#075 大藤政信の戦争(前)
今回は数ある合戦の中でもそこそこ有名であろう、武田信玄の二俣城攻略戦…を、北条の足軽大将、大藤政信の視点からお送りします。
余談ですが、この書き出しで『オチ』が読めた人は相当史料を読み込んでいらっしゃると思います。
元亀三年(西暦1572年)十一月二十八日 遠江国 二俣城
「世の中、ままならねえモンだなぁ…。」
冬の朝の冷気を甲冑越しに感じながら、大藤式部丞政信は独り言ちた。
朝靄の向こうに見えるのは徳川の兵が籠る二俣城。
政信の周りでは足軽や人足が、そこに向かって伸びる人の背丈程の深い壕――言うなれば空堀――を掘る作業に没頭している。
と、そこに後方から政信直属の手下の一人が駆け寄った。
「本陣から催促が。そろそろ撃ちかけてはどうか、と…。」
「まだ壕が出来てないと言っときなァ。」
政信が手下を振り返りもせずに言うと、手下は一度逡巡してから政信の耳に口を寄せた。
「…信玄の脇に侍ってる『武藤喜兵衛』とか言う若造が妙に切れるみてえで…『我が方の金堀衆に劣らぬ手際、見事也。既に鉄炮が届く間合まで掘り進めたものとお見受けする。疾く、疾く撃ちかけられたし』…これ以上の誤魔化しは効かねえかと。」
「そうかい。これまでのらくらと逃げ回って来たツケが回って来たって事か…。」
言葉とは裏腹に、政信はふてぶてしく笑った。
直率する足軽衆、『渡鴉』を率いて武田が支配する駿河国へ入った政信は、早川殿から受け取った証文の恩恵に大いに浴する事となった。
まずは援兵の慣例として、武田が用意した兵糧や宿舎を優先して使用する。貰える物は貰っておくの精神だ。
しかし兵站技術が未発達なこの時代、『渡鴉』が飯や宿、武器や防具にあぶれる事態はしばしば起こる。そこで政信は武田の担当者に形ばかりの抗議を入れると、早川殿から貰った証文を持って近辺の有力者に相談に行くのだ。
何しろ行く所行く所、証文を見せれば態度が急変する。それまで「北条の足軽大将…?今川を見限った薄情者の手先か」と言わんばかりの白い目を向けていた連中が、証文を見せるや「ほう!御前様…ゲフンゲフン、今川上総介殿の奥方の口利きで!大したもてなしも出来ませぬが、どうぞこちらへ…」といった具合だ。
お陰で政信と『渡鴉』は――流石に毎日、とは行かなかったが――駿河への入国から駿府での駐留、徳川領への進軍に至るまで、飢えや野宿とはほとんど無縁の生活を送る事が出来た。
唯一と言っていい例外は駿河随一の豪商、友野屋宗善。直接面会を申し込んで門前払いを食らったものの、そこに隠された意図がある事など政信にはお見通しだ。
断りの返事を持って来た番頭が『置き忘れた』覚書こそ、駿府から東海道筋を西進する際に当てになる寺社が示された地図だったからだ。
(上総介殿と早川殿には内証だったが…いよいよ進退窮まったら手頃な村を根切にして足軽の飢えと不満を満たす腹積もりだったんだよなァ…それがここまで手を汚す事無く来られるたあ…或いは早川殿もそれを危ぶんで証文を下さったのかも知れねえが…。)
薄くなる朝靄の向こうを見やりながら、政信は回想の締め括りに入る。
戦況は概ね、早川郷の今川屋敷で氏真が予想した通りに進んでいる。
武田軍は四正面から徳川領と織田領東美濃に進攻。南北遠江と奥三河に同時に進攻を受けた徳川の対応は完全に後手に回り、浜松城の徳川軍本隊はまともに反撃出来ずにいる。
そこで信玄が次の標的に定めたのが二俣城だった。
北遠江の要衝にあたるこの城を囲み、じわじわと締め上げる事で家康を引きずり出して野戦で打撃を与える――いわゆる後詰決戦を行う方針で軍議が決した時、政信は攻城部隊ではなく、浜松城方面に布陣する迎撃部隊への編入を志願した。
表向き損耗の激しい野戦で功名を上げるため…としつつ、その実は浜松城から家康が出陣する可能性は低いと踏んでの行動だったが、その選択は正しかった…二日前までは。
「武田の忍びも侮れねェな、三河守(家康)の存念を透っ破抜くとは…。」
「頭目の言う通りで。『二俣城への後詰はしない』…もうちっと迷っててくれりゃあ二俣城攻めに本腰入れなくて済んだってのに…。」
家康の不出馬を知った信玄は一転、二俣城の攻略を急ぐ方針に切り替えた。そこで目を付けられた『渡鴉』も、武田の足軽衆と轡を並べて二俣城に攻め寄せる役目を負う羽目に陥ったのである。
「まあいいじゃねえか。御屋形様(北条氏政)は徳川と事を構えたくねえだろうが…俺達の今の主は信玄公、やれと言われりゃやるしかねえ。…この所、根小屋と詰所を行ったり来たりで刀が錆びちまいそうだったしなァ。」
政信は手下の方に振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。
「始めるぞ――土をかき上げろォ!竹束、鉄炮放、用ォ~意!」
これまた『そんな事はとっくに知ってるよ』という方もいらっしゃるかも知れませんが、武田信玄の側近である『武藤喜兵衛』をクローズアップしたのは、彼が後の『真田昌幸』だからです。
主人公と絡む機会があるかどうかは、今後の展開次第です。




