言葉に、尼僧は意表を突かれながらも記憶を辿った。
「確か…越後(新潟県)に向かわれると、そう仰っていたような。話したのは諏訪四郎殿にまつわる由無事を、取り留めも無く…。」
「…成程。成程、成程。かたじけない。では、これにて。」
巫女は一方的に話を切り上げると、踵を返して寺から出ていった。
他の巫女もそれに続く。
「越後に逃げ込まれては厄介にございますね。」
尼僧と話していた巫女――武田家が擁する非公式の諜報・工作機関『歩き巫女』の組頭に後続の巫女が話しかけると、組頭は「いいや」と殺気のこもった低い声で言った。
「ヤツの足跡が浮かんだのは諏訪から南だ、我らを撒くための方便だろう。このまま南に向かい、三河か美濃に抜けようと企んでいる筈…万に一つ越後に向かっていたとしても、どこかで網にかかる。我々は南に向かうぞ。」
組頭が下した決断に従って、『歩き巫女』達は南へと爪先を向ける。
「我が物顔で信濃を練り歩きおって…洗いざらい吐かせた後、なぶり殺しにしてやる。」
戦国史に詳しい人であれば『歩き巫女』の存在は常識と言っても過言ではないと思われますが、組織の性質上内情については不明な部分が多いです。
情報収集に特化していたのか、対外工作も担っていたのか…興味深い所です。




