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#070 完璧⁉スローライフ(前)

「あ、あれは…サービス・カット!」

「知っているのか〇電!」

「サービス・カット…卓球の第一打、即ちサービスにおいて、強力な逆回転をかける攻防一体の技。

生半可な返球では相手のコートに打ち返す事すら叶わぬ…。」(出典:民明書房)

元亀三年(西暦1572年)九月 相模国 箱根


「はあぁぁぁ…いい湯加減ねえ。」


 秋晴れの空の下、乳白色の温泉に肩まで浸かりながら、私はしみじみと呟いた。

 いやホント、大量のお湯にのびのび浸れるというのは、戦国(この)時代結構な贅沢なのだ。

 日々の『入浴』と言えば、サウナみたいな蒸し風呂で体表面の汚れを浮かせて拭うか、桶に張った水で手拭いを濡らして体を拭うか、の二択しかない。現代日本のように、浴槽にお湯を張って全身入浴、なんてのは滅多に無いのだ。


「母上、わたくし、湧湯(わきゆ)に浸かるのは初めてにございます。」


 一緒に入っている娘、紬が興奮気味に話しかけて来る。

 日頃から事務的に対応してしまいがちだが…今の私は温泉パワーのお陰で心に余裕がある。


「ふふふ、そう…でも気を付けて。目の前が暗くなったり明るくなったり、気持ちが悪くなったりしたらすぐに湧湯から出るのよ。」

「あらあら…ふふふ、結もすっかり一廉(ひとかど)の母親ねえ。」


 のんびりした声に振り返ると、そこには北条の本城御前様――私の母が同様に温泉に浸かっている。


「め、滅相も無い…本城御前様のお加減はいかがにございますか?」

「大事無いわ。此度は本当にありがとう。大聖寺殿(北条氏康)がお隠れになってからあれこれと無我夢中で取り組んで来たけれど…疲れが溜まっていたのねえ。節々の痛みがかき消えていくようだわ。」

「お祖母(ばあ)様がお元気になられて、わたくしも嬉しゅうございます。」


 祖母、娘、孫娘の三人が談笑する。

 前世では考えられなかった幸せな空間を、私は堪能していた。




 この数か月間、早川郷に居を構える今川家は、乱世とは無縁も同然の日々を送っている。

 切っ掛けは五郎殿はじめ、今川家が戦力外通告を受けてしまった事なのだが、幸いにもそれで五郎殿が自暴自棄になって家庭内暴力に走ったり、不貞腐れて寝込んだりといった事態にはならなかった。

 五郎殿のライフスタイルは今までと変わらず、朝から晩まで武芸の鍛錬や読書といった『自分磨き』、一日二食~三食の食事も欠かさない。たまには氏政兄さんの命で登城したり、早川郷(りょうち)の様子を見て回ったり、来客をもてなしたりといったイベントもあるが…大抵は大きな騒動に発展する事もなく終わる。

 それに加えて重要なのが、およそ一か月に一度の割合で持ち掛けられる家族旅行の相談だ。と言っても、行き先は相模国内、費用は全額私持ちなのだが、(原則)五郎殿のお金は公務に使うお金、正妻(わたし)のお金はプライベートに使うお金なので大した抵抗は無い。

 五郎殿も『どこに』『誰と』『何日くらい』行きたい、という希望は出すが、私と相談する間にどうしても外せない用事があるとか、日取りや方角に難があるとか、そういった事情を加味して計画を延期したり修正したりしてくれる。

 最初の家族旅行は鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)詣で。去年私が生前の父上、そして母上と一緒に行った行程をなぞるように、鎌倉の有名どころを一巡りして帰って来た。

 その次は鎌倉のさらに東、三浦半島の三崎城で舟遊び。城主の氏規兄さんから誘ってもらったお陰で、宿泊費がタダ。夕食は昼に釣り上げた海の幸という至れり尽くせりの旅行だった。

 そして今回、箱根湯本の温泉宿に宿泊する旅には母上も一緒だ。母上が留守の間、小田原城内の面倒は補佐役の蘭姉様が見ると約束してくれたお陰で、母娘三代そろっての温泉旅行、という運びになった訳だ。




「母上、今思いついたのですが…領民一同が湧湯を使えるよう、手配りしてはいかがにございましょう。きっと皆様、喜んでくれると思うのですが…。」


 感慨に浸っていた所に紬の提案。反射的に却下しようとして、すんでの所で思いとどまる。

 …正直、公平性とか、経費とか、一回こっきりだと後々不平不満が溜まるんじゃないかとか、色々不安要素はある、が…せっかく紬が提案してくれたものを『子供の戯言』と切って捨てるのも悪い気がする。


「ん、んん…湧湯に浸かりながら領民の労苦に思いを馳せるだなんて、紬は立派ね。でもここでは頭に血が上って考え事に向かないわ…湧湯から上がって、体を拭いてから、ゆっくり話し合いましょう。」


 最悪、問題点を端からあげつらって潰す結果に終わるかも知れないが…幸い紬は『利害調整』や『経費』といった『大人の事情』にも理解を示してくれる早熟な女の子だ。妥協点を探る話し合いにも応じてくれる筈…そんな私の打算を知ってか知らずか、紬ははにかむような笑顔を見せたのだった。

 …ヤバい。

 もしかして私の娘、世界一可愛い…かも。

やだ…この母親チョロ過ぎ…?

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