#085 冬季特別演習:大藤与七vs早川殿『活路』
戦況:与七軍七番隊~十番隊が早川軍に寝返り
早川軍(北)140vs与七軍(南)60
「な…は…これ、は、一体…。」
意気揚々と前進命令を下した与七は、一瞬で様変わりした戦況に脳の処理が追い付かず、意味のない言葉を垂れ流す木偶の坊と化していた。
「七、八、九、十番隊が揃って寝返り!鑓先をこちらに向け、攻め寄せております!」
伝令が状況報告を繰り返す。
言われなくとも分かる事実だ。
見晴らしの良い本陣からは、早川軍の長鑓部隊と接敵する直前になって鉢巻を白から赤に付け替え、鑓の穂先を文字通り一転させた裏切り者達が良く見える。
「は…反則じゃ!ね、ね、寝返りなど…!」
「いえ、若…御屋形様より下された細則には、『模擬戦中の寝返りを禁ずる』との条項はございませぬ。」
念のため細則を取り出し、改めて目を通していた傅役がうめくように言った。
「おのれ…やはり銭で動く足軽を組み入れたのが間違い…」
「若、それは後で!弓兵に下知を…!」
気弱な傅役のいつになく強い口調に驚きつつ、与七は言葉を絞り出す。
「…守りを、守りを固めるのじゃ!三、四、五、六番隊は矢を放ちつつ後退、本陣の守りを固めよ!地の利はこちらにある!」
幸い敵軍の足は遅く、後衛に徹していた弓兵部隊とはまだ距離がある。追いつかれる前に高所を確保し、上から矢を浴びせれば、撃退出来るかも知れない――。
そんな希望的観測にすがろうとした与七に届けられたのは、またしても凶報だった。
「注進!当方の弓の弦がことごとく切れ…使い物になりませぬ!」
「なぁ⁉馬鹿な、斯様な折に…弦が一時に切れるじゃと⁉」
「若、あちらを…!」
相次ぐ凶報に動揺する与七を、傅役が呼ぶ。ぴんと伸ばした指の先には、本陣の西側の麓を流れる小川、その向こうに建ったままの長屋を長鑓で破壊する十人組がいた。
「…あれがどうした!百姓風情が無益なこ、とを…。」
早川軍の十人組は長屋の残骸を放り込んでいく…いつの間にか水流が絶えた小川の跡に。
「な、何故…何故川が枯れておる!あ、あ、足場が出来てしまうではないか!」
全く無警戒だった西側に突如出現した脅威に、与七は取り乱す一方だった。だが戦況は落ち着く暇を与えてなどくれない。
――早川勢九番隊、これにあり!
――同じく十番隊、これにあり!
鬨の声が降って湧いたのは、本陣の東と南だった。
「ば、馬鹿な…いつの間に斯様に近くまで…。」
地べたに膝を突き、頭を抱える与七に構わず、伝令は戦況の悪化を報告する。
「お味方一同、長鑓に追われて本陣周りまで退いてござる!」
完全に包囲された。
その事実に打ちのめされた与七は、すがるように傅役を見上げた。
「知恵を…知恵を貸してくれ、爺…どうすれば、どうすれば良い…。」
傅役は複雑な表情で重々しくため息を吐くと、厳粛な顔付きになって口を開いた。
「かくなる上は大聖寺殿(北条氏康)の例に倣い、死中に活を求める他無いかと。三番から六番まで弓を捨て、組討に持ち込ませ…我らは二番隊を伴って敵本陣に討ち入る。…それがしに思いつく策など、この程度にございます。」
「…う、うむ、分かった。その策で行こう。うむ。」
(雑兵を丸ごと捨駒にして勝ちを狙うなど、下策も下策じゃが…この際贅沢は言っておられまい…。)
どうにか与七が立ち直った事に安堵しかけた傅役は、次に与七が発した言葉に耳を疑った。
「馬を引け!『若鷹衆』の分もじゃ!敵兵を蹴散らして本陣に攻め掛かる!」
「バッ…若、お待ちを!伝令と軍監以外の騎乗は禁じられて――」
「相論などしておる場合か!向こうも調略や作事など、汚い手を使っておるではないか!我らが律儀に細則を守る道理が何処にある⁉」
あるに決まっている。
早川殿は模擬戦にもかかわらず、実戦さながらの策を弄してこちらを追い詰めている。だが…現状確認出来る限り、その全てが細則に反して『いない』のだ。
にもかかわらず、こちらが真っ向から細則に歯向かえば…良くて模擬戦中断からの反則負け、最悪の場合処罰もあり得る。
(されど…乾坤一擲の下策を献上したのはわしじゃ。このまま座して敗北を待つよりは、細則に反してでも勝ちを取り、細則への違背を帳消しにしていただく他無いやも知れぬ…。)
傅役は今日何度目になるか分からないため息を吐いた。
「承知仕った…それがし、地獄の底までお供いたしまする。」
傅役の目に宿る決意に気付かないまま、与七は鷹揚に頷き…連れられて来た愛馬の背中にその身を預けたのだった。
戦況:早川軍に寝返った元与七軍七番~十番隊が与七軍本陣を包囲
早川軍三番隊、九番隊、十番隊が与七軍本陣を包囲
与七軍三番~六番隊が包囲陣に突入
早川軍(北)140vs与七軍(南)60




