#028 栗田夫妻いらっしゃい(前)
X=(日本一有名な東京のお巡りさん+世界一有名な怪盗の孫)÷2
元亀二年(西暦1571年)三月 相模国 早川郷
「かあ~~~~っ、これよこれこれ!口噛酒とは比べ物にならねえ口当たりの良さ、水みてえにスイスイ飲めちまうノド越し!やっぱり江川酒は格別にございますなあ!」
春真っ盛り。温かい日差しが降り注ぐ中、屋敷の広間で胡坐をかいていた、特徴的な外見の中年男性が大きな声を上げた。
特徴的な外見とは、端的に言えばゴリラ…いや、チンパンジー…?とにかく、類人猿と言っても差し支えない毛深い胸元、二の腕、そしてごん太眉毛の事だ。
名前は栗田勘吉。
職業、江戸町奉行同心――町民の暮らしの平穏を守るお巡りさんみたいなものである。
――ばしぃっ!
「あんた!もうちょっと慎ましく飲みなさい!上総介殿(五郎殿)と早川殿(私)の御前だよ!」
その頭を、白魚のように細くしなやかな指からなる平手がいい音ではたく。はたいたのは隣りに座る女性…勘吉殿の妻、お藤さん。
キリリと吊り上がった目尻、ボンキュッボンのナイスバディ。既に何人もの子供を産んだとは思えない、ドの付く美人である。
「堪忍してくれよお、お藤ぃ…ちょおっと行って帰って来る積もりだったのに、ひと月以上も付き合う事になるとは思わなかったんだよ…。」
上座に並んで座る私と五郎殿の前で弁解しながら、勘吉殿が頭をさする。
勘吉殿が「付き合った」のは、氏政兄さん率いる北条勢の軍事行動だ。
昨年末、武田信玄率いる軍勢が、駿河に残る北条の勢力圏に対してまたも侵攻を開始した。氏政兄さんは動かせる戦力を急遽救援に充当しつつ主力部隊の編成に着手。正月のお祝いもそこそこに、10日に小田原を出陣した。
既に戦力を回復していた五郎殿もこれに従軍したのだが、この時たまたま早川郷の今川家を訪問していたのが、栗田勘吉、お藤夫妻の二人である。
「こいつは重畳!いっちょう左京大夫殿に加勢して、戦場で獅子奮迅の鑓働き…日頃の御恩をお返しするついでに、大手柄を挙げて褒美をたあんともらって来らあ!」
生来山っ気の強い勘吉殿は、そんな大風呂敷を広げると、足軽募集の列に加わった。そして意気揚々と戦場に向かった…までは良かったのだが、戦果は散々だった。
武田信玄の巧みな攻城戦術によって深沢城は開城――氏政兄さんの目の前で。一戦も交える事無く帰れるか、と武田の陣に攻撃を仕掛けた北条勢だったが、深沢城失陥と引き換えになる程の戦果を挙げる事は出来ず、そのまま撤退の運びとなった。
「ちっくしょう…ここまで来といて、手柄ナシで帰れるかってんだ…信玄に最後っ屁を食らわせてやる…!」
と、腹に据えかねた勘吉殿は、深夜こっそり陣を抜け出して深沢城に潜入。軍馬のエサに毒草を混入して下痢ピー状態にするという破壊工作を成功させ、武田勢に少なからずパニックをもたらした。
…問題は北条勢が小田原への帰路について数日後、夜営中に、勘吉殿が自身の「武勇伝」を他の足軽達に披露した事で表面化した。
「無断で陣中を抜け出して敵に損害を与えた足軽を、賞賛すべきか処罰すべきか。なお、この足軽は本来の職務を放棄して従軍しており、敵に与えた損害の程度も不明である。」
氏政兄さんが直面した問題を端的にまとめると以上のようになる。
何はともあれ軍隊組織、構成員が命令も軍紀も無視していては、勝利は到底覚束ない。しかし近現代の軍隊と違い、この時代の軍隊は、多少ルール違反を冒しても、戦果を挙げれば黙認してもらえるという不文律がある。
となると、深沢城失陥の痛手を少しでも挽回したい氏政兄さんとしては、勘吉殿を大いに賞賛して味方を鼓舞したい所だが…残念な事に、勘吉殿は事前に申請していた休暇を大きく超過して職務放棄真っ最中。しかも「武田の軍馬のエサに毒草を混ぜた、具体的に何頭が腹を下したかは不明」では、真偽のほどが分からない。
もしこれを軽率に賞賛し、褒賞金まで出してしまったら、今後領内に動員をかけた際、呼んでもいない後方要員が従軍した挙句、真偽不明の「戦功」を並べ立てて、ご褒美をおねだりするという事態が頻発しかねないのだ。
数日後、氏政兄さんが出した結論は――。
「お務めを蔑ろにして、噓か真かも怪しい手柄話をフカしてた足軽を、お咎め無しどころかお褒めの言葉までくださったんだ。左京大夫殿に褒美をもらえなかったからって恨んじゃいけない、むしろ有難く思わなきゃいけないよ、あんた。」
「わあってるよ…。」
「お奉行様にもお詫びするんだよ。あたしも付き添うから…。」
「冗談よしやがれ、手前のケツは手前で拭けらあ。」
「物を飲み食いしてる時に、そういう事を言うんじゃないよ!」
と、勘吉殿とお藤さんが夫婦漫才じみたやり取りをしていると、さっきからふ、ふふ、と鼻息を漏らしていた五郎殿がついに笑い出した。
「ほっほっほ…ほっほっほっほっほ…相変わらず仲睦まじい事よ…見ていて心が洗われるようじゃ、のう?」
「まことに…上総介殿の仰せの通りにございます。」
五郎殿の感想に同意を示し、気まずそうに縮こまる夫婦に生暖かい視線を送る。
今更だが、どちゃくそ落ちぶれたとは言え名門今川家の夫妻の前で、百姓以上侍未満の勘吉殿達が自宅同然に振る舞っているのは何故なのか。
その背景には、奇妙な運命の巡り合わせがもたらした10年来のお付き合いがあった。
栗田勘吉というキャラクターの原点は、前作「転生したら北条氏康の四女だった件」を投稿していた際に、読者の方から寄せられた情報によるもので、戦国時代の駿河国東部に「栗田何某」なる氏族が存在した事から着想を得たものです。
お藤はある意味元ネタと同じで、富士山から取りました。




